第23話<戦いの儀式Ⅵ>

 式守が待機位置に着いてからは、あっという間だった。

 セコンド役の者が式守のアイ・プロテクションがちゃんと装着されている事を確認すると、有無を言わさず檻の中に押し込んだ。

「セコンド、アウト! 戦闘……開始ッ!」

 審判兼タイムキーパーが流れ作業のようにゴングを打ち鳴らす。

 式守の視線は檻に入った瞬間から戦闘猿コンバットモンキーに釘付けだったが、わざと目は合わせない。

 喉元付近から視線を外さず、ぼんやりと全体を見るようにして様子を見る。

 戦闘ナイフは腰の後ろにあるが鞘からは抜かない。

 敵が丸腰だと錯覚すれば儲けもの。

 相手はただの猿ではない。

 知恵の実を食べたとも評される戦闘猿コンバットモンキーだ。

 下手な悪ガキどもよりも知恵が回る。

 戦闘猿コンバットモンキーは左右に動きながら相手を探り始めた。

 式守と戦闘猿コンバットモンキーの距離、約3メートル。

 金切り声を上げた戦闘猿コンバットモンキーが式守の死角を突こうと左右にせわしなく動く。

 その動きで式守は、獣であるサルが既に武器を恐れていない事を察した。

 腰の後ろに横向きに装着した戦闘ナイフはまだ抜いておらず、戦闘猿コンバットモンキーはこちらの距離感や間合いは無いはずだ。

 しかし、この猿はすでに人間と数回戦っている。

 人を警戒していないのは勝者の驕りか。

 距離を無防備に縮めて来たのは錯覚ではない。

 数回の勝利を重ねたサルは、既に人間を容易い相手と見下していた。

 その事実を、肌で察した式守の頭に血が上る。

 戦闘猿コンバットモンキーに馬鹿にされている自分。

 猿渡班長に蹴り飛ばされている自分。

 この状況が気に食わない。

 受け入れられない。

 受け入れたくない。

 だったら――それを変えてしまえばいい。

 原因を消し去ればいい。

 目の前の猿を、この手で殺せばいい。

 それだけでこの怒りが一つ消える。

 不可能じゃない。

 やれば、いい。

 今いる場所は、そのための場所。

 用意された舞台で、心も身体も、意識も無意識も、何もかも殺意に任せればいい。

「結局、殺せばいいんだろ」

 覚悟が決まると、嘘のように落ち着いた気分になれた。

 そんな錯覚。

 獲物がよく見える。

 改めて見ると、戦闘猿が思った以上に小柄なことに気付いた。

 式守は突進に備えてスタンスを広く取り、腰を深く落とした。

 右手がナイフの柄を握る。

(――もしかして、子猿か?)

 再び、戦闘猿が鋭い牙を剥いて吠えた。

 それだけで気に障る。

 許しがたい。

 許してはならない。

 飼い主にんげんとの差を知らしめなければならない。

 咆哮をぶつけられた瞬間、気がさらに昂ぶる。

(ブッ殺してやる……)

