脱出

◆7-1

 藍皇国の初代皇帝・菫青は、大地を治める地竜に血を貰い、その力を持って大陸の南半分を制したと言われている。長い時を経て、王朝は何度も変わっていったが、皇帝の条件のひとつとして、竜の力を操ることがあげられる。如何に血が近くてもその才がなければ認められない。

 その点において、もっとも次の皇帝に近いのは瑞香の兄、瑞光ではなく、現皇帝の長子である楊緯であった。凡才どころか政治に興味を持たず、宮殿内の政治的な力ではとても瑞光に敵うものではない。しかし生まれながらに竜の息吹を己の手足のように操ることが出来、その一点だけに置いて弟達を凌駕していた。

 謁見の間に久々に足を踏み込んだ瑞香は、玉座の前、次席である位置に控えている腹違いの兄をこっそり見やる。楊緯はその容姿も凡で、尚且つ片足が生まれつき萎えていた。本来なら立礼をしなければならないところを、側付き達が支えて動かしてやっている程だ。その瞳はどこか夢を見ているように虚ろで、ゆらゆらと揺れている。元来皇帝の座などに興味はないように見える彼を、傀儡としたい者達がどうにか支えているだけなのだ。

 瑞光にとっては目の上の瘤、排除に動いていたことも両手足の指では足りるまい。それでも竜の加護というものは強烈で、毒は効かず、刺客も皆退けられている。

 長兄だろうが次兄だろうが、皇位についたらいよいよこの国も危ないな、と瑞香も何の感慨も見せず思い――ちらりと流された楊緯の目が、僅かに驚愕で開かれるのを見た。瑞香が隠していた切り札に気付いたのかもしれない。やばい、と慌てて目を伏せる。これ以上この宮殿の中で面倒ごとは増やしたくないのだ。

 前に控えて頭を下げている瑞光には気づかれなかったようで、静かに息を吐いた時――じゃん、と銅鑼が鳴った。

 全員が平伏し、臣下の礼を取る。風が動く気配がして玉座の御簾の中に気配がわだかまった。

『皆、楽にせよ』

 広間に声が響くが、誰も頭を上げない。この国の絶対者。藍皇帝の声は、まるで脳髄に直接響くように全ての者に伝わる。子供の頃は何か仕掛けがあるのかとこっそり広間に入り込んでつまみ出されたりもしたが、今は見聞を広げ、そういう力を持つ者もいるのだろうという納得を瑞香も持っている。何せこの世には悪霊をむしゃむしゃ食べる男もいるのだから、真剣に考えても理解できないものはもっとあるのだろう。自然に肩肘張っていた力がほんの少し抜けるのを感じ、瑞香は皇帝の声を聴き流していく。

『――瑞香。いらえを許す』

『はっ』

 故に、皇帝から声をかけられても、ごく自然に返答を返すことが出来た。膝をついたまま前ににじり寄り、場所を開けた瑞光のほんの僅か後ろに控える。出来る限り声を張り、告げた。

『此度の謁見、拝謁を賜り、魂を捧げ感謝を致します、陛下』

『北の国は、如何なるものであったか』

『――彼らは竜の加護ではなく、神の導に未だ重きを置いております。その理を打ち砕く魔操師も隆盛を始めてはおりますが、未だ一部の域を出ません。ネージを中心とした国々は皆、地盤を固めることが第一であり、外国との戦にまで手を回す余裕はないとみてよいでしょう』

 瑞香が皇帝の血を引きながら商人となることが許されたのは、このように他国の状況を探る間諜としての意味合いも強い。竜の加護を第一に置く皇帝の腹心たちは、竜に見放された土地の者達だといまだに軽んじる言動も多い――だが。

『しかし。ネージ国の王太子は、紛れもなく竜の加護を持つことが判明いたしました』

 広間の空気が変わる。顔は上げていないが、隣の瑞光からも僅かに驚いたような気配を感じる。瑞香は懐から、北方からずっと隠し持っていたものを取り出した。自分の鎖を外す一助となるであろうそれを包んでいた絹をゆっくりと外し、中身を掲げる。

『――あ』

 思わず、と言った風に声を漏らしたのは、楊緯だった。側付きが慌てて彼の頭を下げさせるが、その視線はまっすぐに瑞香の手に向けられている。やはり彼は最初から気づいていたのだろう、瑞香が持ち込んだのが何であったかを。

『献上いたします。ネージ国王太子より賜った、氷竜の生きた竜麟にございます』

『――なんと!!』

『馬鹿な……!?』

 一気に周りが騒がしくなる。加護を失った筈の哀れな者達が、生きた竜の力を得ていると知らされたからだ。彼らの動揺が心地よく、こっそり笑いを噛み殺す。

『まさか北方がそのような……』

『氷竜だと? もはや我が国に存在しないと言われる――』

『とても信じられん、偽物ではないのか』

 看過できない言葉が混じったので、声を張り上げようとしたその時。

『――本物だよ。紛れもない、氷の竜』

 楊緯がぽつりと言葉を漏らした瞬間、全員が沈黙した。側付きの女に支えられ、ふらふらと歩いてきた長兄は、子供のようにあどけない顔で瑞香の手の中を眺めている。

『氷竜様が、お前の役目に相応しいものとして、褒章を与えてくださった。お前が持っているといい』

 しかしその瞳は普段の虚ろが嘘のように輝き、まるで全てを見通すように真っ直ぐ瑞香を見てくる。気圧されるのを堪え、あくまで己の望みを果たす。

『……いいえ。これは私が、商売の正当なる報酬として受け取ったものです。故に、全てを命じた陸下に、捧ぐことをお許し下さるでしょう』

 それだけ言うと、楊緯はふうん、と息を吐くように頷き、まるで興味が無くなったようにふらふらと自分の位置に戻る。そして、全てを決定する声が響いた。

『仔細、承知した。瑞香、今後も役目を果たすように』

『――有難き幸せに存じます。ついては、此度の旅で招待した北方国の者達につきましても、よしなにお願い致します。かの貴族が、王太子とのつながりを果たしてくれました故に』

『よきにはからえ』

 皇帝の側付きに竜鱗を手渡し、瑞香は快哉を叫びたいのを必死に堪えた。紛れもない、この国の最高権力者のお墨付きだ。どれだけ瑞光が願っても、瑞香をこの国に留めおくことも、迂闊にビザール達に手出しすることも出来ない。床に付けられた兄の拳がぎちりと握り締められるのを横に見ながら、ざまあみろとしか思えなかった。

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