◆7-2

『――瑞香』

 ひたりと、氷の刃のように低い声。動揺を気取られぬよう、静かに振り向いて頭を下げるが、それよりも先に両肩を掴まれた。ぐいと痛みすら与える強さで引き寄せられると、目の前の白哲の美貌が僅かに歪んでいた。

 余裕がない。もう既に瑞香には、皇帝陛下のお墨付きが得られた。例え皇子といえどその動きを止めることは許されない。

『ご心配なく。部屋に戻るだけです』

 無論、彼が強硬手段に出ないのなら、という注釈が着くが。このままさっくり正門を出てしまいたいがそうもいかない。翡翠宮は宮殿の一番奥、出るまでに誰に見咎められるか解らない。そして、追い詰めればこの男が手段を全く選ばないことを瑞香は知っている。

『……そうか。ゆっくりと寛いでいなさい。準備もあるだろう』

『はい』

 従順に頷きながら考える。この状況ではどうやっても先に、黒河へ連絡がいくに違いない。瑞香が戻る前に船を出航させるのが一番良い手段だ。次の北方への船が用意されるまでに三月はかかる。その間にどうにか、瑞香を無理やりにでも抱きこむつもりだろう。

 出来るだけ早く、ここから抜け出さなければいけない。瑞香にとってはこの国の地位など後ろ足で砂をかけて良いものだ、このまま国から飛び出して二度と帰れなくても、何も問題はない。ただ、強硬手段を取れば自分の身が危ういこともよく分かっている。

『……今日はゆっくりと、休みなさい』

『はい、兄上』

 部屋から一歩でも出れば、最終手段を取るということだ。何の因果かこの男に気に入られて以来、最大限に命は守られてきたけれど――絶対ではない。言う事を聞かないものから、腕や足や命を奪うことに、惜しむ気持ちはあれど躊躇うことは無い。これはそういう男だ。

『瑞香、何故――』

 背に声をかけられて、振り向いたら止まった。白皙の美貌が明確に、悔しさから歪んでいるのが見えて、心の中だけで快哉を叫ぶ。

 何故、氷竜についての報告をしなかったのか、という責めを、この男が口に出すことは出来ない。

 瑞光が、長兄に劣る唯一にして最大の点が、彼に竜の息吹の素養が全く無いということだ。迂闊に竜鱗に触れたらその力を失わせてしまうとまで言われており、彼自身もそれを恥と知っているので自分から欲することも無かった。小目に、北方の竜について報告せよと命じておけば、瑞香の策も知られていただろう。そうしないと読み切った瑞香の勝ちだった。

 ――さて、これからどうするか、と瑞香は考える。

 部屋まで送ってきた未練がましい男は漸く去ったが、代わりに見張りには小目が、いつも通りに控えている。諦めるつもりはないが、どうにか上手く立ち回らないといけない。

 考えつつ、備え付けの水差しから一杯注いだ時、ぽたりと肩に何か落ちてくる。はたと横を見ると、随分と大きな蜘蛛だった。細い足がぞわぞわと動いて、危うく悲鳴をあげかけたが――その前に、蜘蛛の体色に気づいてぐっと息を飲みこむ。銀色の、蜘蛛だ。

「……ヤズロー?」

 小さく呟くと、得たりとばかりに蜘蛛が両足を振り上げる。尻から伸びた極細の糸は、天井を伝って天窓から外に続いている。どこまで侵入したかは知らないが、すぐ近くにあの男爵の従者がいる。ふらりと膝の力が抜けかけて、慌てて堪えた。

『……あの、馬鹿』

 悪態を呟いた口が、みっともなく緩む。きっと恐らく、面倒なことに巻き込まれているだろうに、自分の一番信頼できる部下をこちらに寄越してきた。本当に、全く――自分の周りには優しい奴が多すぎる、と瑞香は本気で思った。

 瑞香は自分が利己的であることをよく知っている。自分の命と居場所を守る為ならどんなものでも利用できる。そうしないと自分はあっという間に、兄の作った檻の中に絡めとられてしまうからだ。例え最後に辿り着くのが無残な死だとしても、足掻くことを止めるつもりはない。――対価を払わなくても動く相手なんて、一番信用してはいけないのに。

 銀の蜘蛛はただじっと、瑞香の言葉を待っているように見える。元々絡新婦の一部だろうに、ヤズローに忠実な使い魔のようになっていた。そして、自分の目の前にぶら下がった好機に飛びつかないほど、瑞香も鈍ってはいない。僅かな罪悪感を腹の中だけで磨り潰して、小さく囁く。

「……小目が外にいる。あいつに見咎められたら、逃げ切れないでしょ」

 久しぶりに使った北方語がちゃんと通じたのか、蜘蛛が不満げにゆらゆらと体を揺らす。似ても似つかないのに、貴族の従者の癖にすぐ表情を動かしてしまう子供の姿が重なって笑ってしまった。