 いつの間にか、野次も罵声も気にならない。

 聞こえるのは、式守と子猿が発する音だけだ。

 周囲の雑音が消えていくことすら気がつかない集中力。

 左半身で突き出した左拳を惑わすように揺らす。

 いつもは聞こえない鼓動が、今日はやけに頭の中で鳴り響く。

「…チッ…チッ…チッ…」

 式守は小さな舌打ちでリズムを取る。

 敢えて、そうした。

 動物的な勘が働いたのか、首筋に寒気が走る。

 式守も戦闘猿も、幾度となく威嚇するように間合いに小さく踏み込んでは飛び退く。

 明確な殺意を、互いにぶつけ合う駆け引きが続く。

 お互いに挑発するように揺さぶりを掛けること数回。

 予告もなく、式守の雄叫びと猿の金切り声が重なった。

 猿が僅かなモーションで素早く踏み込み、爪を立てた右腕が風を切る。

 式守もそれを察していたが、彼の肉眼では追えなかった。

 いや、最初から追うことなど選択しない。

 本能と経験がそう選ぶ。

 視線は戦闘猿から外さない。

 半ば無意識で軽く握った左拳が、視界の片隅へと勘任せのジャブを放つ。

 鈍い音が耳に届くよりも速く、骨を通じて衝撃が伝わる。

 鋭い痛みが脳天まで響くが、それを気にする余裕も無い。

 偶然としては上出来の結果。

 双方の腕が意識しない方向に流れ、式守が反射的に拳を引き、猿は飛び下がった。

 苛立ちを滲ませて戦闘猿が吠え、予想外の出来事に観客も歓声を上げる。

(2センチ以上か……)

 間合いを細かく調整しながら、式守は口を開けながら威嚇するサルの牙――犬歯の長さをそう見積もった。

 上下合せて4センチ以上。

 骨が噛み砕かれなければ、それでいい。

 式守の心に湧いた雑念。

 これを集中し切れていないとみるか、それだけの余裕があるとみるか。

 明確なのは、未熟な兵士のそれを野生動物は決して見逃さないという事実だけだ。

 野生動物特有の瞬発力は、一瞬の隙を突くには十分すぎた。

「――ッ!!」

 弾丸の如く跳んだ戦闘猿が、一瞬で式守の左腕前腕部に牙を突き立てた。

 衝撃で式守がバランスを崩すが――この時、彼の時間感覚は麻痺していた。

 噛まれる前から、何もかも認識出来ていた。

 全てがスローモーションのように見える、コンマ何秒で細切れになった世界。

 だが、彼の動きは間に合わない。


 この次の攻撃・・・・・・に反撃。


 加速した意識の中で、何もかもが鮮明に記憶される。

 必要なもの以外、全て消えた。

 噛まれながら、戦闘ナイフを鞘から引き抜く。

 鋭い犬歯が式守の左腕に埋まった。

 痛みより先に感じたのは焼けるような熱さ。

 その直後、噛まれたという認識と同時に脳天へと抜けるような激痛に襲われた。

「――がぁああああッ!!」

 痛みに声を上げた獲物に、好機とばかりに子猿が再び牙を突き立てる。

 前歯で皮膚が切られ、犬歯で筋肉に穴が開き、8つの穴から血が噴き出る最中――。


 式守の中で何かが切れた。


 噛み付いた子猿を逃さぬように、のし掛かるように倒れ込んだ。

 押し潰された衝撃に子猿が悲鳴を上げたが、それが最後の一押しとなった。

「――――あああああああぁぁッ!」

 式守の殺意が、その肉体を突き動かす。

 戦闘ナイフを握った右腕が地面と水平に、躊躇いもなく――地面と自分の僅かな隙間へと全力で振われる。

 式守は確信した。

 ――殺せるッ!!

