最終話

 三年D組の教室から見える太陽は、半分くらいが西の秋空に沈んでいた。

 窓際の俺の席に座って、おしちは俺に色っぽく笑いかける。見た目はちかちゃんそのものなのに、笑い方ひとつでこんなに印象が変わるもんなのか。どこか勝ち気な雰囲気も漂っている。

 下校時間も迫っているこの場所も、ほかの生徒の姿はなくて俺らふたりきりだ。めちゃくちゃおいしいシチュエーションのはずなのに素直に喜べないのは、やっぱり彼女がちかちゃん本人じゃないせいだ。

「ちかちゃんを通してずっといろいろ見てたんだろうから、今さら案内されてもきみはつまんないかもな」

「そんなことないわ。学校って素敵なところね」

 ちかちゃんと自分のかばんを持って廊下に出る俺のあとを、お七がうきうきとついて来る。天井の蛍光灯とか、大学模擬試験のポスターが貼られた壁とかを、彼女は珍しそうに眺めていた。

 クラスの教室はどれもつくりが同じだから、と説明して俺は特別教室のある実習棟へ向かう。渡り廊下で何人かの生徒や先生とすれ違ったけど、今のところお七はほかの人たちを攻撃しようとはしていない。俺といることで忘れているのか、必死に我慢しているだけなのか。できれば、前者であって欲しい。

 理科室、音楽室、技術工作室と順番に回って、最後は家庭科調理室に来た。流し台や調理器具入りの棚がいくつも並ぶその部屋を見て、お七は目を輝かせる。

「ここは、お料理をするところ?」

「うん、授業でたまに作るんだ。そういえば、きみんちは八百屋なんだっけ」

「そうよ。野菜や果物の扱いは、だれにも負けない自信があるわ。庄之介しょうのすけさんは、白菜がお好きだったでしょ?」

「いや、俺は野菜ならタマネギとかキュウリとかが好きだけど」

「あら、お好みが変わったのね。じゃあ、今度は別のお料理をごちそうしないと」

 彼女は、あくまで俺をショーノスケさん本人だと信じて疑っていないらしい。昔の記憶を思い出せていないだけだ、とかなんとか思い込んでいるんだろう。

 ぶっちゃけ、迷惑だ。俺に好きな人を重ねて見るのは勝手だけど、俺の意思をちっとも理解しないで都合のいいように解釈するのは、どうかと思う。どこがどうそんなに似てるんだか。見た目だけだろうけど。

 またのんびりと廊下を歩きながら、お七はやけにしんみりとつぶやいた。

「あたし、家の手伝いばかりしてたから、寺子屋には行かなかったの。うらやましいわ」

「テラコヤ……って、昔の学校みたいなもんだっけ」

「ええ。必要な読み書きはおっとさんやおっかさんが教えてくれたし、算盤そろばんの使い方も親の見よう見まねで覚えたわ。でも、あの火事のあとにお寺を出てからは、あなたに文を出すことさえできなかった。自分の言葉を文章ってものに書き起こせるくらいの知識はなかったの」

 昔の日本人は識字率ってもんがかなり低かったと、日本史の授業で習った気がする。誰でも当たり前に学校に通えるわけじゃなかったんだ。お七もその一人なんだろう。

「だから、また火事を起こせばショーノスケさんと会えるって思ったのか?」

「真っ赤な火が夜空を焦がして、本当にきれいだった。あなたにもお見せしたかったわ。残念ながら、あたしはあなたと再会する前に火炙りにされてしまったけど」

「放火はこの時代でも立派な犯罪だよ。そんなことまでしてショーノスケさんが喜ぶとは、俺には思えないな」

「なにも悪いことなんてしてないわ」

 あまりにもあっさりと返されて、俺は言葉をなくした。

 少し前を歩く彼女は、振り向いて大したことじゃないように微笑む。


「言ったでしょ、あなたと結ばれるためならなんだってするの」


 あぁ、こりゃだめだ。せっかく女の子と一緒にいるのにテンションが低いままの自分もどうかと思ったけど、なんつーか無理だ。

 お七は死刑になっても、最期の瞬間までショーノスケさんを想い続けていたんだろう。その一途さと芯の強さは認める。けど、俺には全然理解できない。若気の至りにしたって、やりすぎだ。さっきのテラコヤの話を聞く限りじゃ、普通の女の子って感じもするのに。どうしてこうなった。