「あいつを、どうにかしてここから引き剥がすから、その後は任せるわ」

 蜘蛛に口づけするように唇を近づけて囁くと、了承したようにぴょんと飛び退り、窓の隙間に隠れるように控えた。同時に、

『――瑞香様、何かありましたか』

 耳ざとい影が入ってきた。



 ×××



「何もないわよ。ええ、何も」

 寝台の上で足を組んで座り、いっそ悠々とした笑みを浮かべる。瑞香のそんな姿を久しぶりに見たせいか、小目はほんの僅か、巌のような体を身じろがせた。

「この部屋、あたし以外に誰か入った?」

 北方語で話すのも、聞いている者が小目以外にいないこの状況なら単なる反発心としか捉えられなかっただろう。……実際は、ヤズローに中の状況を伝える為だ。

『掃除と整頓に、入りました』

「ふうん。他は?」

『瑞光様と出られて以降、見張りに立っておりました。ありません』

 自信でもなく、謙遜でもなく、ただ事実だけを伝える小目の言葉に、瑞香は面白そうに笑う。その身の内にどれだけの毒と悪罵を含んでいても、おくびにも出さず。

「そう。じゃああいつが我慢できなくなったのかしら? これ、炎茸が入ってるわよ」

『――左様ですか』

 ちゃぷ、と水の入った器を指先で掴んで揺らしながら、瑞香は唇を引き上げる。小目は只、唯々諾々と従うように僅かに目を伏せた。

 炎茸は、この国の王朝では非常に馴染み深い、毒薬の原料だ。色はなく、香りも少なく、飲み込めばあっという間に胃の腑と気道を焼け爛れさせて命を奪う。しかし苦みが強いため、暗殺には向かず、菓子や味の濃い料理に少量を仕込んで脅しとすることが多い。備え付けの飲み水に入れるのも、まさにその一環であるだろう。命を狙っている、という脅迫だ。

 しかし、小目としてはこの部屋の中にあるものに関しては完璧に主の命に応えていた。決して誰にも侵されないよう、厳命されていたからだ。水差しどころか水一滴、誰かの悪意が混じったとは考えられない。

 だが――もしそれを仕込んだのが、これを用意した瑞光であったなら。

 有り得る、と小目は感じてしまった。自分の主は、自分の大切なものを手元に置く為ならそれぐらいは平気でやる。可能性を提示され、小目が考え込んだ一瞬。瑞香は躊躇いなく、笑顔のまま――器の水を一気に飲み干した。

『――瑞香様!』

 小目が駆け寄るよりも先、ごほ、という咳き込みと共に、真っ赤な液体が床に散らばった。



 ×××



 細い糸を手繰りながら、ヤズローはまるで迷路のような宮殿の中を進む。

 流石にヤズローも、たった一人で王の宮殿に殴りこんで生きて出られるとは思っていない。だからこそ、蜘蛛に出来る限り見つからない道筋を探してもらい、糸を張らせたのだ。しかしおかげで瑞香が閉じ込められている建物は解ったものの、辿り着くまでにかなり時間を食った。

 下生えを掻き分け、池に囲まれた小さな離れに辿り着く。ここの見張りは小目がやっているに違いない、細心の注意を払って建物の壁際まで辿り着いた時、叫び声が聞こえた。

「っ!」

 咄嗟に壁を蹴り、かなり高い位置にある窓の桟に手をかける。腕の力だけで体を支えて中を覗き込むと――がくりと膝をつく瑞香と、それを支えようとして緩慢な動きで腕を払われる小目がいた。床には少なくない血が散らばっており、ヤズローは目を見開く。

「知ってる、でしょ。炎茸には解毒剤がない、只管水飲ませて、吐かせなきゃ駄目って」

『ですが』

「不本意なら、とっとと、汲んできなさいな。どうせまだ、殺すつもりはないんでしょ?」

『……、少々お待ちください』

 小さく頭を下げて、小目は離れを飛び出す。彼の足音が過ぎ去ってから、我慢できずヤズローは拳を握りしめ、鎧戸を力いっぱい叩いた。

「瑞香様!」

 めき、と皹の入った窓をこじ開け、部屋の中に飛び込む。丁度そこで、ぐったりと倒れ伏していた瑞香が――すんなりと起き上がった。

「ありがと、ヤズロー。さ、とっとと抜け出さなきゃね。翡翠宮さえ抜ければ何とかなるわ」

「一体――あ」

 先刻まで死にそうにしていたのが嘘のようにてきぱきと立ち上がり、堂々と建物から出ていく瑞香を慌てて追うと、丁度瑞香が口の中からぺっと何かを吐き出し駆け出したところだった。黒ずんだベリーの皮にしか見えないその滓は、ヤズローにも見覚えがある。

「黒雫果、でしたか」

「そうよー。何かに使えるかと思って庭で摘んどいたんだけど、あたしの演技力も悪くないんじゃない?」

 併走しながら確認すると、企みが成功した、と言わんばかりに会心の笑みを浮かべてみせる瑞香に、ヤズローは漸く安堵の息を吐いた。勿論彼が簡単に死を選ぶとは思えなかったけれど、心配には変わりなかったので。

「では、毒は飲んでいないのですね」

「ううん? 水にはちゃんと入ってたわよ。気づいた上で飲むなよってこと、良くやる手。解ってたからあいつも慌てたんだろうしねー。口に含んだだけで、ほとんど袖に吸わせたから大丈夫よ」

 するとあっさり恐ろしいことを言いながら、僅かに焼けただれた舌を見せられて、絶句した。――こんなことが頻繁に起こる場所で、彼は生き続けてきたのか。

 訳の分からない苛立ちのままに、ヤズローは舌を一つ打つと、隣を走っている瑞香の腰と膝裏を抱え、細いと言えど身長差がかなりある彼の体を、一気に肩の上に抱き上げた。

「ええ!? ちょ、馬力上がったわねヤズロー!?」

「少々ご辛抱下さい! 厩はどちらに!?」

「このまま真っ直ぐ! 流石に寝覚めが悪いから馬番は殺さないで!」

「仰せの通りに! ――弾けろ、両足!」

 応答と同時に、ヤズローは銀色の足で思い切り地面を踏みしめ、空弾が弾ける勢いで庭を囲む土壁を飛び越えた。

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