 この時、獣と呼ぶに相応しいのは戦闘猿ではなく式守の方だった。

 逃げ場を奪われた戦闘猿の脇腹を刃が穿つ。

 切っ先が皮を突き破る際の微かな抵抗。

 刃先の軌道が肋骨により変わった感触。

 右手から伝わる、猿のあばら骨を砕く音。

 それら全てが、握ったナイフの切っ先から脳天までを一瞬で駆け抜けた。

「ギィイアアアアアァアアアーーーーッ!!」

 まるで人間のような、子猿の絶叫が響き渡った。

 それは激痛と死の恐怖に全身全霊で救いを求めた、小さな命の悲鳴。

 だが、式守は止まらない。

 今さら止まるぐらいなら、とうの昔に止めているだろう。

 絶叫など聞こえないかのように、式守の身体がバネ仕掛けの如く瞬時に起き上がる。

 逃げようとする子猿に刺さったナイフから式守の手が離れたのも一瞬。

 両手で素早く子猿の足を鷲掴みにすると、そのまま力任せに鉄の檻へと何度も打ち据えた。

 やがて子猿は全身の力を失い、もはや鳴き声一つ上がらない。

 しかし、式守は逃がさない。

 逃げ場のない檻の隅へと子猿を勢いよく投げ飛ばした。

 叩き付けられた子猿が不自然な姿勢のまま檻の隙間に食い込む。

 そのまま重力に引かれて、鉄格子に貼り付いた戦闘猿コンバットモンキーの身体がゆっくりと滑り落ち始めたが――。

 その僅かな間さえも、式守の身体は思考を介さずに脈動した。

 筋肉が躍動し、勢い付いた流れは止まらない。

 今の式守は、闘争本能と共に刷り込まれた記憶しか機能していなかった。

 反復演練により、その身に叩き込まれた格闘技術が――筋肉の記憶マッスルメモリーだけが、少年の全てを支配していた。

「――止めて! 式守!!」

 天羽の悲鳴は、少年の耳には届かない

 式守の鉄板入り戦闘靴が子ザルの頭をサッカーボールのように蹴り飛ばす。

 逃げることさえ出来ぬ子猿を見ても、憐憫の情など湧きもしない。

 ただ、殺すのみ。

 そう、確実に息の根を止めるべき。

 檻の隅で崩れ落ち、尻餅をついた姿勢の子猿に意識などあるわけがない。

 それでも構わない。

 いや、だからこそ良い。

 千載一遇。

 好機到来。

 勝機を見逃す理由も、殺害を躊躇う理由もない。

 この身は殺戮のために動くもの。


 ――その為に生み出され、訓練を耐え抜き、この時に至った。


 式守は握り込めた右拳をハンマーのように振りかざし、小さな子猿の頭部へと、恐ろしいほど精密巧緻に、全ての筋肉を連動し尽くした一撃を子猿の脳天へと叩き込んだ。

 それは完璧な一撃であり、同時に必要のない一撃だった。

 子猿の身体は棒のように横に倒れた。頭蓋骨は僅かに陥没し、哀れにも四肢が痙攣を起こす。

 焦点の合わぬ瞳のまま吐血で濡れた唇は、今にも消えそうな浅い呼気を漏らすだけ。

 そこで初めて式守の攻撃が止まった。

 この状態になって初めて殺害対象となった子猿の状況――完全なる無力化の成功を認識し、さらなる一撃の為に振り上げた右拳は、誰かに掴まれたかのように空中で止まる。


 式守直也の中で、再び何かが切り替わった。


 戸惑いが躊躇を生み、生まれた躊躇が、少年の中で溢れ返っていた激情を削いだ。

 その直後、湧き上がった観客に訳も分からず、式守は呆然としていた。

 息の根を止めるまで戦わなければならなかったはずなのに……。

 鳴り響く歓声が、もう戦わなくてよいことを少年に教えている。

 目的が無くなれば、意志が失せ、闘争本能も霧散した。

 殺すべき対象を完全に無力化したのだ。

 特に『すべき』ことはない。

(これで勝ち――だ)