 このまま、彼女が誰も傷つけなければいい、迷惑をかけられるのは俺だけでいい。

 祈りながら、本校舎一階の昇降口まで来た。

 約束通り、外に出るまでお七が誰も攻撃しないなら、俺は彼女の恋人になる。けど、ちかちゃんの意識はどうなるかわからない。俺らのことをずっと内側から見守るだけになっちまうんだろうか。そんなの、切なすぎる。

 自然と歩幅が狭くなって、靴箱のほうへ行くのを体が拒む。お七が満面の笑みで急かした。

「どうなさったの、早く行きましょ」

 うん、とあいまいに笑い返してうなずくことしかできない。

 沈んでいく気持ちと一緒に一歩踏み出すと、後ろから声がかかった。

「あの、遠藤先輩っ」

 階段を駆けおりてきたのは、知らない女の子だった。セーラー服の胸についた校章バッジの色が赤だから、一年生だろう。リスっぽい小柄な女の子だ。こんな時なのに、なかなかかわいい、なんてつい思っちまった。

 お七が、途端に不機嫌な顔になる。

 ――ヤッベ、この一年生の子も危ねえ。

 焦りながら、ささっと彼女に歩み寄って笑いかけた。

「えーと、俺になんか用かな」

「あの、その……っ」

 制服のプリーツスカートを手でぎゅっとつかんで、その子はもじもじと視線をさまよわせる。リスに似た小さい口から、爆弾発言が飛び出した。


「わたし、遠藤先輩が好きです! よかったら付き合ってくださいっ」


 え、と思わず間抜けな声が漏れた。人生初、女の子からコクられた決定的瞬間だ。

 ――よっしゃぁぁぁぁぁ! ついに真のモテ期きたー! って喜んでる場合じゃねえだろ!

 ものの数秒でセルフツッコミして、あわてて彼女をお七から離そうと口を開く。

 けど、セーラー服の右肩にぼっと赤い火が点いた。小さいそれはロウソクみたいだけど、女の子は怯えて悲鳴を上げる。

「ひゃっ、なに!?」

「危ねッ!」

 俺は火を揉み消そうと、左手で彼女の肩をつかんだ。じゅう、とてのひらが焦げる感覚にうめく。熱いし痛え。

「遠藤先輩ッ」

「っ、だいじょうぶ、すぐ消える」

 立ち昇る煙が、嫌な臭いと一緒に天井にとけていく。

 肩越しに振り向けば、お七は無表情で俺らを見つめていた。黒い瞳の奥に、また赤い火が揺れている。

「約束、破ったな。きみの負けだ、お七」

「庄之介さん、どうして? あたしよりそんな女のほうがいいっておっしゃるの?」

 一年生を背中に庇って、俺はお七と向き合う。てのひらの熱はじくじくと痛むけど、かまっていられない。

 彼女は、やっちゃいけないことをしたんだから。

 すっかり冷えきった心で、俺は言い放つ。

「きみが好きな人に会いたいって気持ちも、その人と一緒にいたいって気持ちもよくわかる。けど、ちかちゃんの体も意識も奪ってまで、いつまでも関係ない人たちを巻き込んで傷つけるのは――どうしても許せない」

 ちかちゃんを都合のいい道具としか考えていない人間を好きになるなんて、どんだけ頭を下げられても絶対無理だ。

 信じられないと言いたげな表情で、お七は聞いてくる。

「どうしてよ、あなたのためなのに……ッ」

「俺はそんなことしてくれなんて一言も頼んでないし、むしろ大迷惑だ。今まで自分から声かけた女の子たちを危ない目に遭わせちまうわ、そのせいで変な噂も流されちまうわ……この高校生活三年間も、ちかちゃん以外の女の子絡みでいい思いできたことなんて一度もないよ。今、この子にコクってもらえたのはマジ奇跡だけど」

