廻るぼくらの遠近感

蒼樹里緒

第1話

 黒い空に浮かぶ星さえ見えないくらいに、赤い炎が燃え上がる。木造の家は、ほんの少し火をつけただけでも、夜風ですぐに焼けて崩れていこうとする。

 そのさまを離れたところで眺めながら、ただ笑った。ぱちぱちと爆ぜる火の粉や、ごうごうと燃え続ける炎の音に、自分の笑い声はかき消されるだろう。けれど、楽しくてたまらない。

 これで、またあの寺に行ける。あの人に逢える。今度こそ、だれにも邪魔されずに結ばれる。


 燃えろ。もっと燃えろ。あの人の心に届くように。


   ◆


 小柄な女の子のために、本棚の一番上に並んでいる本を取るのは男として当然のことだと思う。けど、俺が引き抜いたそれのほかにも、横の本が何冊かぐらりと手前に傾いて。

「危ないッ」

 落ちてくる本から、とっさに女の子を抱き寄せて庇う。一冊が俺の頭に当たった。痛え。

 床に散らばったものを見て苦笑しながら、俺は彼女から身体を離した。

「だいじょうぶ?」

「……やっぱり、遠藤えんどうといると呪われる」

 けど、怯えて目を潤ませるその反応から、今回もいつもと同じかと察した。

 小走りで資料室を出ていく後ろ姿を見送って、あーあ、とついぼやく。深く長いため息は、紙のにおいに混ざってとけた。

 仕方なく本を拾って元の位置に戻す。日直だからと先生に指名されて、授業で使った資料をふたりで返しにきただけでこの有様か。

 本のぶつかった後頭部は、まだじんじんと痛んでいた。おまえが悪い、とでも言いたそうに。

 純粋に女の子の手助けがしたいだけなのに、なんでかいつも彼女たちを危ない目に遭わせちまうのは、もう何十回目になるだろう。この高校生活三年目の秋に、軽く百回は超えたかもしれない。中学までは――っていうより、『あの場所』に行くまではこんなことはなかったのに。なんだってんだ、一体。

 昼休みだし飯でも食おうと廊下に出れば、にぎやかな生徒たちの声に紛れて女子のささやきも聞こえてくる。

「遠藤のやつ、またやったの?」

「さっき、中島なかじまさんが泣きそうな顔で走っていったの見たよ」

「うわー、かわいそう」

「やっぱ、あいつには近づかないほうがいいよね。女子は呪われちゃうよ」

「ルックスはすごくいいのに、なんか残念。モデルにスカウトされたこともあるんでしょ?」

「背も高いし、女ウケしそうな顔だしね。黙ってればかっこいいほうかな」

 スカウトの件は事実だけど、呪いだのなんだの言うのはマジで勘弁して欲しい。俺だって好きで女の子を危険に晒してるわけじゃねえし、むしろかっこよく守りたいっつーの。周りの男子も同情的な視線を向けてくるし、いたたまれない。

 D組の教室に戻ると、窓際の俺の机に長い黒髪の女の子がノートを置いているのが見えた。俺の中で、校内で一番紺色のセーラー服が似合っている子。

 ほっとして声をかける。

「ちかちゃん、さんきゅー。それ、古典のノート?」

 振り向いて俺を見上げたちかちゃんは、微笑んでうなずく。美人ってほどじゃないけど、いまどき珍しいおしとやかな雰囲気が好きだった。細い首に巻かれた包帯の痛々しさに、ちょっと切なくなるけど。本人がいつもどおりに振る舞っているから、俺も必要以上に気遣いはしない。

