第3話

 昨日の事件の噂は、あっという間に校内に広まったらしい。俺を見る女の子たちの視線が、いつもの数倍くらい鋭くなった。全身を注射針でグサグサとめった刺しにするみたいなそれが、ひたすら痛い。

 昼休みの始まるチャイムを聞いても、テンションは戻らなかった。机に突っ伏して盛大なため息を吐き出す。

 結局、正直に事実を打ち明けた俺とちかちゃんと親友は特にお咎めなしで。一命を取り留めて入院したあの教師だけが、今までの女子たちへのセクハラがバレて懲戒免職になった。あいつはもともと職員室でよくタバコを吸っていたらしいし、ポケットのライターの火が腕に燃え移ったんだろうってことで話は片付いたけど。俺には、そんな感じだとは全然思えなかった。

 俺が女の子としゃべっていると、物が落ちてきたり、相手がコケそうになったり、そういうちょっとしたトラブルはしょっちゅう起きていたけど。さすがに、こんなのは初めてだ。ちかちゃんをあいつから守りたかっただけなのに。

 ――どうなってんだよ、ほんと。

 ふと肩を軽く叩かれてよろよろと顔を上げれば、あきれたような親友の視線が降ってきた。

「購買、行かないのか。焼きそばパン、売り切れるぞ」

「なんも食う気しねえんだけど」

「食わないと午後もたないだろうが。ほら」

 無理やり腕を引っ張られて起こされる。ちかちゃんの席を見ると、本人と目が合って。けど、すぐに視線を逸らされた。

 教室を出ていく小さい後ろ姿を見送って、またため息が空気にとける。

「なぁ。俺、やっぱちかちゃんに嫌われちまったのかな……。朝、おはよっつった時もスルーされたし」

「おまえ、まさかずっとそれ気にしてるのか」

「だって、昨日も俺といたせいで危ない目に遭わせちまったし」

「別に誰のせいでもないだろう、あれは」

 財布を持って一緒に購買部へ歩きながら、親友は冷静に言う。

「前から気になってはいたんだが、おまえ、おはらいでもしてもらったほうがいいんじゃないのか?」

「お祓い?」

「高校に入ってからなんだろう、女子といると変なことが起きてるのは」

「……まあ、そうだけど。お祓いっつっても、どこでどうやればいいんだ」

「知らないのか?」

 眼鏡越しに俺を見上げた親友の黒目が、まるくなった。

近森ちかもりさんの家、一応寺だぞ。ここへの入学寄付金も多かったらしい」

「マジでッ?」

 初耳だぞ、そんなの!

 そういえば、ちかちゃんとはあんまり家の話をしたことがなかった。本人にも進んで話したがらない雰囲気があって、あえて深く聞こうとは思わなかったし。

「じゃあ、ちかちゃんに頼んで――ってだめじゃん、いま避けられてんじゃん、俺ッ」

「当たって砕けるしかないな」

「デスヨネー」

「彼女をひとりにはしたくないんだろう? 俺よりは話すきっかけもずっと多いはずだ」

 がんばれよ、と背中を押されて、俺は小さく笑った。いい友達を持ってよかった。よし、と気持ちを奮い立たせる。

 そうだ、自分が動かなきゃ始まらない。待っているだけじゃ、女の子の心も動かせない。このままちかちゃんと離れるなんて、絶対いやだ。

 さんきゅー、と親友に礼を言って、俺は購買部へ全速力で走った。特大焼きそばパンのラスト一個を運よくゲットしてから、また屋上への階段を二段飛ばしで駆け上がる。

 思いきりドアを開け放っていつもの日陰に行けば、やっぱり彼女は膝に手作り弁当を乗せて食べていた。俺を見つめる黒い瞳が、なんでか泣きそうに揺らぐ。

「よかった、やっぱここにいてくれた」

 笑いかけると、ちかちゃんはまたスマフォに文字を打ち込んで画面を俺に見せる。

『しばらくわたしとは一緒にいないほうがいいよ』

「え、なんで」

『わたしといると、遠藤えんどうくんが危ない目に遭う』

 その言葉に、心臓が止まるかと思った。

 ――なんで、きみがそんなこと言うんだ。

 パンの袋を握る手に、力がこもる。

「ちかちゃんは全然悪くないって。むしろ、そうさせちまったのは俺だし」

 やわらかくフォローしても、彼女はぶんぶんと首を振って。

『だめなの、わたしは遠藤くんと一緒にいちゃいけないの』

「……どういうことだよ。理由がなきゃ納得できない」

 隣に屈んで、俺はちかちゃんと目線の高さをそろえる。伸ばした手で、そっと頭を撫でた。弾かれたみたいにハッと顔を上げる彼女に微笑む。

「言っただろ。俺はちかちゃんのこと、もっと知りたいんだって。……俺のこと、嫌いになった?」

 ぶんぶんぶん、とさっきよりも首が強く振られる。そのかわいい仕草に、俺はまた笑った。

「そっか、よかった。朝、スルーされちまったから、ちょっと不安だったんだ。一緒にいられない理由って、何? その内容にもよるけど、俺はこれからもきみと飯食べたりしゃべったりしたいよ」

