エピローグ

 竜胆号の縁に縋り、じっと海原の向こうへ遠くなっていく黒河を見つめていたリュクレールが、はっと声をあげた。

「男爵様! あれを!」

 彼女が見止めたのは、黒河から向かってくる小さな船だ。帆もないのに水の上を滑るように走り、見る見るうちに竜胆号に追いついてくる。上に乗っているのは竜司らしき者と、他に三人。一番小柄な人影が、鈍く光る腕を掲げて見せた。それを確認して嬉しそうに振り返る妻を、男爵は満面の笑みで受け止める。

「ンッハッハ、流石我が自慢の執事、無事に役目を果たしたようですな。迎えに参りましょうか」

「ええ、ええ!」

 我慢できず駆け出したそうにしている妻の手をさっと取り、二人で乗船の為に梯子を降ろしている場所へと向かう。最初に上がってきたのは、疲れは見せるが五体満足な瑞香だった。

「あー、つっかれたあ! もう今日は寝るわぁ」

「ンッハッハ、お疲れ様であるよ親友。――無事で何よりだ、ゆっくり休みたまえ」

 もっちりした手を差し伸べると同時、いつになく静かに囁いたビザールに、瑞香はほんの少し眉を顰めて―― 苦みもあるが、安堵の笑みを浮かべた。

「……ん、ありがと。色々、ね」

 ぺち、と柔らかい掌を軽く叩いて、それだけで親友の二人は通じ合ったらしい。一瞬の間の後、いつも通りのやり取りに戻った。

「今回の諸経費はちゃんと請求書出しなさいな、全部払ったげるから。ヤズローには賞与あげなきゃいけないわねぇ」

「ンッハッハ、有難く頂こうではないか親友。吾輩自慢の執事の給金は高くつくとも!」

 軽口にひらひら手を振りながら船倉に戻っていく背をリュクレールも心配そうに見送ったが、小目に続いてやっと登ってきたヤズローを見て目を見開いた。

「ヤズロー! その腕、ああ……なんてこと!」

 彼女が驚くのも無理はない、ヤズローの銀腕は、右側がまるで飴細工のように真っ二つに割かれ、使い物にならなくなっていた。どうにか肘からぶらさがっているようにしか見えず、銀蜘蛛の糸でぐるぐる巻きにされているが、指はぴくりとも動かない。顎も強かに打ったのか、口元まで腫れてしまっている。満身創痍の従者に泣きそうになっている女主人を宥める為か、ほんの少しばつが悪そうにヤズローは言葉を重ねた。

「ご心配なく、腕の痛みはありません。先刻仰って頂いた通り、修理についても瑞香様が経費を持つとのことですので問題ありません。不覚でしたが、次はこのような失態を起こさないよう努めます」

「ヤズロー」

 と、主に呼ばれ、返事を返す前に、ヤズローの視界が暗くなる。ぐいと腕を引っ張られ、柔らかい胸、というか腹に抱き締められたからだ。――他ならぬ、主の手によって。

「良く帰ってきた。良く頑張った。吾輩の友を助けてくれて、本当にありがとう、ヤズロー。お前は本当に、強い子だ」

 抱き締められたまま、柔らかく何度も頭を撫でられて、気が緩んでしまったのか。ヤズローの目の端に、じわりと雫が浮かんだ。慌ててぎゅっと瞼を瞑って堪えたようだが、ほんの僅か水が染み出してしまう。従者の矜持と羞恥をちゃんと理解しているので、勿論ビザールは指摘せず、ただ頭を撫で続けた。大役を成し遂げた従者を――或いは誇らしい息子を、褒めるように。

「……、ただいま、戻りました」

 どうにかそれだけ言って、不機嫌そうな顔を作ってヤズローはぶんと体を捩る。すぐに腕を解放した主は、いつもと同じように両頬を引き上げてにんまりと笑っていた。ほんの僅か泣いていたリュクレールも、笑顔で良人に追随する。

「ええ、本当に、よく無事に戻ってくれました。どうかゆっくり休んで」

「勿体ないお言葉です、奥方様」

 なんの揺らぎも阿りも無い、真っ直ぐな優しさを二つも貰って、ヤズローは困ったように眉を顰め――同時に、ずっと張っていた背中の力を、少しだけ抜いたようだった。



 ×××



 船は進む。真っ直ぐに、北方へ向けて。潮風を受けて目を細めながら、ヤズローは主達と共に船室へと向かう。

 その途中、階段脇に控えている小目を見つけた。ほんの数刻前に、ヤズローと本気の殺し合いをしたにも拘わらず、その瞳に激情は一切なく、その体は揺るがない。全く持って、いつも通りだ。

 別にそのこと自体に腹が立つわけではない。なんでそんなに、主従どちらも割り切れてしまえるのか、という疑問はあるが。感情を殺すことはとても難しいと、ヤズロー自身も良く知っているので。

 ふと、思い出す。あの翡翠宮にて、血を吐くふりをした瑞香の姿に、駆け寄った小目の姿を。表情は全く動いていなかったし、本来の主に命じられた守護対象があのような状態になったのだから、慌てるのも当然――かもしれないけれど、この男に限ってそんな事が有り得るのだろうか。

 ……そも、あれだけ他人の気配に聡い男が、あんな近くで吐いた血が偽物であることに気づかないものだろうか。それだけあの瞬間、動揺していたのだろうか。或いは、もしあの時、小目がヤズローの存在に気づいていたとしたら? 瑞香の演技も全て見通した上で、わざと席を外したのだとしたら?

 勿論、あの後本気で追走してきたのだから、そうだったとしても全く持って意味のない行為だ。やっぱりこいつのことはどう考えても解らない、とヤズローは眉を顰める。

 もう一度、ヤズローは小目の方を見た。彼の視線は動かない。……主では無い筈の、瑞香の部屋の扉から、少しも。

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