 ノートを受け取って、俺はさりげなく誘う。

「そうだ、また一緒に飯行かない? 古典も教えてもらいたいし」

 ふんわかとした笑顔でうなずかれると、いやなことなんか全部忘れられそうだ。

 校舎一階の購買部でパンや飲み物を買って階段をのぼるあいだにも、すれ違う女子たちの噂話は続く。

「遠藤、また近森ちかもりさんと一緒にいるね」

「あの子、今しゃべれないから断れないだけでしょ。付き合わされちゃってかわいそう」

「病気で声帯手術したんだっけ」

「そうそう。いくら優しい子だからってさぁ、つけ込みすぎだよね」

 いやいやいや、だからちかちゃんのことまであれこれ言うのは勘弁してくれって。俺のことだけならいいけど。

 ごめん、と隣を歩くちかちゃんに視線だけで謝れば、ちかちゃんはやっぱりやわらかく笑ったままでふるふると首を振る。

 ほんと、なんていい子なんだ。

 胸の奥に、じーんとあたたかいものがこみ上げてくる。

 屋上に出ると、雲ひとつない青一色の秋空に出迎えられた。休み時間や放課後は立入禁止じゃないから、軽いボール遊びをしている生徒たちの姿もちらほら見える。入口近くの日陰に座って、ちかちゃんから家庭教師風に勉強を教わる日課が、一番の幸せだ。

 右手に特大焼きそばパン、左手に開いたノートを持って俺は微苦笑する。

「ごめんな、いつもノート借りちまって」

 ちかちゃんは、握ったスマートフォンに文字を打って俺に画面を見せる。

『いいよ。遠藤くん、ほんとに古典苦手なんだね』

「うん、マジ無理。同じ日本語とは思えないし。なんで昔の人はこんなくそ難しい言葉遣いでしゃべってたんだろうなぁ」

 ノートを見ながら首をひねった。

 縦書きされたちかちゃんの字も相変わらず流れるみたいにきれいで、要点がカラーペンで色分けされて書き込まれているのもかわいい。けど、内容をどうにか理解しようとしてもサッパリだ。古文の横に添えられた現代語訳と、かじるパンに挟まれた焼きそばがうまいってことはわかった。ソースの加減と青海苔の風味が混ざり合って絶妙だ。

 ふと日直の子のことが気になって、ちかちゃんに聞いた。

「中島さん、泣いちまってた?」

 たまごパンを小動物みたいに頬張る彼女は、小首をかしげる。たぶん、見ていないんだろう。そっか、と苦笑して俺はノートに視線を戻す。

「光源氏がうらやましいな、いろんな女の子と付き合えて」

 古典の授業で取り扱われている『源氏物語』の主人公の生き方については、ちょっとあこがれる男も多いんじゃないだろうか。時代が違うにしろ、実際ハーレムみたいなもんだろ、これ。彼女いない歴十七年と半年ちょいの俺には、恋の師匠にも見えてくる。

「春休みにさ、寺にお参りに行ったんだよ。縁結びの神さまがいるとかで、そこそこ有名なとこ」

 願掛けでもすれば、女の子を不幸にしちまうこの変な体質も治るんじゃないか、なんて淡い期待を抱いた。高校生活最後の年こそ彼女ができますように――と寺の隅っこにぽつんとあった祠の前に立って、お地蔵さんに真剣に手を合わせて。行きに花屋で買った小さい花束くらいしか、お供え物は用意できなかったけど。

「なぁ、ちかちゃん。俺、どうしたら彼女できると思う?」

 ため息まじりに相談してみても、ちかちゃんはちょっと困ったように笑うだけだ。

 なに聞いてんだよ、俺。神頼みなんかしても、結局は自力でどうにかしなきゃ意味のないことなのに。

 それでも、彼女はまたスマホに何か打ち込んで俺に見せてくれる。


『自分じゃ気づいてないかもしれないけど、体育の時間に動き回ってる遠藤くん、さわやかでかっこいいよ。バスケとか、いつもひとりでガンガン点取ってるのに、チームの人たちのこともちゃんと気遣ってるし。いいムードメーカーって感じ』


 ――よっしゃあぁぁぁぁ!

