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転章

 ――洞窟街の異変に、最初に気づいたのはレイユァだった。

 彼女が地下の一番浅い部分に陣取っているということもあるし、その巣の中に糸を張り巡らせているからでもあるだろう。

 一度自分の巣の中で、子供を一人失うところだった彼女にとって、偏執的とでもいうべきその糸に、無視できない客人が引っかかった。

「……明日はみんな、家から出ないようにね」

「姐さん、何かあったんですか?」

 側付きの娘達が首を傾げるのに対し、レイユァは不機嫌そうに、それでも優しく語った。

「怖ぁい奴らが、降りてくるから。明日は一日奥へ入って、何も見てはだめ。大丈夫、こちらが邪魔をしない限りは、向こうも何もしないから」

「は、はい」

 有無を言わせぬ主の声に、娘たちは頭を下げて駆けていく。連絡は既にレイユァの糸によって行われているため、客を入れないための準備をしにいくのだろう。ひとり残された部屋の中、ふう、と美しい絡新婦は溜息を吐く。

「本当、面倒なこと」



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 事前に気づいたのはレイユァだけで、他の長達が気づいたのはそれが地下に足を踏み入れてからだった。

 かつ、と高いヒールの黒い靴が、洞窟の床を叩く。黒い皮で編み上げられた喪服のようなドレスに、顔を覆う黒いヴェール。奇妙な貴婦人の率いる一団が、地下へと入ってきた。

 いつになく人影のない洞窟街を、悠々と歩く貴婦人には、一人のメイドが側に仕えている。足元に届くぐらいの長い黒髪は下働きの邪魔になるだろうに、その美しさと所作の綺麗さにより何ら障害にもならない。まるで蝋人形のように滑らかな肌と、金色の瞳を持っていた。

 まるで彼女たちを守るように、二頭の巨大な黒犬が回りに控えている。瞳はやはり金色だ。口端から覗く犬歯は鋭く長く、人間の腕や足なら簡単に噛み千切れそうだった。

「――距離を取れ。最低でも300。存在を気取られるな」

 闇にその身を隠し、彼女たちの観察を続けるのは“蟻”の隊長だった。本来ならば、地下の均衡を崩す程の侵入者には誰何もかけず襲い掛かるのが“蟻”の本領である筈なのに、それをしていない。只管に距離を取り、油断はしないが仕掛けもしない。“蟻”を知るものならば、それだけで異常事態だと理解できるだろう。

 隊長自身、自分達の役目を果たせないことに忸怩たる思いはあるが、動くことは出来なかった。

「決して仕掛けるな。すれば最後――我等は全滅する」

 普段の冷徹さが嘘のように、悔しさが滲んだ声が闇に溶け、全体に広がった。



 ×××



 薄暗い部屋に、薄紫色の煙が充満していた。

「ああ、鬱陶しい……」

 壁から伸びた水煙草の管をがじりと噛みながら、ミロワールは悪態を吐く。地下に降りてきた貴婦人が何者であるか気づいた彼女は、そこから一切外に出ず穴熊を決め込んでいる。

 勿論普段から外出するような性質ではないが、今回は別だ。あんなものと顔など絶対に合わせたくないし、視界にも入れたくない。

 魔操師が誰より嫌い憎む、この世界の理そのもの。未だ誰もが届いたことのない頂の果て。即ち――。

 只管不機嫌そうにがじがじと、今度は愛用のペン先を噛む。己の腕だけを頼りに世界を改変する者であるからこそ、今の実力であれに手を出してはいけないこともよくわかる。だからこそ腹立たしい――己の未熟が。

「全部まとめておっ死にやがれ、邪魔なんだよ糞どもが……!」

 ただ悪態を吐くことしか出来ない己が許せず、ミロワールは自分の顔にぎちりと爪を食い込ませた。



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「ほっほっほ。豪華なことじゃ」

 唯一、普段と変わらぬ姿を見せるのが“蛞蝓”とリマスだった。残念ながら外からの客は蜘蛛のせいで滞っているが、それでも客足は少なくない。

「三つを従え現れるとは、噂に聞く姿そのもの。儂の店に立ち寄っていただけないものかな」

 如何なる存在であろうと客にして客寄せ以外の価値などない、と言いたげに、リマスは店の二階から街を見下ろし上機嫌に酒を呷る。

「しかし――噂通りあれが、“蛆”が望むものだとするのなら、奴らも煩くなりそうじゃな。さてさて、面白い。地下が揺らげば地上も揺らぐ、果たして城は無事にすむかな?」

 世界の異変を心底楽しそうに、老爺は笑う。

「いずれにせよ、良い商売時になりそうじゃ――長生きはするもんじゃのう」

 この世全てを金に換算できる男は、黒い貴婦人を見下ろしてそう断言した。



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 そして――彼女達は辿り着いた。洞窟街の底の底、誰もが目を逸らし見なかったことにする深淵の魔窟。只管に地に潜り、嘗て奪われそうになった自分達の教義を守り、信仰を伝えてきた一族。

 一様に日に当たらぬ白い髪と肌を晒した者達が、老若男女問わず地べたに平伏していた。

「お戻りになられた」

「われらの神が」

「なんと有難いこと……」

 ひそひそ、さわさわと声が広がる中、ゆっくりと歩いてきた貴婦人の足が止まる。側づいたメイドが恭しく、彼女の顔を覆っていたヴェールを外した。

 その下にあるのは、傷だった。顔のあちこちに、切り傷や刺し傷と思われるものが山ほどついていた。傷の広がり具合からして、顔から首、体中にあってもおかしくないほどに。瞳は金色――だが、その中心にまるで暗がりのような黒が揺らいでいる。真っ白な髪は貴族の女性と思えない程短く切られていた。

 平伏す者達と、側に侍るメイドと犬たちを順々に――どこか感慨もない目で見まわしてから、少しだけうんざりとした声で、彼女は告げた。

「この街に、崩壊神アルードの兆しはあるか」

 と。

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悪食男爵と墳墓の皇帝 @amemaru237

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