第25話<戦いの儀式Ⅷ>
式守と猿渡は再び盛り上がり始めた宴会場を掻き分けて進み、建物の外へと出た。
それから、会場近くに開設されていた儀式に供せられる
大きな天幕に足を踏み入れる。
猿渡はすれ違う知り合いに声を掛けながら進んでいくが、式守が知っている人間など誰一人としていない。
金魚の糞のようについて行くだけだ。
巨大な天幕の中、猿を閉じ込めた檻が並ぶ棚の隙間を進む。
猿たちが奇声を上げて騒ぐが、猿渡は気にも止めずに歩く。
獣の臭いに満ちた天幕の一番奥まで行くと、そこで作業していた男に猿渡は声を掛けた。
「よう、周藤。さっきの死に損ないの猿、まだ生きてるか?」
「ああ、まだ生きてるよ」
驚きもせず、周藤と呼ばれた男が振り向く。
彼の正面にはビニールシートを被せた長机があり、その上には浅い呼吸を繰り返す子ザル――式守のナイフが突き刺さったままの戦闘猿が血の海の中で横たわっていた。
猿渡に応えた男の声が、苛立ったように聞こえたのは気のせいじゃないと式守は感じた。
「で、どうなんだ?」
「主語が抜けていて意味が分からんぞ」
挨拶もそこそこに猿渡が切り出したが、周藤は苛立ったような口調で聞き返した。
「そこの猿を、ペットに出来るのかって話」
猿渡は横たわる子ザルを指差しながら聞き直し、周藤は猿渡の言動から察して、式守に目を向けた。
微妙に居心地の悪さを感じつつ、式守は会釈するように頭を下げた。
つなぎの作業服を着込んだ周藤の服には階級章の類いは見当たらなかったが、見た目は三十代ほどの男だ。
年齢的には猿渡と同じぐらいで口調もとても砕けている。
立場的にも階級的にも近い人物だろうと見当を付けた。
「ああ、コイツが噂の博愛主義者か?」
開口一番、周藤の口から出た単語に式守は目を白黒させ、やがて猿渡は大声を上げて笑った。
「あはははッ! それはいいな。コイツは俺の教え子だが、動物愛護団体所属じゃねぇよ。ただ、ちょっと、お馬鹿なだけだ」
「へぇ、お前の教え子なら阿呆なことを言い出すのも納得がいくな。だが正直、俺にはそれほどの馬鹿面にも見えないが?」
「なんだそりゃ。気持ち悪いこと言うんじゃねぇよ」
「気にするなよ。ちょっと本音を零しただけだ」
「式守二等兵です」
周藤は式守をジロジロと品定めするように視線を向け、式守は取り敢えず挨拶した。
周藤の役職だけは想像が付いた。
この人が、あの戦闘猿の調教師で間違いない。
「おう。で、お前、本気で、あの猿を貰い受けに来たのか?」
「……はい」
式守が周藤の問いに答えるまでに微妙な間があったのは、少年の心に微妙な迷い――自分が餌を用意出来るか――があったからだ。
「猿渡、本気か?」
周藤は訝しげな視線を隠しもせずに正気を疑った。
「このクソな
一緒にされては心外だと大げさな表情を作って訴える。
「ノーナンバー?」
「失敗作、出来損ないって意味さ」
猿渡は教え子に親指を向けて示した。
「また……酷い渾名を付けたものだな。全く、ほどほどにしとけよ」
「今さら人格が変わるかよ。もう遅すぎるだろ」
「そりゃ、そうだな。死ぬ以外、救いようがない」
軽口をたたき合う二人に、式守は微妙に苛ついた。
さらにいえば、臭気で鼻が曲がりそうだ。
密閉空間故に様々な臭いが充満している。
煙草と獣の臭い、そして瀕死の子ザルの血溜まりから漂う鉄の臭いが鼻を突いた。
「ここに来た理由は、その猿が治る可能性があるかどうかってことを確認したいのさ」
中々要件に切り込まない猿渡に式守が焦れた様子を隠せなくなった頃、助教はやっと本題を口にした。
それに対する調教師の答えは端的だった。
「肝臓の大静脈まで切れてる。治療できるわけないだろ。割にも合わんし、もう人の言うことも聞かん。破棄処分だ。せめて、優しく《・・・・》してやるだけだ」
「お前が処分するのか?」