 ちかちゃんは、気まずそうに目を逸らす。ためらいがちに、細い指がスマフォの画面を滑っていった。


『ここじゃ言えない。今日の放課後、図書室に来てくれる?』


 もちろん喜んで、と二つ返事でオーケーした。デートのお誘いみたいで、ちょっとわくわくしながら。

 俺もその場にあぐらをかいて、パンをかじり始める。黙々と弁当のおかずを頬張るちかちゃんの横顔は、まだどこか苦しそうだったけど。そんなに重大な理由があるんだろうか。

 それがどんなものでも、俺は真っ向から受け止める。ちかちゃんの悲しい涙なんて、見たくないから。


   ◆


 小学校低学年の頃、クラスでいじめがあった。男子の一グループがひとりの女の子の上履きにブスだのなんだのと油性マジックで落書きしたり、持ち物を校門近くのゴミ捨て場に捨てたり、そりゃもうひどいもんだった。

 俺は、彼女を助けることもできなかった。自分までいじめられるのが怖くて、見て見ぬふりをしちまって。でも、彼女が毎日つらそうに泣いているのを見たら、やっぱり助けたいと思い直した。

 ある夜、両親に相談すると、親父は優しく笑って言った。

「よし、お父さんがいいことを教えてやろう。――男は、女性に対しては常に紳士であれ」

「シンシ?」

「上品で礼儀正しくて、それからいろんな知識を持ってる立派な男のことだ。女の子に優しくして、その人の気持ちがわかるようになると、いいこともあるんだぞ。言葉遣いも乱暴にするもんじゃない。男がやっちゃいけないことは、食べ物を粗末にすることと、女の子を泣かせることだ。そのいじめっ子たちは、紳士の風上にも置けないな」

「ふぅん。じゃあ、おれもあの子にやさしくすれば、いじめもなくなる?」

「ああ。おまえがいじめっ子たちと戦って、先生にも相談して、その子を守ればいい。うちのお母さんみたいに、そこらの男よりやたら男らしくて腕っ節の強い女の子ばっかりじゃないからな」

 その言葉はやけに説得力があって、当時の俺にはすごく頼もしかった。

「でもな、紳士っていうのは優しいだけじゃだめなんだ。女の子がなにか間違ったことをしたら、逃げないできっぱり言わないといけない。そうやってちゃんと正面から向き合わないと、その子も自分も幸せにはなれないぞ」

「おやじも、かーさんと向き合ったからしあわせになれたのか?」

「もちろん。まあ付き合ってもらうまでに何発か熱い拳もくらったけど、お父さんはお母さんのそういう強さに惚れ――」

「息子に余計な過去をベラベラと垂れ流すのはこの口か、黙れ」

 ドスの利いた声で言った母さんに口の端を思いっきり引っ張られて、いひゃいいひゃいすびばせん、と本気で痛そうに訴える親父の姿は、ちょっと哀れではあったけど。冷めないうちに夕飯食べよう、という母さんの言葉に、俺らは笑ってうなずいた。

 次の日、学校でいじめの現場をたまたま見つけて止めに入ると、いじめっ子たちと取っ組み合いのケンカになって、やっと担任にもいじめの事実が明るみになった。俺は傷だらけになったけど、いじめられていた子は泣き笑いでお礼を言ってくれたし、その日からいじめもなくなった。

 ただ、俺が正義感からやったことは、ほかの女子からは引かれちまって、無視されるほどじゃないけど距離を置かれ始めた。それでも、俺は胸を張って言える。なにも間違ったことはしてないぞ、って。

 これがたぶん〈紳士〉になるってことなんだろう。女の子が明るく笑ってくれるなら、俺にできることはなんだってする――あの日、そう決めたんだから。


   ◆


 放課後の図書室には秋の西日が射し込んでいて、蛍光灯の光よりもあざやかなオレンジ色が床を染めていた。司書の先生は用事があって出ているみたいで、利用者もぽつぽつといるだけだ。

 一番奥の本棚の裏側で、ちかちゃんは窓際の椅子に座って待っていた。お待たせ、と俺が笑いかければ、ぎこちない笑みを返してくれる。その膝の上には、一冊の厚い本があった。彼女の首に巻かれた白い包帯も、今は夕焼けと同じ色に見える。

 近くにあった椅子を運んで隣に座った俺に、ちかちゃんはスマフォの画面を見せる。

『今からわたしが話すこと、信じてくれる?』

 黒い真珠みたいな目が、頼りなげに俺を見つめる。

「もちろん。ちかちゃんが真剣に話してくれることなら、なんでも信じるよ」

 すぐにうなずけば、彼女はほっとしたように文字を打ち込んだ。

『八百屋おしちの話、知ってる?』

「んー、名前だけは聞いたことあるような、ないような」

『わたしの家、お寺なんだけど。お七をまつってるほこらがあるの』

 ちかちゃんの手が、開いた本を俺にそっと差し出す。読んでくれってことだろう。受け取ってそのページに目を通した。

 お七は江戸時代にいた八百屋の娘で、火事が起きて避難した寺で出会った男に惚れて、またその人に会いたい一心で放火事件を起こして火刑に処された十六歳の女の子、らしい。確かに、一人の男を一途に想い続けたのはかわいいなって思えるけど。そのために放火までして関係ない人たちを巻き込むのは、感心できない。