 全身にゆっくりと滲んでいくような達成感。

 深呼吸と共にゆっくりと目を閉じ、それから同じように目を開けた。

 不意に腕の痛みが脳天へと突き抜け、余りの痛さに目の前が白く瞬きふらついた。

 再び視界が戻ると、式守はレフェリー役の男が自分を支えていることに気が付いたが、条件反射のように慌てて気合いを入れて立ち直した。

 戦いの終わりを告げるゴングがけたたましく鳴り響き、威圧感さえ感じる濁声の歓声は戦う前より勇ましく、そして騒々しい。

「式守!」

 衛生兵専用メディカルバックを手にした椎名夏穂が、呆然と立ち尽くしたままに式守へと駆け寄ってきた。

 これもさえも訓練の一環だ。

 班の代表が怪我をしたら、班内の衛生担当者が応急処置をする決まりになっている。

 彼女は素早く式守を座らせると、大きなメディカルバッグの中身を広げ、薄いビニール手袋に手を通した。

「大丈夫よ。すぐに処置するから――」

 椎名は式守に左腕の圧迫止血を指示し、式守は素直に従った。

 左腕上腕部の内側にある動脈を右親指が埋まるような力で圧迫する。

 狂ったような闘争本能から普段の正気に戻ると、意識が霞みそうなほどの激痛に奥歯を噛みしめて耐える。

 ぎりぎりと奥歯が鳴るが、それしきのことで激痛が弱まるわけも無い。

 心臓の鼓動と共に血液が噴き出し、その度に左腕が痙攣したのは、痛みの所為か、怪我の所為か分からない。

 式守は少し不安になって椎名に訊いた。

「骨、折れてる?」

「……折れてはいない。と、思う。三週間程度で完治する……かも」

「わかった……」

 これ以上、椎名に余計な質問で邪魔するのは、結局は治療が遅くなるだけなので口を噤む。

 椎名は下唇を強く噛みしめたまま、一心不乱に応急処置の準備をしている。

 何も出来ることがないのに、人々の注目を集める場所にいるので居心地が悪い。

 檻に入ってから何分経過したのだろう。

 途方もなく長かったような気もするが、実際は一瞬だったような気もする。

 戦いで高揚した意識と激しい呼吸は、まだ完全には収まりそうに無い。

 少年が意識を周囲に向けた先には、横たわったままの子猿がいた。

 その姿は、どす黒い血溜まりに溺れているように見えた。

 式守が突き刺した戦闘用ナイフは、子猿の左脇腹から右脇腹までほぼ貫通していた。

 突き刺した肉の感触は、今も生々しく右手に残っている。

 訓練で身に付いた癖で、さらに視界を巡らした。

 四方八方から降り注ぐ罵声。

 賭けに負けた者の方が多いのだろう。

 よくよく聞けば、断末魔の悲鳴に近い。

 椎名は痛みが消えるようにと鎮痛剤と抗生物質が入った注射器を素早く打つ。

 思い出したように、式守の額に止血処置をした時間を油性マジックで大きく書き込み、次に傷口補充剤と呼ばれる粘土のような治療薬を手際よく千切った。

「式守。まだ痛いだろうけど、止血を兼ねるから我慢して」

「……え――ぐッあ!!??」

 椎名は式守の返事を待たず、問答無用で式守の腕に開いた八つの穴へ治療薬をねじ込んだ。

 予想外の荒療治に、式守はそれ以上悲鳴を上げることが出来なかった。

 目の前が白くなるような激痛が数度走り、反射的に腕を捩って逃れようとしたが、万力にでも挟まれたかのように左腕が動かない。

 細腕の椎名だが、筋補助衣アシストスーツを着込めば大人の男と変わらない。

 女の力でも最大出力にすれば三倍強には増幅される。

 式守は観念して痛みに耐えた。

 幸いにして打ち込まれた鎮痛剤が効き始め、急速に痛みが消えていく。

 正確に言えば、痛みどころか左腕の感覚自体が消えてきたが、今はそれがありがたいと思った。

 その間にも椎名は物凄い速度で、式守の左腕に包帯テープを巻き終えた。

「――勝者、第三二七中隊所属、式守二等兵ッ!! 皆様、盛大な拍手を今一度お願い致しますッ!!」

 雄叫びのような歓声が再び上がる。

 頃合いを見計らい、レフェリー役は式守の右腕を掴み、四周へと拳を掲げさせた。

 調教師が横たわる猿に何かしらの処置をしていたが、式守にはそれが気になった。

 あれは、どうなるだろうか。

 ここで殺処分するのか。

 治療はないだろう。

 人の手により殺されかけた動物が人の言うことを聞くわけが無い。

 ましてや、あれは戦闘猿コンバットモンキーだ。

 人の意に従わぬ兵器など価値などない。

 むしろ、即座に処分するのが妥当だろう。

 それに至ったとき、式守は凍り付くような錯覚に捕らわれた。

 自分の渾名は失敗作ノーナンバー

 好きでそうなったわけでも、努力が足りなかったわけでもない。

 他人が行なった施術が失敗し――それが原因で失敗作扱いの自分。

 では、この猿はどうだ?