「これも仕事だからな」
小さく肩を竦めながら、毎年のことで慣れているよ。と、周藤は付け加えた。
「悪いが、それを少しだけ待ってくれ」
「ああ?」
露骨に歪んだ笑みを浮かべた猿渡を周藤は軽く睨んだ。
知り合ってから相当経つが、この男は変な奴であることを再認識する。
少し? いや、大分普通ではない。
猿渡は教え子へゆっくりと振り向き、今の今まで恋人を待ち焦がれていたかのように、あるいは邪悪な何かが囁くように、笑いながら口を開いた。
「式守、嫌なんだろう? 猿を殺すのが」
猿渡はわざとらしく言葉を区切り、返事を待った。
式守でも引き下がっても無駄だと理解できる。
こくりと頷くだけの返事をした。
「だけどよ、お前が殺さないと、調教師として長く面倒を見てきた周藤が殺すことになるんだ。正直、お前よりもっと辛いだろうよ。ずーっと育ててきた調教師のひとりだからな。この猿だってペット、いや言うなれば、肉親みたいのものだ」
「…………」
皮肉と侮蔑。
そして、それ以上の何かを邪悪な笑みと共に浮かべた猿渡という男は、式守には何もかもが歪な人間に見えた。
ただ反論は出来なかった。
階級とか立場とか、そんな理由ではなくて、純粋に――認めたくないが、今の言葉は猿渡の方が正しいと思った。
今日初めて出会った猿の延命を希望した自分に比べれば、調教師の方が猿たちの面倒見ていた分、可愛がっていたのではないかと思ってしまうし、それを否定するような言葉は思い浮かばなかった。
「お前、本当に
「悪いが、今は黙っていてくれ」
「ふん!」
見かねた周藤が口を挟んだが、猿渡はその一言だけで終わらせた。
周藤の方はわざと大きく鼻を鳴らして、今は引き下がることにした。
あとで真意を問い詰めようと思ったが、これ以上猿渡に関わると相当面倒くさくなりそうだという気もする。
猿渡はやけに饒舌に喋り続けた。
「この猿は死ぬ。正確には殺処分される。式守、お前がどう思おうと勝手だが、お前に助ける術はないし、生かし続ける術もない。もちろん、俺にも周藤にもない。だったら、人に嫌な役を押し付けるようなみっともない真似をする前に、自分からやるべきことを行なうべきじゃないのか?」
「…………」
激情に駆られた式守は怒鳴りたくなった。
何もかも好んでやったわけじゃない。
誰が好んでやるものか!
この世界が式守を縛り付けている。
異星生命体の脅威に曝されている人類が、少年を軍隊という組織に縛り付けて、こんな生活を強要し続ける。
それでも少年の自制心は激情に勝った。
拳を固く握り締め、感情を押し殺す。
「式守、お前が命の遣り取りである『儀式』に参加した以上、最期の情けを下す義務があるんじゃねぇのかなぁ?」
奥歯を噛みしめて耐える式守に、優しい素振りで口調を変えた猿渡が促す。
似合わない猫なで声だったが、それは部外者である周藤が聞いても気持ちが悪いほど耳障りな、酷いものだった。
「まぁ、止めを刺したくないなら刺さなくてもいい。別に強要はしない。代わりに周藤が、この苦しんでいる子猿を天国に送ることになる」
式守は答えることが出来なかった。
子ザルは何も悪くない。殺したくない。
だけど、自分は生かせない。
式守にはこの状況を打破するような選択肢が思い付かない。
個人の力で状況をひっくり返せない。
組織も規則も仕組みも、何もかも変えられない。
頭の中で意味のない堂々巡りの考えだけが渦巻き続けた。
だが、その葛藤すらも猿渡は許さない。
「お前が
「…………」
細い舌を出し入れする毒蛇のように猿渡が教え子を煽り、式守はさらに拳を固く握り締めた。
誰が進んで、猿を殺したいと言った!?
誰が自ら戦いたいと望んだ!?
みんな班長が、強いたものだ!?
戦いたがっていた荒木を除け者にして、女の天羽に儀式を強要したのも、全て班長じゃないか!?