『お七とその恋人についてはいろんな説があって、文学とか歌舞伎とか落語とかにもたくさん使われてるの。だから、ほとんど創作のキャラクターって扱いをされるみたい』

「ふぅん。もしかして、ちかちゃんちがお七が避難した寺ってこと?」

『そのお寺もいろんな説があるし、お七を祀ってるのはうちだけじゃないから、なんとも言えないけど』

 ちかちゃんは、なんでかそこで気まずそうにうつむいて。指が、ためらいがちにスマフォの画面を滑る。


『春休み、遠藤くんがうちにお参りに来てくれたとき、すごくびっくりした。でも、うれしかった。ありがとう』


 え、と俺の口は母音を発音するかたちのまま固まった。

 ――いやいやいや、待て待て待て。ネットで検索して、家から電車でわりと近いあの寺に行こうって決めたのは自分だけど。寺の名前にも、近森なんて入ってなかったし。祀られてるのは縁結びの神だってことくらいしかチェックしてなかったし。

「あそこがちかちゃんちだったのか!?」

 こくり、とちょっと恥ずかしそうに彼女はうなずく。

 なんつーか、世間って狭いな。

『遠藤くんは前に、わたしが同じ人とずっと一緒にいないのが気になる、って言ってたよね。それにも理由があるの』

 打っては消し、打っては消しをくり返しながら、ちかちゃんの指が言葉を丁寧に入力していく。

『わたし、小さいころから、人と人を結ぶ糸が視えるの。たぶん、生まれつきなんだと思うけど。親もそれを知ってる。その糸は、もちろんわたしからだれかにも全部つながってて。初対面の人とか、普段あんまりしゃべらない人とかは、透明に近い白い糸。恋人とか夫婦とかは、赤い糸。絶交したり、離婚したりした人たちは、黒い糸。縁が切れると、黒い糸はぶつんって切れちゃうの』

 不思議な事実を知って、やっと納得した。彼女が他人と距離を置いているのは、そのせいだったんだ。そんなものをずっと視続けているなら、目どころか心まで疲れちまう。

『自分とだれかを結ぶ糸も、色がしょっちゅう変わっていって、それを見るたびに怖くなった。仲良くなりたくても、いつかなにかのきっかけで嫌われちゃうんじゃないか、縁が消えちゃうんじゃないかって』


 わたしはみんなに優しくなんかない、怖がりなだけなの。


 そう一言付け加えたちかちゃんのまぶたが、ぎゅっと閉じられる。怯えるみたいなその態度も、なんか無性にほっとけなくて。

 彼女の頭に手を乗せて、ぽんぽんと撫でた。ぴくり、と小さい肩が震える。

「ちかちゃんは優しいよ。俺にこうやって全部話してくれたじゃん」

 おずおずと俺を見る瞳が、少しだけ潤んでいた。

「なぁ、俺ときみの糸もちゃんとつながってる?」

 この辺かな、と笑って自分のシャツの胸をてのひらで触ってみれば、ちかちゃんは泣き出しそうな顔で静かにうなずく。

 ――あぁ、ヤベえ。抱きしめたくなる。

 男としての衝動をどうにかこらえて、俺はあえて軽いノリで言った。

「糸の色は聞かないでおくよ。知らないほうが楽しみが増えるし」

 その色がどんなに移り変わっても、俺はちかちゃんを好きでいられる自信がある。彼女が遠ざかるなら、離れた分だけまた近づいていけばいい。せっかくできた〈縁〉を、そう簡単に切り捨ててたまるか。

 コクるなら今だ。ムードもいい。赤い糸なんて、俺には全然視えないけど。自分のこの想いは、嘘偽りなく本物なんだから。

 司書の先生が戻ってくる前に、だれかが俺らを見つける前に。

 ちかちゃんのきれいな黒髪をあやすようにゆっくり撫でながら、俺は小さく息を吸い込んだ。


「俺、ちかちゃんが――」

「大好きよ、庄之介しょうのすけさん」


 けど、真剣な告白を遮ったのは、ちかちゃんの声だった。まだしゃべれないはずなのに、確かにあの鈴みたいな声が聞こえて。

 穏やかに微笑む彼女の黒い目に、炎みたいな赤い光が揺れた。様子がおかしい。

「ちかちゃん?」

「やっと逢えて、本当にうれしいわ」

「……きみは、誰だ」

 ぞわっ、と鳥肌が立つ。違う、この子はちかちゃんじゃない。

 にらめば、彼女は俺の手をそっと取って楽しそうに告げた。


「お忘れになったの? あなたを愛したお七を」

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