 好き好んで戦闘猿コンバットモンキーに生まれたわけではない。

 それには努力も何も関係ない。

 自分と同じように――。

 ただ単に、そう生まれてしまっただけだ。


(――俺も、この戦闘猿コンバットモンキーと変わらないか……)

 

 歓声の中、虚無が心に染み込んでいく。

 彼の耳には今も純粋に健闘を称えた声が届く。

 その人たちは他人と共感できる人たちでいい人たちなのだろう。

 それはそれで有り難いと感じる。

 それと同様に、心ない罵声も聞こえる。

 賭博で負けた者たちの罵倒が耳にこびり付く。

 同じ目的の、同じ組織の中でも、仲間意識すらままならない。

 ここで感じるのは、説明のしようがない違和感だけだった。

「勝利した式守二等兵と、彼を育て上げた猿渡二等軍曹にも、今一度盛大な拍手をお願いします!!」

 耳に届いた嫌いな名前で、式守は弾かれたように顔を上げた。

 猿渡は檻の近くにいて、周囲の仲間や同僚達に勝者のように手を振っていた。

 レフェリー役の男は即席のインタビュアーとしての責務を果たすべく、勝者にマイクを突きだした。

「では、式守二等兵、勝者の報酬として欲しいものを言って下さい! 除隊したいとか予備役になりたいとかは無理だけど、1週間程度の休暇なら即座にOKが出ることは過去の事例から確実ですが――式守二等兵、君はこの勝利の報酬として何を望みますか?」

「……え、っと……」

 式守の頭は真っ白になった。

 戦闘猿コンバットモンキーと戦う事に一杯一杯で、勝つことをなんてまともに考えていなかったし、何を望むかなど意識の埒外だった。

 しどろもどろとなった新兵に、情け容赦なく野次が飛ぶ。

 その中でも、式守は思考停止の状態から何とか持ち直すと必死になって考えた。この報酬には制限がある。軍隊――それも今いる海兵隊の中で、自分の上官たちが実行可能なことを選ばなければならない。

 彼個人の本当の望みは地球旅行なのだが、無茶な希望であることは理解している。火星からの地球旅行はそれなりの時間と金額が必要であり、馬鹿正直に口にしたら、愚か者扱いされてしまう。

「はいはい、式守二等兵!! 先輩達を長く待たせちゃいけないから、インタビューの時間はあと10秒! ちゃっちゃと答えてねぇ~」

 考え込む式守に持ち時間が差し迫ったか、レフェリー役はネット番組の司会者のように急がせた。彼の立場であれば、リアクションの乏しい式守を相手にすること自体が中々の苦行に違いない。

 周囲の声援は何時しか囃し立てる口調に変わり、式守はあれも駄目これも駄目と考える中、必死になって『何か』ないかと探し求め――。

「――この猿をペットとしてください」と口走った。

 今も横たわり調教師から治療を受ける戦闘猿コンバットモンキー――先ほどまで自分自身の手で殺そうとしていた子猿を指差す。

 インタビュアー兼レフェリー役の男は己の耳を疑い、式守の希望を聞いた観客たちも呆気にとられた。宴会場の喧噪はほとんどそのままで、ただ式守の言葉を聞いた者たちだけが言葉を失った。

「……駄目ですか?」

 心地の悪い雰囲気に耐えかねて聞いたが、その声こそが静寂を破る切欠になった。

「おっと~、式守二等兵、自分の欲望を押し殺して、素晴らしい、素晴らしいほどの博愛主義の発露です。いや~、でも、さすがに班長や小隊長レベルでは即答できない要望ですので、あとで中隊長か大隊長に決裁を仰ぐほかありません。何はともあれ、皆さま、勝者である式守二等兵に、もう一度盛大な拍手をお願いします!!」

 レフェリー役の男はこういった余興で進行役が回ってくるだけあって、流石に機転が利いた。結論が出ない事柄は先送りにして儀式の進行を優先。式守は檻の出口へとさり気なく――だが有無を言わさずに送り出す。

 余りにも突拍子無いことを望む新兵への扱いとしては、相当に上品な対応といえた。

「…………」

 式守は何かを言おうとしたが、結局それを口にすることはなかった。

 絞り出された空気は音とならず、この場を満たす紫煙と混ざって消えた。

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