式守が奥歯を噛み締めたまま、殺意漲る視線で猿渡を睨む。
それは先ほどの戦いと同等か、それ以上のものだったが――。
猿渡は明確な敵意を受けてなお見下し、見せ付けるように鼻で嗤う。
それは絶対の自信だった。
式守など今この場で素手でも始末することが出来るという、猿渡の絶対的な自信であり、その発露でもあった。
「しかも、お前は本当に馬鹿だなぁ~。殺すことしか出来ないのに、それを躊躇うなんざ、慈悲のつもりかもしんねぇけどよ。この一時が、最も残酷な時間だと気付きゃしない。戦うなら、自分の行動全てに責任を持てや。そんなことすら分かんねぇから、テメェは
猿渡は自ら作り出したこの状況を明らかに楽しんでいた。
彼の口角は嬉しそうに歪み上がり、顔に浮かぶ喜色は隠しようもない。
瞳に浮かぶ光は禍々しささえ感じさせる。
ならば、その身を満たすものは狂気しかないだろう。
ただ、式守を挑発する言動は、猿渡が想像していなかった人物も動かした。
「――猿渡、お前もいい加減にしろや。お前の目的がどうであれ、俺にもやらなきゃならねぇ事があるんだよ。理解してんのかよ?」
苛立ちを露わに周藤が口を挟む。
彼には猿渡の思惑も、式守の怒りも関係ない。
調教師として、再使用不可能と判断された動物兵器を殺処分しなければならない。
当然、周藤に猿を無駄に苦しませる気もない。
彼を無視して続く二人の遣り取りに本当に頭にきていた。
猿渡も周藤の怒りを誤らずに感じ取った。
教え子への対応とは違い、彼はあっさりと引き下がった。
「――ん。ああ、まあ、そうだな。確かに時間を掛けすぎた。邪魔して悪かったな」
「まったく、そういった下衆な遣り取りは別の場所でやれ」
周藤は吐き捨てるように言うと、つなぎの胸ポケットから太めの無針注射器を一本取り出した。
太い鉛筆のようなそれは、名称こそ無針だが、実際にはしっかりと太い針がある。
先端を強く押し付けると短い針が突き出して薬剤を皮膚下に注入する類いのもので、操作し易く、特別な資格も訓練も不要なため、軍では個人用に支給されるタイプのものだ。
調教師は先端の保護キャップを無造作に外し、息も絶え絶えな子ザルの脇に立った。
「――俺がやります」
式守の石のような固い声に、周藤は振り向いた。
「お前に出来るのかよ?」
苛つきをぶつけるように睨む。
「やらせてください」
調教師の視線にも、少年の揺るがなかった。
「――だったら、早くしろ」
周藤から差し出された注射器を、少年は無言で受け取った。
卓上の血溜まりに横たわる子猿に反応はない。
式守の背に調教師の助言が送った。
「注射器の中身は筋弛緩剤と麻薬のブレンドだ。どこに刺してもすぐに効くが、左腕に刺してやれ。心臓に近い方が効きが早い。それほど苦しまずに逝ける」
式守は静かに頷いた。
無言のまま
僅かに腕を上げ、注射が刺しやすいようにと子猿の左腕を伸ばした。
突如、式守は左腕に鈍痛を感じたが、それはすぐに霧散した。
この猿に憎しみは感じない。
それを不思議だとは思わなかった。
猿の手を握り、式守が真っ先に感じた事は、子猿はやはり子猿だったということだ。
柔らかく茶色の毛が生えている猿の手は、式守自身の手より一回り小さく、暖かさはあったが、想像していたよりも温もりはなく、そして見た目と違い固く感じた。
あの檻の中で、式守と子猿と戦ってから、まだ一〇分も過ぎていない。
子猿は式守に手を握られても、僅かに目を動かしただけで鳴きも暴れもしなかった。
檻の中では、子猿の動きをほとんど見切れなかった。
だが、その相手はもはや、そういったことが永遠に出来なくなることを悟っている。
握った手の感触から、それを本能的に理解させられてしまった。
――悪い。
式守は心の中で、子猿に対して詫びた。
子猿を殺さなければならない理由など、戦う前にはなかった。
この場に来て、やっと気付いた。
僕には戦う理由はあったけど、殺さなければならない理由は無かったんだ。
上手く戦えれば、別の結末があったのかも知れない。
そんなことは戦う前、何も考えつかなかった。
式守は右手に握る注射器を確かめた。
子猿に触れたら、もうやるしかないと思い知らされた。
猿渡の思惑通りになるは嫌だ。
本当は、殺すのも嫌だ。
だけど、人に不快な役目を押し付けるのも嫌だ。
嫌なことばかりしか無いけど……。
こんな結果を作り出したのが自分であるならば――。
せめて、自分の手で終わらせるべきだ。
(――さよなら)
心の中だけで呟きながら、無針注射器を子猿の左腕上腕部に押し付けた。
短く太い注射針が柔らかい皮膚を貫き、筋肉へと達する1秒にも満たない時間。