 この際だからはっきり言おうか、と俺は微苦笑した。


「自分の思い通りに生きたいからって、そうやって他人を利用して周りを傷つけてばっかじゃ、ほんとのショーノスケさんにも会えないよ、きっと」


 ぶつん、と。なにかが切れる音が、頭の中に聞こえた気がした。

 親父の言葉を思い出す。

 女の子に対しては紳士であれ。ただし、優しくするだけじゃなく、間違いもきっちり正さないといけない。

 いや、と首を振りながらお七はよろよろと後ずさる。その背中が、靴箱にぶつかった。

「糸が、縁が切れてしまう……お願い庄之介さん、あたしだけをご覧になって、あたしだけを抱きしめて……!」

 たぶん、彼女にもちかちゃんにも、彼女と俺をつなぐ糸が切れかかっているように視えるんだろう。縁が切れる寸前の糸は真っ黒だと、ちかちゃんも言っていた。

 なら、俺もそれをここで断ち切るだけだ。

「ごめん、無理だ。俺がほんとに好きな人は、きみじゃない」

 ずるずるとお七は床に座り込んで、潤んだ両目で俺を見上げる。

 あぁ、俺ってひでえ男だな。けど、彼女のしたことのほうがもっとひどい。

 歩いてそばに屈んで、俺はその頭をぽんぽんと撫でた。

「きみの魂がいつかまた別のヨリマシの中で目を覚ますことがあるなら、そのときは本物のショーノスケさんの魂と会えるように、俺も祈るよ。自分の罪の重さをちゃんと知って、同じことをくり返さないでくれ」

 庄之介さん、と掠れた声で呼んだのを最後に、かくんと彼女の頭が垂れる。

 何秒かしてゆっくりと上がったその顔は、戸惑ったちかちゃんの表情に戻っていた。

「遠藤くん……?」

「ちかちゃん!」

 お七は出ていってくれたみたいだ。

 泣き笑いみたいな顔で、ちかちゃんは俺を見てくれる。


 自分の声と体を取り戻した彼女を、もう二度と悲しく泣かせたりしない。

 誓いながら、俺も安心して笑った。


   ◆


 結局、一年生の子の告白は断った。ごめんね、でも俺を好きになってくれたのはすげえうれしいよ、ありがとう。そうやわらかく返事をすると、彼女はさびしそうに笑って、わかりました、と引き下がってくれて。わりぃことしちまったな、とは思うけど、今の俺の正直な気持ちだから仕方ない。あの子にも、いい男が見つかりますように。

 保健室にも養護の先生はいないみたいで、椅子に座ってちかちゃんに手当てをしてもらった。左手はあのあと水で念入りに冷やしたけど、火傷の痕はずっと残りそうだ。これも名誉の勲章ってやつだな、うん。

 消毒液を染み込ませたガーゼを俺の手に巻き終えて、隣の椅子に座ったちかちゃんはほっと息をつく。

「よかった、遠藤くんもあの子も大怪我しなくて」

「早めに気がついたしな。俺が目の前で盛大にコクられたら、さすがにお七も黙っちゃいないだろって思ったし」

「遠藤くんとお七の縁は、ちゃんと切れたよ」

「そっか」

 彼女の鈴に似た声が、疲れを癒してくれる。

 救急箱に道具をしまう様子を見ながら、俺はさりげなく聞いてみた。

「ちかちゃんはさ、まだ他人と近づくのが怖い?」

 誰にでもいい顔をしちまう怖がりで、でも自分の意見をはっきり言う芯の強さも持っていて。初対面の俺のあいさつにも引かなかった時に、もう心は撃ち抜かれていたんだ。

 ちかちゃん自身の声で言う本音が、聴きたい。

 えっ、とびっくりした本人の頬が、ちょっと赤くなった。

「うん、まだちょっと。でも……遠藤くんなら、平気」

 よし、と心の中でガッツポーズをかます。

 立って救急箱を棚に戻しに行こうとする細い腕を、そっとつかんで引き止めた。

 図書室じゃうまくいかなかったけど。今なら、確実に言える。

「ちかちゃん。言いたいことがあるんだ」

「わ、わたしもっ」

「え?」

 思いきったように主張するちかちゃんは、すぅっと深呼吸をひとつして。俺をまっすぐに見つめた。


「――わたし、遠藤くんが好きです。二年の時、初めて一緒に帰った日から、ずっと」


 椅子から転げ落ちそうになった。つい、小さく噴き出しちまう。

「ふっ、はは、あはははははっ」

「え、遠藤くんっ?」

「まいったな、先に言われちまった」

 あっけらかんと言えば、彼女の顔はますます赤くなっていく。そのまま爆発しちまいそうなくらいに。

 それを見ていると、俺もなんか無性に照れくさくなってきて。ちょっとかっこつけてコクりたかったことなんか、もうどうでもよくなった。

 小さい体を抱き寄せて、ちかちゃんがあわてるのも気にしないで膝の上に乗せた。


「俺も大好きだ、ちかちゃん!」


 向かい合う姿勢でぎゅうっと抱きしめれば、やわらかい感触に顔が埋まる。これが女の子の――ちかちゃんの温度なんだ。彼女の手が、俺の髪をそっと撫でてくれる。その指のあたたかさも、気持ちよすぎた。

