◆7-3

 兵舎の馬を一頭かっぱらい、宮殿を飛び出した。後ろに瑞香を乗せて手綱を握っていたヤズローは只管に川沿いに馬を走らせ、黒河を目指す。主達がどうなったか不安は尽きないが、己の迷いは一つ息を吐くだけで留めた。今の役目は、瑞香を無事に港まで連れていくことだけなのだから。

『……ああくそ、やっぱり来たか』

 ふと、瑞香が南方語で毒づく。目線だけで後ろを振り向くと、土煙を蹴立てて追ってくる馬が一騎。二人乗りの葦毛よりも、ずっと体躯の大きい馬に跨る、小目だった。

 ずっと重い荷物で走り続けてきた葦毛は泡を吹き始めているし、その差はどんどん縮まっていく。完全に後ろを取られた時、ヤズローは覚悟を決めた。

「瑞香様、手綱を! このまま黒河へ行って下さい!」

「ヤズロー!?」

 鞍の上にひらりと立ち上がり、後ろの瑞香に手綱を手渡すと、躊躇いなく飛び上がり――

「開け、右腕!」

「……!」

 右腕を大鋏に変形させ、斬りかかった。手加減や様子見など、小目相手に出来るわけがない。全力をかけて殺しに行かなければ、こちらがやられる。

 人間を骨ごと切り落とせる刃が、重力を味方につけて届く一瞬前、小目は手綱を離して鞍を踏んで立ち上がる。そして首に向かってくる刃を、躊躇い無くその両手でぎちりと掴み――その刃が掌に食い込むのにもまるで構わず、飴細工のようにぐにゃりと逆方向に捻じ曲げた。継ぎ目の捻子とばねが飛んで、あっという間に武器がひとつ使い物にならなくなる。

「ッ、回れ左腕!!」

 このまま引けず、次の刃を構えた。掌から血を零しても眉一つ動かさない小目は、容赦なく回って近づいてくる回転刃に恐れを一欠片も見せず、まるで丸いものを包むように両手を合わせ、その間に回転鋸を挟み込んだ。五指と掌底で刃を押さえ、押すも引くも出来ない。そのまま、もう一つの武器も破壊されると判断したヤズローは叫んだ。

砕けて、戻れぇコントンディト・エータレティドス!」

「!」

 持ち主の声に応えるように、回転鋸は小目が砕く前に、一瞬でばらばらに弾け飛んだ。そのままヤズローの身体も支えを失い地面に落ち――馬から放り出された勢いのまま転がり、背を跳ねさせて立ち上がる。

 同時に、空に散らばった銀の破片が、引き寄せられるかのように再びヤズローの元へと集まり、がちゃがちゃと音を立てて腕の形を組み直す。ほんの僅か、小目の瞳が見開かれたような気がして、少しだけ溜飲が下がった。

 左腕が一度砕けた時点ですでに飛び立っていた銀蜘蛛が、しゅるしゅると糸を吐いて誇らしげに耳に戻る。右腕は裂かれ、ぴくりとも動かせないままだが、無理やり糸で纏め、棍棒代わりぐらいには使えるようにした。左腕を構え直し、馬から飛び降りた小目と向かい合う。

「――我が主の命により、瑞香様にお帰り願う」

「……成程な。お前の主は、元々瑞香様じゃなかったってことか」

 態々北方語で告げられた宣言に、漸く納得できてヤズローは吐き捨てた。何故彼が追手になっているのかと思っていたが、そんな理由だったとは。本来の主による監視役のようなものだったのだろうと理解し――ぎり、と残った左手を握り締める。何故だか酷く腹が立つ。

 彼と瑞香の間にどのような感情の交わりがあったかどうかは知らない。だがヤズローの目から見えていた姿は、その実力も忠実さも、同じ従者として、悔しさと羨ましさがあり――そしてほんの少しだけだが、尊敬していたのだ。だから何故か、そんな自分の気持ちも一緒に裏切られたような気がして、奥歯を思い切り噛み締める。

「こっちも、俺の主からの命令だ! 絶対に瑞香様を、ネージに帰す!」

 宣誓し、駆け出す。迎撃の為に小目が腰を僅かに落とす瞬間、脇に飛ぶ。一本調子な攻めでは彼を崩せない、故に。

弾けろ、右足ルールデ・レクタ・ペデ!」

 踏んだ地面を、撃ち出された空圧弾が弾き、跳ねる。兎のように飛び上がり、小目の頭の上を越えると同時、銀蜘蛛を掴んで投げつけた。

「――!」

 小目は回避では無く、防御の為に片腕を引き、その掌で銀蜘蛛を掴み取った。絡新婦の糸は迂闊に払ったり避けたりするだけでは、絡め取られてしまうからだ。勿論、そこまで織り込み済みだ。

弾けろ、左足ルールデ・エイウス・ペデ!」

 狙いはその握られた拳。右腕を使い物にならなくされたお返しに、拳に向かって足を蹴りこみ、空圧弾をぶつける。

 ぱんっ、と弾ける音と共に小目の腕が鞭のように撓った。拳は解かれ、蜘蛛は解放されたが、衝撃で動けなくなったらしく地面にへたりと落ちる。体が僅かに揺らぎ、恐らく手指の骨を砕かれただろう小目に、ヤズローは全く躊躇うことなく追撃の拳を繰り出し――弾いた筈のその手で受け止められた。

「な――」

 人間に当れば肉を散らし骨を折るぐらいの威力がある筈の空圧弾を、小目は数本の指による迎撃を持って退けたらしい。それによって、指の関節が逆方向に曲がってしまっても全く構わずに!

