第2話
赤い糸なんて、ただのたとえだと思っていた。でも、どういうわけか、小さいころからそれが視える。人と人とを結ぶ〈縁〉の糸が。
◆
どうしたら、他人ともっと深く関われるのかわからない。特に男の人とは。
学校でクラス替えがあるたびに、彼らは休み時間にわたしを取り囲むようにして声をかけてくる。
「
「近森さん、それ重そうだね、持つよ」
「近森さん、今日ヒマだったら一緒にゲーセン行かねえ?」
「近森さん」「近森さん」「近森さん」「近森さん」「近森さん」
そのたびにわたしは微笑んで、やんわりと断る。そうやってだれにでも同じ態度や対応を通すことで、彼らは少しずつ距離を置くようになっていくのだ。お互いを結ぶ〈糸〉が、離れた分だけすぅっと伸びて透明になっていく。ほっとすると同時に、自己嫌悪もしてしまう。近づきたいのに自分から壁なんか作って遠ざけて、バカだ。
二年生になった春、わたしを囲む輪に入らなかった男の人が二人だけいた。先生たちからも評判のいい風紀委員くんと――女の子たちが遠目に眺めてきゃーきゃー言うくらい甘い顔立ちをした
ある日、校門の前で遠藤くんとたまたま会った時は、正直半分あきらめかけていた。彼もほかの人たちと同じなのかもしれない、なんて。
「よろしければ、ご一緒に猫と遊びませんか、近森さん」
でも、全然ちがった。
そんなことを言われるとは思わなくて、わたしはまばたきをくり返した。その仕草や言葉遣いはお芝居みたいなのに、あまりにも本人に似合ってナチュラルだったから、一瞬違和感さえ忘れてしまったくらいだ。本職は役者なんじゃないかとさえ思えた。
気がつけば、わたしは彼のペースに乗せられて笑っていた。〈糸〉の白が淡い雲の色から牛乳みたいに濃くなって、お互いの心をつなぐ。三毛猫からわたしたちにも、同じ色のそれがのびていた。
「遠藤くん、同い年なんだから敬語使わなくていいよ。あとその台詞、なんか少女漫画に出てくる人みたいだね」
「えっ?」
そうかな、と照れたように頭を掻くのもかわいくて、また笑った。
いいよ、と答えてわたしは歩み寄った。初めて、男の人の要望を受け入れた瞬間だった。
猫は、本当におとなしく遠藤くんに身を預けていて。わたしが頭を撫でるとうれしそうに目を細めて、にゃあと鳴いた。
「遠藤くん、動物好きなの?」
「っていうよりは、かわいい女の子が好き、かな」
「え?」
「知ってる? 三毛猫ってオスの数がすげえ少ないんだって。だから、この子もきっとメスだ」
猫のお腹が上になるように抱え直した彼は、ほらやっぱりな、と笑ってやわらかな毛並みを軽くくすぐる。猫も楽しそうに身をよじった。
「うちの母さん、無駄に男らしくてさ。若い頃にヤンキ――じゃなかった、ヤンチャしてたらしくて。だからそうじゃない女の子とか、女の子が好きそうなかわいいもん見るとちょっと安心する。母さんも母さんで好きだけど」
「かっこいいお母さんなんだね」
「いや、どうかな。怒らせるととんでもなく怖いから」
話す間も、猫が遠藤くんのそばを離れようとしなかったから、餌でも買おうかと一緒にコンビニへ行くことにした。
通学路を歩いていても、ほかの女の子たちがちらほらと遠藤くんに視線を寄せているのに、彼は適度にわたしに話しかけて和ませてくれた。
「近森さん、いつも昼は弁当食べてるよね。自分で作ってんの?」
「早起きしてるから、体調悪くなければね」
「いいなぁ。うちなんか親が共働きだから、俺が起きる時間には誰もいないし」
「そうなんだ」
「だから、学校にいたほうが楽しいな。購買の特大焼きそばパン食えれば、一日がんばれる」
校内名物、細長いフランスパンみたいなサイズにソース焼きそばがたっぷり詰まった特大おかずパン、一日二十個限定。女の子がひとりで食べるにはきついけれど、遠藤くんはそれをまるっと胃に収めてしまうのだという。パスタ系のおしゃれなものを食べそうなイメージがあったから、そのギャップも意外だった。
コンビニで、猫にあげる煮干しや自分たちの食べるお菓子を買って。公園に入るとさわやかな春風に出迎えられて、夕焼け空の下で子どもたちがバドミントンをして遊んでいるのが見えた。ふたりでベンチへ歩く間、その羽根が不意に飛んできて、わたしにぶつかりそうになった。
ぱしっ、と音がして。羽根はわたしの顔の前で、遠藤くんの手につかまれていた。彼は気を悪くしたふうでもなく、きりりとした鳶色の瞳を細めて微笑んだ。
「だいじょうぶ? 危なかったな」
「う、うん。ありがとう」
気ぃつけろよー、と羽根を返しにいく背の高い後ろ姿を、つい目で追ってしまった。風にゆるやかになびくチョコレート色の髪を、軽く手で押さえながら戻ってくる。何気ない一挙一動が全部かっこよく見えてきてしまって。どきっと跳ねた心臓も、気のせいだと思いたかった。
遠藤くんは充分モテそうなのに、どうしてほかの女の子たちと一緒にいないのだろう。
座った膝の上にアーモンドクッキーの袋を広げて、一口サイズのそれを口に運ぶと、隣で本人が猫に煮干しを一匹ずつくわえさせながらため息をこぼした。
「女の子ってさ、なんでやたらグループ作りたがるんだろうな。その中に男が入っちゃだめなのか」
「遠藤くん、毎日いろんな子としゃべってるみたいだけど……うまくいってないの?」
