第4話

 真っ暗な中に、映画館のスクリーンみたいな長方形の映像が浮かび上がる。わたしはぺたんと座り込んで、それを眺めることしかできなかった。遠藤えんどうくんの驚いた顔が、はっきりと映り込む。けれど、彼がいま接しているのは、わたしじゃない。

「おしち……って、八百屋の?」

「そうよ、思い出してくださった?」

「ちょっと待った。きみがマジでお七だとして、なんでちかちゃんを乗っ取ってんだ」

「この女は、あたしの〈依巫〉だもの」

「ヨリマシ?」

 聞き慣れない単語に、遠藤くんは眉をひそめる。

 握った彼の手を愛しそうに撫でながら、お七は説明した。

「糸の話はお聴きになったでしょ? あたしをまつってる家系でそれが視える人間は、あたしの魂の依代よりしろになる資格がある。けど、誰でもいいわけじゃないの。あなたの一番近くにいないと、意味がない」

「じゃあ、俺がちかちゃんと知り合ったから……?」

「あなたを見つけた時は、体が震えるくらいうれしかったわ。あたしのほこらに願掛けをしてくださった瞬間が、最高の幸せだった」

 うっとりと言いながら、彼女はさらに残酷なことを告げようとする。

「やめて、お七!」

 わたしが意識の内側から呼びかけても、やっぱり応えない。

 遠藤くんをこれ以上追い詰めさせたくないのに。わたしのせいで、彼はきっと苦しんでしまう。

 彼女はくすくすと笑った。

「ねぇ、あたしに汚い手で触ったあの男、よく燃えたでしょ? あたしたちの邪魔をするやつらから、あなたを守ってあげる。これからもずぅっと」

「……今まで俺の周りで起きてた変なことは、全部きみがやったっていうのか」

 怒りのにじむ声音で、遠藤くんは聞く。いつも明るく笑ってくれる彼のこんな表情は、初めて見た。

 祈るように両手を組んで、わたしは様子を見守る。

 お七が想っていた恋人にも、いろいろな説がある。生田いくた庄之介しょうのすけ小野川おのがわ吉三郎きちざぶろう、山田左兵衛さへえ安森やすもり吉三郎。彼女は、遠藤くんを庄之介さんだと思い込んでいる。それは、ご本人にとっても遠藤くんにとっても、迷惑にしかならない。わたしがどれだけ言い聞かせても、お七は遠藤くんに執着したままだ。

 苦言すら聞く耳を持たないのか、お七は一方的に愛を語り続ける。

「何百年も待ち続けて、本当によかった。今度こそ一緒に幸せになりましょ、庄之介さん」

「俺は、きみの捜してる人じゃない。遠藤庄司しょうじだ」

 きっぱりと否定する遠藤くんは、小さくため息をこぼした。

「俺がそのショーノスケさんとかいう人に似てるんだとしても一〇〇パーセント別人だし、生きてる時代もきみとの価値観も違う。それでも、きみは俺がいいのか?」

「まだそんなことをおっしゃるの? あたしにはあなたしかいないの、あなたと結ばれるならなんだってするわ」

「あー、やっとモテ期が来たかと思ったのにこれかぁ、残念だ」

 軽く頭を掻きながらぼやく彼。その胸からわたしまで伸びる一本の〈糸〉は、それでもだんだんと赤みを増していく。黒ずむような気配は、少しも視えない。

 別のもう一本のそれは、お七と彼をつなぐ。けれど、そっちは白いままだ。

「ちかちゃんがしゃべれないのも、たぶんきみのせいなんだろうな。病気で手術したってことにはなってるけど」

「依巫はあたしのためにいるのよ。あたしの好きなように使うのが当然だわ」

 お七は勝ち誇ったように言う。遠藤くんがあきれ顔になっていることも、気にも留めずに。

 彼のチョコレート色の目が、お七を――わたしを真剣に見つめた。

「ちかちゃんは物じゃない。ヨリマシだかなんだか知らないけど、ちかちゃんの声も体も、もとのきみとは全然別物だろ。他人の体を借りてまで生きるにしたって、きみはそれでほんとに幸せなのか?」