わずか1センチメートルもない短い針を突き刺したのに、まるで自分に差し込んでいるかのような錯覚。
子ザルの身体は針を刺した瞬間、少しだけ震えた。
式守が右親指で注射器の後ろのキャップを強く押し込む。
それは微かな抵抗を残し、子ザルへ致死量の筋弛緩剤と麻薬を流し込んだ。
子ザルは暴れなかった。横たわる体には、もう暴れるような体力も気力も無い。
30秒もしない内に、子ザルの呼吸は聞こえなくなり、式守の左手が感じる重たさは増した。
それは子ザルが完全に絶命し、
まだ温もりが残る子ザルの手を握りながら、式守は曖昧だった自分の心が、この子ザルと戦い、何を感じていたかを悟った。
それが式守の骨の髄まで染み込む。
――ああ。やっと、分かった。
何もかもがハッキリした。
戦い終えた後、檻の中で感じた違和感の正体。
僕が感じていたのは親近感だ。
僕は人間で、こいつは猿だけど、ある意味似たもの同士なんだ。
種族が違う。
姿形も違えば、遺伝子も違う。
言葉も通じない。
意思の疎通も出来ない。
過ごした時間は、檻の中で戦った五分にも満たない時間だけだ。
それでも親近感が湧いた――似ていると思った。
そうだ。
似ていたのは僕たちの境遇だ。
生まれた時から消耗品扱いの
遺伝子交雑者として生み出され、軍に命令される僕。
同じだ。
言われるがままに動く、奴隷という立場。
戦闘猿と僕は軍隊の奴隷。
だから、似ていると感じたんだ。
ある意味、君は僕と同じか。
戦う為に作り出された命。
消耗品のような兵士。
僕たちの違いは、人か、猿か。
それだけだったんだ。
結局、僕は生きている。
殺したから、そう思える。
檻に入る前に気が付けば、違う行動を選んだかもしれない。
結局、苦しませただけだね。
ごめん。
そして――お休み。
式守は最後にそれだけを胸中で呟き、それが終わると考える事自体を止めた。
心を無に、顔は石に。
誓うように意識して、腹に落とし込むように念じ、偽りの無い事実として、実行に移す。
式守はゆっくりと丁寧に、突き刺したままだった戦闘ナイフを子猿の遺体から引き抜いた。半ば固まっていた赤黒い血糊を、戦闘服の袖で拭って腰の鞘へと戻す。
それから死後硬直が起きる前にと、右手で子ザルの目を閉じた。
それは久し振りの経験で、映画のようにはうまく行かなかった。
目に触れた時、まだ残る生暖かさと湿り気に内心驚いたが口にはしない。
濃厚な血の匂いが鼻だけでなく、舌にもこびり付いたように感じたが、それも出さない。
それらはすべてが、猿渡が喜ばせそうで嫌だった。
式守は可能な限り全ての表情をコントロールした。
無表情に。
出来うる限り、表情を作らぬように。
意識して顔を固めた。
立ち上がり、猿渡の方へ向き直ろうとした瞬間、会場から大音量でアナウンスが流れた。
『猿渡二曹。聞こえましたら、大至急大隊応接室へお越しください。中隊長がお呼びです。繰り返します。猿渡二曹。聞こえましたら、大至急大隊応接室へお越しください。中隊長がお呼びです』
「こんな時に、なんだ?」
「俺が知るかよ」
猿渡は名残惜しそうに手に持っていたビールを飲み干しながら周藤に愚痴をこぼしたが、調教師はまったく取り合わなかった。彼の機嫌は悪いままで、猿渡はそれにフォローもなにもしないし、する気もない。式守たちを鍛えた猿渡はそういった男だった。
「じゃあな、周藤。手間掛けさせたな」
「胸クソ悪ぃ、二度と来んな」
猿渡は空き瓶を臨時設置のゴミ箱へと投げ込んで踵を返す。
それから何かを思い出したかのように、肩越しに調教師に問い掛けた。
「お前さぁ、殺処分する時に罪悪感ってあるの?」
「そんな事を気にしていたら、農家は家畜を出荷できないぜ」
周藤が苦笑を大きく浮かべると、猿渡も同じように苦笑を浮かべた。
「悪ぃな。愚問だった」
「愚問過ぎるぞ。お前だって必要とあれば、何でも殺すだろ」
「
「お前はそれ以外でも躊躇わないだろう」
どんな者が聞いても嫌みに聞こえるように告げた。
「それは心外だな。人間相手は躊躇うぞ」
「普通はみんなそうだ」
その一言を聞いた猿渡の苦笑はより一層深くなり、そして、その瞳には微かに――だが、確実に翳りに似たようなものが浮かんだ。
「――だと、いいがな」
低い声でそれだけ言い残すと、そのまま猿渡は立ち去った。
式守へは一言も無い。直ぐに人混みに塗れ、見えなくなった。
式守はその場で調教師に一礼し、医務室へと向かった。
少年に残されたのは、疼きだした左腕の鈍痛と、猿渡二殴られた側頭部の熱と、胃が沈むような重たい気分だけだった。
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