「俺が今まで声かけて引かなかったの、近森さんだけだよ」
クッキーのかけらが口の端からうっかりこぼれそうになって、あわてて手で覆った。
微苦笑する表情だけで女の子をときめかせる遠藤くんの魅力は、すごい。モデルにスカウトされたことがあるらしい、といううわさも納得できた。
膝に乗せた猫を撫でながら、自分ももぐもぐとよく噛んで煮干しを飲み込む様子も自然体で。もっと気取った感じの人だと思っていた。そばにいても緊張しないし、一緒にいる空気も軽くてとても楽だ。
ふと、彼はつぶやいた。
「近森さんがさ、いつも同じ人とずっと一緒にいるとこあんまり見ないから、気になったんだ。なんでなのかなって」
「え?」
ぎくり、と肩が
「あ、もちろん言いたくなかったらいいんだけど。クラスでも誰かが嫌がることは進んでやってるし、勉強もできるし、周りに嫌われてるわけでもないのに」
きみは、いつだってひとりだ。
憐れむでも責めるでもなく、彼はただ事実をぽつりと言い置いて。鳶色の両目が、やわらかく笑いかけてきた。
「だから、話してみたかったんだ。せっかく同じクラスになれたんだし、もっと知りたくて」
「……遠藤くん、よく見てるんだね」
「そりゃもう。一年の時から気になってたし」
「そんなに前から? どうして」
「生徒総会で真っ先に質問してただろ」
――あぁ、そんなこともあった。
部活動は優秀な実績ありきだからと、運動部と文化部の予算案の割合の差が理不尽なほど開いていて、納得できなかったのだ。確かに、この高校には全国大会出場レベルの運動部もいくつかあるけれど、だからといって文化部の予算をおざなりにしていいわけがない。だれもが楽しむための活動なのに。
生徒会役員の人たちと冷静に受け答えをしていたつもりだったけれど、周りから野次も飛んだりしてちょっと怖くなって。すとんと椅子に座って初めて、足が小さく震えていたことに気づいた。先生たちが途中で止めに入らなかったら、もっとヒートアップしてしまっていたかもしれない。
そんな情けない有様でも、遠藤くんは憶えていてくれた。勇気を振り絞ったわたしの姿を。
「あの時、俺ぶっちゃけガチで寝そうになってたんだけどさ。近森さんの声で、一気に目ぇ覚めた。予算を無駄に偏らせず均等になるよう見直してください、って意見もかっこよかったし」
「えっと、あれは、その、ほとんど勢いで言っちゃったっていうか……!」
真夏でもないのに、体温が足元からぐーんとのぼってきて顔まで熱くなってきた。
しどろもどろになってしまうわたしの鼓膜に、それでも彼は優しい言葉を注いだ。
「こうやって実際しゃべれてうれしいよ、今も。――うん、やっぱあの時と同じかわいい声だ」
飲み込んだはずのクッキーの味は、とっくに忘れ去ってしまって。
――遠藤くんに彼女がいないなんて、嘘だ。こんなにかっこいいのに。
ただ、聞こえるか聞こえないかの小声でお礼を言うことが精一杯だった。
そうだ、と彼は名案でも思いついたかのように言う。
「近森さんだから、ちかちゃんって呼んでもいいかな。俺のことも好きに呼んでよ」
「……うん」
にゃあ、と満足気に鳴いた猫が遠藤くんの膝からおりて、さようならの代わりに尻尾を振って走っていってしまった。その気ままな後ろ姿を見送って、どちらからともなく笑い合った。
その日以来、わたしたちを結ぶ〈糸〉は、ほのかな桃色に染まり始めていた。
◆
街並みを、秋の夕焼けが真っ赤に照らしている。先生の腕を燃やした炎を思い出してしまって、歩きながらぶんぶんと首を横に振る。
あのあと来た警察の人たちから簡単に事情聴取されて、遠藤くんは持ち物検査までされて、証拠がないからとすぐに帰されたけれど。
わたしのせいで、彼に疑いがかけられてしまった。わたしのせいで、彼やその親友に迷惑をかけてしまった。
泣きたくなると、また頭の中に楽しそうな笑い声が聞こえた。
くすくす、くすくす。
同い年くらいの女の子の声。
『見ものだったわね、あいつの顔。あたしの身体に汚い手でベタベタ触った罰よ、いい気味』
――やめて……!
もうやめてよ。
立ち止まって耳を塞ぐ。心の中で訴える。それでも、声は消えてくれない。
小馬鹿にするような口調から打って変わって、彼女はうっとりと言葉を紡ぐ。
『あの人、喜んでくださったかしら。あたしを庇ってくださって、本当に素敵な人』
――そんなわけないでしょ。どうして遠藤くんに近づく人にばっかり、こんなひどいことするの?
『決まってるでしょ、邪魔だからよ。あたしとあの人が結ばれるための障害なんて、全部燃やしてやるわ』
そんなことはさせない、させたくない。でも、どうしたらいいのだろう。
包帯を巻いた喉が、焼けるように痛んだ。彼女はわたしの声を封じて、周りの人たちに大切なことを言わせないようにしている。手で押さえて顔をしかめながら、帰り道をゆっくりと歩き出す。
これ以上そばにいたら、また遠藤くんが危ない目に遭ってしまう。そんなのは、絶対にいや。
唇をぎゅっと引き結ぶ。
ある場所にたどり着いたわたしの足元には、春休みに彼がお参りに来た
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