第24話<戦いの儀式Ⅶ>
檻から出る途中、式守は椎名に直ぐに医務室へと行くように指示された。
ただ、言われたからといって、少年がそのまま医務室へと行けるとは限らない。
目の前には猿渡二等軍曹が皮肉げな笑みを浮かべ、立ちはだかるように仁王立ちしていた。
「よう、式守」
教え子の名を呼ぶ助教の声には、過剰なほどの嫌味が
式守は姿勢を正した。
左腕から疼く鈍痛で完璧ではないが、だらしないと判断されたら、さらにこの時間が延びてしまう。
「まずは、勝ったことを祝福しようか」
「ありがとうございます」
猿渡に祝福する気など、さらさらないことは分かっているが謝辞を返した。
「ところで――お前は……どうして猿に止めを刺さない?」
「――!?」
猿渡の口調が一転した。
怒気を滾らせ、殺意まで混ぜ合わせて、教え子に問う。
「一応、勝ちました……」
猿渡の真意が分からず、式守は戸惑いを浮かべた。
「腕を噛まれてもか?」
「追い掛けて、今から殺すほどの理由ではありません」
「理由が無いのか?」
「……僕には……ありません」
質問の本意が分からぬまま、そう答える。
「そうだな、お前の中には無い。だが、お前の外には存在する。分かるか?」
「……はい」
片眉をわざとらしく釣り上げて、猿渡は見せ付けるように腕組みした。
威圧するように上腕二頭筋に力を込める。
「それはなぜかッ!? そう、これは命令されたことだ! め・い・れ・い、だ! 檻に入る前に、俺は、お前に命じたッ! 猿を殺せッ! と、な。ちゃんと覚えているだろうな?」
「はい」
「そうだな、お前の脳みそがイカれていなくて少しだけ安心したよ」
何を言わんとしているのか。
気付き始めた式守に、猿渡が犬歯を見せ付けるように唇を歪めて嗤う。
「まぁ、それは最後にしてやる」
「…………」
「助教として、まず確認しなければならないことから先に済ます。お前の望みは何だ? この儀式をクリアした者に与えられる、たった一つのささやかな報酬だ。お前の望みは? 時間が無いぞ、
「……子猿を治療して、僕のペットにしてください」
「随分と愚かで、贅沢な望みを口にするものだな、このクソは」
「……可能ですか?」
そう訊ねたこと自体に、式守自身が驚いた。
今までの自分だったら言えなかったはずだ。
彼は戦いの後で少し興奮しすぎていると結論付けた。
「不可能だ」即答で否定する。
「どうして……ですか?」聞かずにはいられなかった。
「お前はこの先、猿の餌を確保できない」
怒るわけでも無く淡々として述べられた事実に、式守は反論する術を持たなかった。
「……そう……ですね……」
「では、改めて問おうか。お前の望みは何だ?」
「せめて、殺さないで下さい」
侮蔑の表情を隠そうともせず、猿渡が式守を見下す。
「お前は面白いことを言うな。二年半の苦労の果て偶然にも手にするはずの、ささやかな望みを叶えられる権利で敵を生かせと、な?」
「それしか思い付きません」
「殺そうとしていたのはお前だぞ」
「知ってます」
あの感触を忘れられるわけがない。
子猿のあばら骨を削りながら突き刺した。
戦闘用ナイフは彼の愛用の品。
これからもずっと使っていく一品。
もしかしたら、見る度に思い出すかもしれない。
「ですが、無理に殺すことも……ない、と思います」
そう言ってから直ぐに付け加えた。
「
いつになく口が回っている。
理由など分からない。
彼はただ、子猿に死んで欲しくないと本気で思い始めていた。
初めて口にしたときは、苦し紛れの思いつきにしか過ぎなかった願望が、心の中で具体的な形を持ち始めていた。
そんな教え子を、猿渡は鼻で嗤った。
「偽善か? ああ~っ、らしくないなぁ~。ああッ! 兵士らしくない! 全然ダメだッ! 失格! 失格だよ、式守! お前はやっぱり
憐れみと蔑みと侮蔑を織り交ぜた断言は、少年の胸を貫いた。
「ですが…………それが、僕の望みです」
放たれた一言は確かにきつかったが、それでも式守は希望を繰り返した。
勝者は自分で、戦った者も自分。
そして、望みを決めるのも自分。
間違って猿渡二等軍曹ではない。
そう思い、腹に力を込めた。
