◆6-4

「――リュリュー殿!お下がりください!」

 ぐいと体を押しのけられた時には目の前に炎が迫っていた。青白い燐の火。熱はないのに肉体も霊体も焼き尽くす炎。それをビザールは真っ向から受け止め――全て口から飲み込んだ。

「ご馳走様です。中々に刺激的ですが……どうやら、吾輩に慈悲をお与え下さったようでございますな」

『随分と、難儀な腹をしているようでな。余が練りこんだ煉獄の炎、少しは足しになったか』

 炎が消え去る。そして奥から、足音ひとつ立てずに歩いてくる男がいる。豪奢な絹でその身を覆い、沢山の玉が吊り下げられた冠を被り、髭を蓄えた立派な男だった。ビザールは自然と膝を折り、リュクレールも慌ててそれに倣う。知識がなくとも、彼が――この地に留まる霊が、高貴なる身分の者であることは理解できたからだ。

『大儀である。楽にせよ。見やるに、外つ国からの客人であったか。懐かしきこと』

『深き慈悲に重ねて感謝を致します、皇帝陛下』

『敬称はいらぬ。既に地位は我が息子に譲り、余は誰でもないただの斎寧よ。余に残るはこの名だけ故、此処が最後の領地と守ってはいるが、所詮は残滓に過ぎぬ。よもや懐かしき客人が訪れるとは思わなかったのでな、つい目を覚ましてしまった』

 古語の多い南方語は、リュクレールには理解できない筈だったが、彼がもう既に霊となり、魂に直接響く声を発しているせいか、意味をどうにか掴むことが出来た。この地に葬られた賢君・斎皇帝の成れの果てが、彼に相違ないのだろう。

『その髪、その瞳。北方の民であろう。――本当に、懐かしきことだ』

「ほほう。嘗てのこの地にも、北方の民が参られたことがおありで?」

 どうやらリュクレールにも彼の話が通じることに気づいたらしいビザールが、自分の言葉を北方語に直す。こちらもきちんと相手に届くらしく、冠を揺らして鷹揚に皇帝は頷いた。

『うむ。……まだ、余が位につく前、黒河に住まうていた頃の話よ。酷い嵐が起きた翌朝、海岸にあまり見ぬ形の小舟が一艘流れ着いた。その中に、娘が一人生きておった』

 昔話のように朗々と語る、その姿は揺らがない。命を落としてから優に数百年は経っており、ずっとこの地の底に縛られているにも関わらず、彼の姿は全く歪んでいなかった。生きていた時のままに、誇り高き皇帝として。それがどれだけ強きことであるのか、リュクレールには嫌でも解る。肉体という頸木がなければ霊質は簡単にその姿を変じ、心が歪めば悪霊に落ちてしまうものなのに。

『白金色の髪と、翡翠の瞳――この国の者ではないと容易に知れた。話には聞いていたが、外つ国の娘とはここまで美しいのかと、余は目を奪われた。言葉が通じなくとも、戸惑い怯えていることは解ったので、我が別邸に連れて匿った。……その頃は北方と国交が開かれておらず、国に仇名すものと囚われ殺されてもおかしくなかったのでな』

 彼の語る昔に心当たりがあり、息を飲むリュクレールの背をビザールが慰めるように撫でているうち、いっそう声を弾ませて皇帝は語った。

『何せお互い、全く言葉が解らない。文字を書かせても読めない。身振り手振りでどうにかこうにか、といった具合だ。それでも――嗚呼』

 そこで初めて、皇帝の声が僅かに揺れた。否、もはや何物でもない斎寧の声が。

『銀月を仰いで泣くあの娘に、余は何も与えてやれなんだ。密かに船を用意して、行くあても知らぬ故郷に返すことしか、出来なんだ。未だ見えぬ北方の航路を開拓したいと願う商人に金を握らせ、彼女を忍び込ませた。最後まであの娘は泣き通しだった――恐怖であろう、怒りもあろう。戯れに手を差し伸べるだけで捨て置き、守り続けることも、供に行くことも出来なかった男を、恨んだであろう』

「それは、詮無きことにございます。国を統べる方でありますれば」

『好いた女ひとり、守る力もない王だがな』

 自嘲の笑みと共に、彼の輪郭がぐにゃりと歪んだ。今までは完全に抑え込んでいたのだろう、彼の負の感情が漏れ出てしまったのだ。本人もそれを無作法と知っているが故、すぐに戻ったが。