 遠藤くん、と彼女は感極まったように呼びかけてくる。

「わたし、またいっぱい迷惑かけちゃうかもしれないけど……これからも、一緒にいてくれる?」

「もちろんっ」

「胸もそんなに大きくないけど」

「だいじょうぶ、俺はおっぱい派でも尻派でもなくて太もも派だから」

 もちろん、おっぱいも尻も大好きだけど。ここで足触ったらガチで変態になっちまうから自重する。女の子特有のいいにおいに、頭がくらくらしてきた。ヤベえ、これ以上くっついてるとおかしくなるかも。

 ちょっと体を離して視線を上げれば、顔を埋めていたのがちかちゃんの胸なんだと、やっと気がついた。血の気が引く音がする。

「ちょ、わっ、ごめん俺なんつーことをッ!」

「いいよ、いやじゃないから」

「へ?」

 ちかちゃんは指で自分の涙を拭いながら、ふんわりと微笑んだ。

「わたしたちの縁は、とっくに結ばれてたのかもしれないね」

「……そう、だな」

 あのとき、お七のほこらに本気で願った甲斐があった。いろいろ嫌なこともあったけど、こうしてちかちゃんと笑い合っていけるなら、終わりよければすべてよし、だ。


 嫌われるのが怖い、なんてきみは言うけど。それでも、俺はきみともっと近づきたい、そばにいたい。

 縁がほどけそうになっても、何回だって結び直していけばいいんだから。


   ◆


 そして、俺らも高校を卒業する日になった。式が終わって解散してから、俺はちかちゃんと親友を誘って記念撮影をした。正門前に植えられたでかい桜の木の下で、お互いのデジカメやスマホで写真を撮り合う。片手に握った卒業証書の筒よりも、ちかちゃんの肩を自然に抱けることのほうが、ずっとうれしかった。

 親友に撮ってもらったちかちゃんとのツーショット画像に、即行で保護設定をする。制服姿の彼女も、今日が見納めだ。なにがなんでも消すもんか。

 俺の学ランの肩に落ちてきた桜の花びらを、ちかちゃんがそっと払ってくれた。その笑顔は、ちょっとさびしそうだ。

「わたしたち、来月からは別々の大学だね」

「うん。でもほら、今日からしばらく遊び放題だし。ちかちゃんちにも、また行くよ。なぁ」

「ああ。しかしおまえたち、ほぼ校内公認カップルみたいになってたな、最終的に」

 からかうような親友の言葉に、ちかちゃんと俺は顔を見合わせて照れ笑いをした。

 あの事件のあと、俺らの距離は一気に縮まって、暇さえあればほとんど一緒にいたおかげか、変な噂も流れなくなっていった。クラスの女子としゃべったりしても、誰も危ない目に遭うこともなくて。親友にも真相を全部打ち明けたら、すんなり納得してくれた。

 女の子たちの一挙一動は、目の保養だしこの世の宝だ。覆りようのない真理だ。けど、今の俺には、ちかちゃんっていう最高にかわいい彼女がいる。これ以上幸せなことなんて、きっとないだろう。

「そうだ、庄司くん。今度、お七が亡くなったっていう刑場跡に行かない?」

「え、いいけどなんかホラーっぽいなぁ」

「昼間に行けばそんなに怖くないよ。夜はなにか出るって噂もあるけど」

「やっぱりか!」

「わたしもね、お祈りしたいの。お七がちゃんと庄之介さんの魂と逢えるように」

 帰り道でそう話しながら、微笑んだちかちゃんは和歌を詠んだ。お七が処刑される前に遺したらしい、辞世の句ってやつを。鈴が鳴るような、あの透明な声で。


 ――世の哀れ春吹く風に名を残し遅れ桜のけふ散りし身は


 受験戦争も終わった俺らの背中を、桜の舞うあたたかい春風が押してくれる。今度こそちゃんとデートしよう、と誘えば、彼女ははにかんでうなずいた。


 これからも、ずっと切れない縁を結んでいこう。

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廻るぼくらの遠近感 蒼樹里緒 @aokirio

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