「くだらん」
教え子の願いなど下らぬとゴミのように切り捨てる。
「…………」
「俺は嘘だけは吐かん。あの猿は死ぬ定めだ。お前は、その理由が分からないようだな?」
「分かりません」
分かりたくもないし、考えたくもない。
「馬鹿野郎が。まずは前提を考えろ。所詮、あの猿は消耗品だ。遅かれ早かれ死ぬ定めで、新薬の実験で死ぬモルモットと変わらない。それが現実だ。考えるだけ無駄なんだよ。次に状況を考えろ。お前、あの猿が今さら助かると思うか? あの小さな身体に、刃渡り20センチ以上もあるナイフをブッ刺したのはお前自身だろが。ああ~、可哀想に。ひと思いに殺してやれよ。残酷な奴だぜ」
「まだ、助かる可能せ――」
「――次にッ!!」
反論を試みる式守の言に、猿渡は機制を制し、より大きな言葉で押し潰してそれを許さない。
「お前は立場を考えろ。俺は命令したんだッ! 殺せ。と、な! 俺が下した命令は実行不可能なものでは無く、仲間を殺せというような倫理的矛盾もない! ならば、従え! このクズ野郎がッ!!」
言い終わるよりも早く殴られて、式守は衝撃を受けて
不意を突いて死角から放たれた猿渡の裏拳が、少年の側頭部を強打したのだ。
猿渡は式守が姿勢を正すまで待ち、さらに頭から罵倒する。
「俺は、お前にお願いしてんじゃねーんだ。命令してんだよッ! 俺の言葉が理解できていますか? 式守二等兵殿!」
「はい」
それ以外、答えようがなかった。
下手な言動は全て言い訳としか見なされない。
猿渡が恩着せがましく口を開いた。
「親身になって教え子のことを思う、とてもとても心優しい、この俺様が、仲間と過ごす心地よい時間の一部を割いて、お前の心情を聞いてやる。どうして、この猿を殺したくないと思った?」
「……殺す必要性がなくなったから、です」
式守は一息吐く間に考えを纏め、頭の中で自分の言葉を反復してから述べた。
戦闘猿の命は他愛のないことかもしれない。
少なくとも猿渡二等軍曹にとってどうでも、いい虫けらのような命だ。
だけど、助けたいと思った自分の気持ちに嘘はない。
その事をもう一度強く認識する。
猿渡は表情を消した。
無言で煙草を取り出し、火を付けた。
肺一杯に吸い込み盛大に酒臭い息を、紫煙と共に式守の顔へと吹き掛けた。
臭いと煙で顰めっ面になる式守を猿渡は嗤わない。
その代わり、光のない野獣のような双眸で見据えた。
「逃げるな、式守」
助教の視線に得体の知れない圧力に、式守は冷たいものを感じた。
それは完全に気圧された、いや、圧倒されたといってよかった。
「…………」
「お前の言っていることは、途中がどうあれ、今がどうあれ、猿を殺したくないと言っているだけだ」
「殺したくない気持ちは……確かにあります」
思わず口を突いて出た言葉。
式守は自分で吐き出した言葉であるにも関わらず、そうだと相槌を打ちたくなった。
当たり前じゃないか。
誰が無意味に動物を殺したいと思うものか。
僕は動物を殺して楽しむ人格異常者じゃない。
「――はッ」
再び猿渡は教え子の言葉を鼻で嗤った。
「お前はどういうわけか、傷を負わした
「僕は……殺したくありません。猿を殺す意味もありません」
式守から出てきた反抗の言葉は、小さな呟きでしかなかった。
その原動力は良心の呵責か、それとも純粋な慰みか。
物心付かぬ内から軍属と過ごしてきた式守の人生で、上官の命令や指示には大人しく従うだけだった少年のささやかな、だが、大きな転換点。
猿渡とて、式守の決意は重々承知。
その程度は見抜ける眼力はある。
しかし彼は怒鳴りも殴りもせずに、太い眉毛を少し上げただけだった。
急に少年の扱いが変わるわけもない。
「馬鹿なお前の為に、もう一度現実ってやつを見せてやる。ありがたく付いてこい。
踵を返して猿渡が歩き始めると、式守は心で愚痴を零しながらも従った。
左腕の応急処置が終わっていなければ、猿渡でも医務室に行かせただろう。
そう考えると式守の中で、椎名への感謝の念が秒刻みで消えていった。
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