 痛みを訴える様子は欠片も無く、小目は使い物にならない筈の拳を裏拳として振り抜く。咄嗟に仰け反ってかわそうとしたものの、顎を掠められ、ぐらんと脳が揺れた。

「っが、く、そ……!」

 どうにか倒れるのを踏み止まり、もう一度回転鋸を展開しようとして――その時にはもう、小目の蹴りが顎に決まっていた。

「ぎっ……!」

 悲鳴を堪える。世界が回る。気づいた時には背が地面に落ちている。拳が上手く握れない。駄目だ、まだ、と必死に頬の裏を噛んで、痺れる顎から意識を逸らす。

 ちかちかと瞬く視界の中、自分を見下ろしてくる小目が見える。瞳には何の感情も無く、そのままヤズローの頭蓋を踏み割る為に足を振り上げた。

 このままでは死ぬ、と瞬間的に理解して、真っ先にヤズローが思い浮かべたのは、どうしようもない悔しさだった。今自分が出来る限界を出してみせたのに、この男にはまるで痛痒を与えていない。このままでは、主の――ビザールの望みを叶えられないし、自分が戻らなければ、あの優しい夫妻はきっと嘆き悲しんでしまう。

 そこまで考えて――心臓の中身が、全部怒りに転じたように錯覚した。

「ッ、ざ、けんなァ……!!」

「!」

 怒りの悪罵と同時、勢いを付けて立ち上がる。ぐらんと脳が揺れるが、かまうものかと両腕を重ねて、振り下ろされる踵を防ぐ。ぎちぃ、と嫌な音がして、腕が片方拉げただろうが、右側なら構うまい。衝撃に、右腕は殆ど肘から外れてずるりと落ちるが、左腕はまだ掲げていられる。

「回れ――」

 この足を切り落としてやろうと叫び、小目が意図に気づきながら更に追撃を加えようとした、と同時。

 不意に、地面がもごりと蠢き、その下から多量の紐――否、草の根が一斉にぶわりと伸びてきた。生き物のようにそれは小目だけでなくヤズローの身体も拘束し、完全に動きを止められてしまう。

「な……!?」

「……」

 小目も目を見開きながら、根を引き千切るが、すればするだけ新しいものが伸びてくる。何が起こっているのか解らないまま、ヤズローは馬を下りて近づいてくる、結局逃げなかったらしい瑞香と、その後ろからやってきた一団を待つことしか出来なかった。

 馬で自分達を追ってきたらしい一団は、まず瑞香に向けて恭しく礼をする。ヤズローには解らなかったが、彼らは皆、皇帝陛下に仕える竜司達だった。彼らの礼を受けて、瑞香ははぁ、とひとつ溜息を吐く。

『……陛下の恩情か』

『いいえ。楊偉様のご命令でございます』

 一人が礼を崩さぬまま、淡々とした声で返す。

『急ぎ、瑞香様を客人と共に、北方へ返すようにと命じられました。瑞香様とその客人、そのいずれも失った場合、氷竜様の加護は二度と与えられないであろうと進言されました』

『故に、客人を襲うよう命じた香梅様及び、彼女の有する影法師は全て抑えました。客人は既に、黒河へ戻っておられます』

「……そ。ヤズロー、あいつ等は無事だし、あたし達も国を出ていいってさ」

 淡々と言い募る竜司達の説明を訳した瑞香に、ヤズローは心底安堵して、ゆるゆると息を吐いた。抵抗が無いと解ったのか、根の拘束が自然と解けていく。しかし、小目の方は全く止まる様子を見せず、ぎしぎしと根を千切り抵抗し続けている。それも予想の内だったのか、竜司の一人がそちらに寄り、何かの印の書かれた手紙を懐から取り出して掲げた。

『小目に命令状です。瑞光様の勅命となります』

 ばらりと広げた紙にさっと視線を通した小目は、今までの暴れ方が嘘のように抵抗を止めた。解ける拘束に合わせるように立ち上がり、深々と膝をつく。

『御意』

「……何が書いてたんだ?」

 自然と出てしまったヤズローの疑問に、どこか諦めたような声音で瑞香が呟く。

「あたしを捕まえるのは止めて、改めてネージに付いてくように。そんなところでしょ?」

「はい、瑞香様」

「なんで……」

 当然のような、諦めたような瑞香の声と、今までの暴威が嘘のように静かに肯定する小目。どうして、自分を害そうとした相手の部下を、ただ側に置くことを了承できるのか、ヤズローにはさっぱり解らない。当然の疑問に、瑞香はほんの少しだけ、困ったように笑って。

「こいつはただの道具だもの。腹立つけどね」

 それだけ言って、瑞香は近くに止めたままの馬に向かって歩き出す。当然のようにその後ろを小目が、まるで忠実な従者のように追っていくのを、ヤズローは呆然と見送るしかなかった。

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