 優しい言葉の並ぶその画面を、メールで送ってもらって永久保存したい。

 思わずガッツポーズしそうになると、焼きそばパンをうっかり落としかけて。ちかちゃんの黒い目が、びっくりしたように何度かまたたいた。


   ◆


 一年生の頃、初めて参加した生徒総会の質疑応答で、真っ先に質問をした女の子がいた。

「運動部と文化部の予算案の割合に差がありすぎると思うのですが、具体的にどういった仕分けをされているのでしょうか?」

 同じ学年の列から鈴の音みたいに透明な声が聞こえてきて、パイプ椅子に座ってうとうとしていた俺の眠気は、その瞬間に吹っ飛んでいった。

 かわいい、なんてささやき声があちこちで上がって、生徒会長や先生たちが声を張るまでずっとざわついていたくらいだ。マイクを通さなくても、その声自体が一種の特殊な楽器なんじゃないかとさえ思えた。

 こんなにきれいな声の子なら、一〇〇パーセントかわいいに決まってる――すぐに確信めいた妄想もしたのは、男のサガってやつだと思う。

 その特徴的な声の持ち主をやっと知ったのは、二年次のクラス替えの時だった。

「近森葉月です。よろしくお願いします」

 新学期初日、席順に軽く自己紹介をしていく中、控えめに名乗ったその子こそが、ちかちゃんだ。声のイメージと少しもずれない真面目そうな子、って第一印象を持った。

 彼女がだれかとケンカしたり言い争ったりしているところを、今まで一度も見たことがない。他人を嫌うことを知らないんじゃないかと思うくらい、相手に必要な言葉を選び取っているみたいに楽しそうに話していた。それでも、クラスの中で浮いているわけじゃないのに、特定の人と一緒にいるところもほとんど見かけない。それが気になって、自然に話せそうな時をじっくり待った。

 ある日の放課後、校門の前に人なつっこい野良の三毛猫がいて。やたら俺の足にすり寄ってくるもんだから、しゃがんで遊んでいたところに、ちょうどちかちゃんが通りかかった。

 今がチャンスだ。猫を腕に抱えて、俺は勇気を出して彼女を誘った。

「よろしければ、ご一緒に猫と遊びませんか、近森さん」

 芝居がかった仕草で片腕を差し伸べてみれば、ちかちゃんはきょとんとまばたきをしたあと、おかしそうにくすくすと笑った。

「遠藤くん、同い年なんだから敬語使わなくていいよ。あとその台詞、なんか少女漫画に出てくる人みたいだね」

「えっ?」

 その反応に、俺は別の意味でびっくりした。こういう声のかけ方をすると、大抵の女子にはドン引きされちまうのに。女の子に対しては紳士であれ、っていうモットーに従って行動しているだけなんだけど。ちかちゃんは、普通に笑って済ませてくれた。

 ヤベえ、この子は天使だ。いや、女神さまだ。そう直感で悟った。

 不思議だけど、ちかちゃんと一緒にいても、いつもの変なことは全然起きなかった。三年生になった今でも同じだ。もしかしたら、この子とならいい感じの仲になれるんじゃないか――なんてわくわく感を持ち続けながら、今日を迎えている。コクるのにはタイミングが肝心だ。その場のノリで言ったら、またいつもの冗談だと思われそうだし。

 どうしてそんなに女の子が好きなの、とある日聞いてきたちかちゃんに、俺は笑って答えた。


「親父が昔から言ってたんだ。男がやっちゃいけないことは、食べ物を粗末にすることと、女の子を泣かせることだ、って。だから、俺も女の子を幸せにしたいって思ってるよ、いつでも」


   ◆


 廊下の窓から射す光があざやかなオレンジ色になった頃、俺は親友と教室を出た。昇降口への階段を降りながら、軽く伸びをする。

「わりぃな。今日も塾行くのに、数学教えてもらっちまって」

「別に、いつものことだからな」

 親友は、微笑んで眼鏡の位置を指で直す。秀才って、こういう仕草もいちいち画になるからいいよなぁ。学ランのボタンも襟まできっちり留めるタイプだ。俺はいつも全開だけど。