「姿が違っていようと、あなたはあたしを見つけてくださるでしょ? たとえあたしが火の中にうずくまってても。――あたしは、ちゃんとここにいるもの」

「……なんか同じ日本語しゃべってる気がしないな。よし、じゃあこうしようか」

 ぽん、と遠藤くんの手が肩に置かれた。


「今から、一緒にこの学校を回るデートをしよう」


 お七もわたしも、目を瞬かせてしまった。なにか考えがあるのだろうとは思うけれど、まさかそんなことを言われるとは思わなくて。頬も熱くなってくる。

 お七が、不思議そうに聞き返した。

「でぇと?」

「うん。きみの時代で言うところの……逢引あいびきってやつかな」

「まあ、素敵っ」

「全部回って校庭に出るまでの間、きみが俺に近づく人たちを一回も燃やそうとしなかったら、きみと恋人として付き合う」

 ずきり、とわたしの心が痛む。遠藤くんは、大きな賭けをしようとしている。それがどんなに危険かは、自分でもよくわかっていた。

 お七と遠藤くんが本当に結ばれたら、わたしはきっと消える。この心も体も、完全にお七に取って代わられてしまう。

 けれど、もしふたりをつなぐ〈糸〉が切れたら、逆にお七がわたしの中から消えるのだろう。

 遠藤くんは、別の条件をお七に突きつける。

「けど、一回でもだれかを傷つけたら、きみとは一生お別れだ」

「ふふっ、面白そうね。いいわ、あなたと一緒にいられるのなら」

「決まりだな」

 小さく息を吸った彼が、わたしをまっすぐに見つめて微笑んだ。安心させるみたいに。


「ちかちゃん、絶対助けるから。もう少しだけ待っててくれ」


 ぽたり。自分の目からあふれたものが、ぎゅっと握りしめた手を濡らす。

 やっぱり、遠藤くんはかっこいい。逃げもできるはずなのに、わたしを救おうとしてくれる。わたしにいつものように笑いかけてくれる。わたしを――信じてくれる。

 椅子から立った彼はそっと右手を差し出して、お七がうれしそうにそれを握り返す。

 窓から射す秋の夕陽の光が、ふたり分の輪郭をあたたかく包み込んだ。


   ◆


 二年次の終業式も済んだ、今春のある日。家の周りを掃除しようと、いつもどおり箒を持って外に出た時だった。お七の祠の前でだれかが手を合わせて拝んでいるのを、遠目に見つけて。

 ――遠藤くん!

 それが二年次のクラスメイトだと気づいて、近くの木の陰にさっと隠れた。あいさつでもすればいいのに、どうしてそんな行動をとったのか、自分でも不思議だったけれど。

 あの祠に縁結びの祈願をしに来る人は多い。まぶたを閉じて祈る遠藤くんの横顔は、学校で見るのとはまたちがって妙に凛としていた。ずっと見ていたくなるくらいに、わたしの目を惹きつけて離さなくて。午後の陽射しの中でも、それはひときわまぶしく映った。

 やがて手を下ろした彼は、よし、と満足そうにうなずいて歩き去った。後ろ姿を見送りながら、わたしもこっそりと祠に近づいた。

 参拝者さんにはお供え物を置いていく人もいるけれど、遠藤くんも例に漏れなかったようだ。祠のお地蔵さまの足元には、小さな花束が添えられていた。淡いピンクの包装紙と赤いリボンでくるまれたそれには、マリーゴールドとかカスミソウとか、色とりどりの花が顔を出していて。

「かわいい」

 わたしは笑って、そのうちの一輪の花びらをそっと指で撫でた。

 わざわざお参りになんて来なくても、遠藤くんにはきっといい人が見つかるだろうに。

 そう思いながらも、ふと分を超えた願いを抱いてしまった。


 ――遠藤くんが、わたしとずっと一緒にいてくれたらいいのに。


 その想いが、はじまりだった。

 急に、喉が焼けるようにカァッと痛んで、手で押さえる。息苦しさに顔をしかめると、頭の中に女の子の声が響いた。

『やっと見つけた……前から感じてたとおりだわ、あたしの大切な人』

 家に戻って親に筆談で異変を打ち明けると、お父さんもお母さんも切なそうに顔を見合わせて、代々伝わっているという古文書を見せてくれた。それを読んで初めて、自分がお七の依巫よりましになってしまったのだと知って、呆然とするしかなかった。

 お父さんが毎日お経を唱えても、お七はわたしの中から出ていってはくれない。ただ、自分の恋を叶えることだけをひたすら考えている。周りがどんなに傷つこうとかまわずに。


 遠藤くん。わたしも、まっすぐに向き合ってくれたあなたを信じるよ。

 この声が出せるようになったら、あなたに伝えたいことがあるの。

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