 じくりと、自分の魂に鏃が刺さったように感じ、リュクレールはぎゅっと目を瞑る。すぐに開いて、懐にずっと入れていた袋をひっくり返して振り、その中のものを掌に落とす。熱を発していたのは、僅かに錆びた金属の輪。すぐに、何事も無かったように温度は戻ってしまったけれど。

『――それは』

 皇帝の声が、乱れた。リュクレールは全てを理解して、掌に乗せたそれを捧げるように持ち上げる。

「どうぞ、お受け取り下さいませ。きっとわたくしは、貴方様にこれを届ける為に、ここを訪れたのだと思います」

『どこで。どこで、これを。無事で、あったのか、あの娘は――』

「……祖国からこちらへ向かう、船の上。鱗人を従える幽霊船で」

『なんと。おお――なんと、いうことだ』

 今度こそ、完全に斎寧の輪郭が崩れる。陶器のような白い肌が、溶け落ちるように歪み、肉がそげ、骨が見える。がりがりと己の体に爪を立て、零れる血が青い炎に変わる。

 彼の魂は、後悔に満たされていたのだ。それをおくびにも出さず、たとえ幽霊となっても皇帝として振る舞えるのは、偏に彼の強き誇りがあってこそ。それが――たった一欠片で、崩れてしまった。それほどに、彼にとってこの恋は、忘れられぬ傷だったのだ。

『どうすれば。どうすればお前を救うことが出来たのだ。あのまま此処にいれば、我が妻達を要する家に気取られた。何一つ――何一つ守れず、ひとりで、死なせてしまったのか。許せ――許してくれ、おおおお――』

「――あの方は! かえして、と仰りました!」

 凛とした声で、霊の呻きを切り裂く。リュクレールの背はしっかりと、良人に支えられている。だから、躊躇うことは無かった。

「あの方の船は、こちらの国へ向かう船ばかりを追っていたのです。ですから、」

 彼女が最期に、望んだことは。死んでも願いを捨てられずに、海を彷徨い続けたのは。

「故国に、ではなく、貴方の元へ、帰りたかったのだと、思います。共に在れぬ理由があるのは、あの方も解っていた筈。それでも、……貴方の側に、いたかったのではないでしょうか」

『お、お、お――』

 呻きが消える。彼にまとわりついていた青い炎が剥げていく。骸骨と化した細い腕が、リュクレールの手に伸び――銀色の輪に、そっと触れた。

『――許せ。許せ、銀月の君よ。許してくれ――』

 骸骨が放つ慟哭が、洞に響く。嘆きが広がるたびに、彼の霊体は崩れていく。完璧な皇帝として生きて死んだ彼を、この地に留め置いた最後の未練。それでもその強すぎる矜持により、己の墓を領地の全てとして動くことはなかったのだろう。この指輪が届かない限りは、永遠に崩れることもなかったに違いない。――それならば。

「――斎寧殿。もはや、宜しいのではありませんか」

『お――オ――?』

 そっとリュクレールの手を支えるように取ったまま、ビザールはいつも通りの惚けた声で告げる。

「王朝は変わり、今や南方大陸全てを統べる皇国の礎となられた貴方に、最早領地も冠もいりますまい。貴方の望むまま、望む所に、行って良いのですよ」

『余は――私、は、』

「愛する者と離れる悲しみを、下らぬと捨てられるのは愛を知らぬ者のみです。どうぞ、お心安らかにお過ごしください」

「ええ。どうか、これをお持ちください。もう二度と、離れませんように」

 リュクレールも頷いて、骨の掌にそっと銀の輪を置いた。一瞬の間の後、かちりと握り締められる。

『行けるのか、私は』

「今や貴方を縛るのは貴方の矜持のみ。ならば貴方を旅立たせるには、ひとつの枷もありますまい!」

『嗚呼――今、行こう――銀月の君よ!』

 霊体が、崩れる。骨が砕け、まるで霞のように消えていく中に、先刻よりも随分と若い、青年になりかけの精悍な少年が見える。しっかりと、指輪を握りしめて、光に向かって駆け出し――

 ごとりと鈍い音がして、石窟の壁が崩れ落ちた。そこから走る光に、思わずリュクレールは目を閉じる。夫の手はしっかりと握ったまま。

 次に目を開いた時には、壁に大穴が開き――海原が見えた。やはり海に面した場所だったが先刻の場所よりも開けており、簡単に海岸まで下りられる。その水平線は既に金陽を吐き出しており――僅かに朝の空に残っていた銀月が、消えていった。

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