「それにしても庄司しょうじ、数学も近森さんに教わったほうがいいんじゃないのか? 学年首位だろ、彼女」

「ちかちゃんは進路クラスも文系だし、ずっと付き合ってもらうのもわりぃしさ。理系科目はおまえ、文系科目はちかちゃんってことにしてんだ」

「なるほど。体育の実技はずば抜けてるくせに、座学がさっぱりとはまたつくづく残念だな」

「残念とか言うな。俺だって、もっと利口な脳ミソ持って生まれたかったっつーの」

 クラスに優秀な友達がふたりもいて、俺は幸せ者だ。どんだけくだらない噂を立てられようが、この親友とちかちゃんと一緒なら、高校生活も最後まで楽しめそうな気がしていた。

 一階の廊下に出ると、職員室の前にちかちゃんを見つけた。俺らより先に帰っていたと思ったけど。

 話している相手を見て、俺はつい眉をひそめた。

「げっ。ちかちゃんにまでなにしてやがんだ、あのセクハラ野郎」

「相変わらずだな」

 親友も眼鏡越しに目を鋭くする。

 女子にやたら馴れ馴れしく触りまくることで有名な、中年生物教師。ちかちゃんみたいなおとなしい子は、特に狙われやすい。

 やつの手が彼女の肩をねっとりと撫でた瞬間、俺の足は動き出した。おい、って止める親友の声が聞こえたけど、そのままずんずんと突き進む。

 ちかちゃんがしゃべれねえからって、好き勝手されてたまるか。この遠藤庄司、推して参る。

「せんせー。今日の授業でちょっとわかんねえとこあったんですけど、質問いいですか?」

 さりげなく声をかければ、二人はハッと振り向く。やらしい手が、ちかちゃんの体からやっと離れた。

 泣きそうな顔をしている彼女に、早く逃げて、と俺は目配せする。

 先生は、取りつくろうようにぎこちなく俺に笑いかけた。

「あ、ああ。なんだ、遠藤」

「塩基配列のことなんですけど――」

 俺が先生を引き止めるうちに、ちかちゃんは親友のいるほうに静かに歩いていく。腰まで伸びた黒髪がさらさらと揺れる後ろ姿も、またかわいい。

 俺と話す間も、先生の視線はちらちらとちかちゃんを追っていて、舌打ちしたくなる。しつけえんだよ、セクハラ野郎。


 心の中で罵った瞬間だった。

 ちかちゃんに触っていたやつの手が、いきなり燃え出したのは。


 男の絶叫が、鼓膜をぶち破りそうだった。チャイムの音よりよっぽどでかく聞こえる。

「えっ、な、なんだ!?」

 俺もさっと後ろに下がる。

 赤い炎が、先生の服を伝って手から肘へと燃え広がっていく。煙ももくもくと天井にのぼって。

「おい、ほかの先生呼んでくれ!」

「ああ!」

 親友が職員室に駆け込む。

 ちかちゃんは両手で口を覆って、目の前の光景を呆然と見つめている。

 俺は自分の学ランを脱いで先生の腕をはたくけど、炎はなかなか消えそうにない。

 職員室から出てきた先生たちもびっくりして、あたふたといろんな対応をし始める。昇降口から消火器を持ってきた人とか、バケツに水を汲んできた人とかのおかげで、どうにか炎は消えた。たまたま近くにいたらしい生徒たちも野次馬みたいに集まってきて、場は一気に騒がしくなる。詳しい事情を聞きたいからと俺ら三人は職員室に残ることになって、先生は救急車で病院に運ばれていった。

 ――なんでだよ。ちかちゃんといるときだけは、変なことなんてなかったのに。しかも、今回は相手が男なのに。

 人の体が勝手に燃え出すなんて、漫画じゃねえんだし。

 まだ秋なのに、真冬かと思うくらいの寒気が這い上がってきた。来客用のソファに座った自分の膝を、ぎゅっと握りしめる。

 ちかちゃんも責任を感じちまっているのか、俺の隣でうつむいていた。

「ちかちゃんは、何も悪くないから」

 そう静かに言うことしかできなくて。うなずく彼女の苦しそうな表情に、胸がギリギリと締めつけられた。

 女の子を泣かせる男は、最低だ。

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