2024.06.16「梅雨」 とわにいく

 甘やかだ。

 ひどく、甘やかだ。

 滴る水滴の足音の隙間にある僅かな空白に耳を寄せ、僕はそっと目を閉じた。空気中に溶け出した小さな水の粒子が身体に纏わりつくのは不快だが、この甘やかな音は嫌いではない。

「この時期は嫌よ。こんなに湿気がひどくちゃあ、身体の中が錆びついちゃう。メンテナンスが大変なんだから」

 唇を尖らせて彼女が言った。

「髪はうねるし、毎日雨だし……そう思わない?」

「あなたの髪なんてくるくるじゃない」と言って、彼女が僕の髪を細い指に巻いた。くるりくるりと逃げる髪は、確かにこの時期には殊更に頑固になる。どれだけワックスをつけてアイロンを当てて直しても、外を歩けば忽ちのうちにくるくると跳ね回った。この苦労と徒労感はきっと癖毛の同志にしかわかるまい。

「僕はもっと大変だ。暑いし、汗で身体はベタベタで、布団は湿気っているし……」

 夏の入口はいつもそうだ。寝ても覚めても雨でいい加減気は滅入るし、気温と湿度ばかりが上がってひどく不快だ。外の不快感から解放されようと飛び込んだ布団すら湿気でベタついて、何ひとついいことがない。

「この身体は汗をかかないから、そういうところは便利かな。暑さも感じないし」

「湿気は大敵だけどね」と僕が言うと彼女は笑った。きゃらきゃらと星屑が舞い散るような笑い声が白い部屋に響いて、窓の外から忍び込む雨音の欠片を消し去っていった。僕も次に目覚めた時には、この夏の足音を嫌いだとは思わなくなっているのだろう。

 ふと、彼女の笑い声が止む。

 しとしとと静寂が僕たちの間を満たしていく。

「……本当にいいの?」

 小さく落とされた呟きは水溜りの中で波紋を広げ、やがて僕に届く。静寂がまた落ちる。

 窓の外に向けていた視線を彼女へと向ける。彼女は僕のベッドの隣に置いた丸椅子に座って、自分の手を見つめていた。真っ白な手だ。日焼けを知らない手は白魚のように美しく、計算され尽くした指と手の甲のバランスが彫刻のように映る。その手を組んで指を僅かに動かしながら、彼女はただ俯いている。いつもよりも癖の強くなった髪がその白い頬に落ちて、僕は「君の髪だって僕と同じだ」と言いたくなったけれど、彼女が求めている言葉ではないことを知っているから、やめた。ここで誤魔化すことは僕も彼女も望んでいない。

「……いいんだよ」

 彼女の顔が上がる。

「いいんだ」

 繰り返す。

「僕が決めたんだから。これでいいんだ」

 彼女が目を見開いて、それから顔を歪めた。頬がひと筋濡れる。汗は出なくとも涙は流れるらしい。上手いことできているものだ。

「ひとりは寂しい」

「そうだろう?」と笑うと彼女が頷いた。

「僕も君を置いていきたくない。だから、これでいいんだ」

 人はいつか死ぬ。

 機械はメンテナンスを続ける限り、いつまででも生き続ける。

 僕はいつか死ぬ。

 彼女は生き続ける。

 人と機械は違う。人は永遠には生きられない。

 だから僕は選んだのだ。

 ドアが鳴る。返事をすると白衣の男が入ってきて、ひと言「準備は」と言った。

「大丈夫です」

「では、十分後に」

「わかりました」

 男が出ていく。彼女はまだ、泣いていた。

「泣かないで。死ぬわけじゃない」

「死ぬんだよ」

「……確かにそうだけど。でも、目覚めないわけじゃない」

 彼女は「そうだけど」と言って、それきりだった。

 しとしとと雨音が部屋を満たしている。その隙間に耳を傾けていると、あっという間に十分は過ぎたようだった。白衣の男が今度は数人を引き連れて部屋にやってきて、僕をベッドごと運び出した。彼女は僕についてきて、けれど黙ったままだった。

 エレベーターを降りて、長い廊下をベッドに乗せられたままで抜ける。白い扉の前で、ベッドが止まった。

「……何かあれば」

 白衣の男が彼女に向けて言った。彼女は僕に近づいて、投げ出されていた僕の手を取る。黙って両手で握り、まるで祈るように額に押し当てる。

「……忘れないから」

――この温度を。

 皮膚から温度など感じていないはずなのに、確かに彼女はそう言った。そして僕の手を置いて「待ってるから」と笑う。

「うん。いってくるよ」

 ベッドが動く。白い扉が開く。機械ばかりの部屋に通されて、口にプラスチックのカップのようなものを当てられる。「眠くなりますから」と無表情でメガネの女が言った。その言葉に頷くと同時に意識が白み始める。

 脳裏に彼女の姿が浮かぶ。

 その幻影を追って動かない手を伸ばしたのが、僕が人であったときの最期の記憶である。

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ここは椒図の腹のなか 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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