◆6-3
「彼の名は、フルーフ・アッペンフェルド。吾輩と同じ祓魔の家系でした。我がシアン・ドゥ・シャッス家が元々仕事を選ばぬ猟犬であるのなら、アッペンフェルド家は一極集中――呪殺に特化した家系だったのです」
物騒な名前にほんの僅か、リュクレールの肩が震えるが、宥めるようにそっと抱き寄せられてすぐに力が抜ける。あくまで軽い声で、ビザールは続けた。
「しかしフルーフ自身は、人を傷つけることに躊躇いを持ち、家族を大切にするごく普通の良い男でした。吾輩と瑞香が無茶をして、彼を巻き込むことは何度もありました。幽霊屋敷の探索をしたり、学校の六不思議の真相を暴いたり。楽しかったのですよ、楽しかったですとも」
とん、とん、と妻の背を軽くあやすように叩きながら、ビザールは笑顔で昔話を続ける。その瞳がほんの僅か、揺らぐまで。
「瑞香が彼とそういう仲になったことも、吾輩にとっては喜ばしいことでした。友の幸福を喜ばぬ者が友と名乗って良いわけがありますまい。それ故になのか、それなのになのか――小目は、フルーフの命を奪いました。瑞香の兄、瑞光殿からの命令によって」
どうして、と言いたげにリュクレールの喉が震えた。全く持って、理解が出来ない事だったからだ。弟の大切な相手の命を奪うことが、何故出来てしまうのか、彼女には解らない。
「解らなくて良いのです、リュリュー殿。彼の深淵を覗き見ることなど、吾輩は勿論瑞香にもできますまい。全ては――終わってしまったこと。吾輩も、瑞香も間に合わなかったのです。肉体の頸木を無くし、数多の呪いに絡みつかれた彼の霊体を拝むまで」
呪殺師は他者に呪いを打ち込み、相手を害すもの。同時に、その代償は必ず呪殺師自身を蝕む。それを避ける為に彼らは、動物や子供――自分よりも弱い者を悪意の矢面に立たせる。同じ生業をしているもの、フルーフの親達も当然のように行っていたという。だが、彼は。
「フルーフは、優しい男でした。自分の仕事が己の妹に余波を与えると知ってからは、出来る限り己の体でその逆風を受けておりました。それ故に、魂は蝕まれており――肉体を失い、己の意思すら保つことが難しかった為、我々は選択をせねばなりませんでした」
ビザールの手に力が籠る。まるで縋られているようだと、リュクレールは思った。せめて受け止めようと、同じぐらいの力で握り返す。
そこで、ビザールは初めて、リュクレールから目を逸らした。俯き、許しを請うように、繋いだままの手を自分の額に押し付ける。懺悔のように、声は続いた。
「フルーフは言いました。このままでは自分は呪いに浸された悪霊に成り果てる。その前に、この魂を全て滅して欲しいと」
優しい友人は、自分一人を犠牲にするのを是とした。
「瑞香は嘆きました。貴方を失うのなら、悪霊になってくれた方がましだと。そのまま一緒に飲み込まれて、滅されるのなら本望だと」
愛を見つけた友人はそれを失いたくなくて、全てをかなぐり捨てようとした。
「吾輩は――、ええ。二人も、友人を、失いたくなかった。ただ、ただ、そのエゴだけで、吾輩は。フルーフの霊体を、魂を、全て食らったのです」
フルーフは笑った。最期にありがとう、と礼をいった。
瑞香は泣いた。理由は解っているのに、どうして、と嘆き続けた。
ビザールは――泣いただろうか、笑っただろうか。彼自身も、覚えていない。
「吾輩は、吾輩のエゴを持って、瑞香から一番大切なものを奪ってしまった。その償いを、吾輩は未だ終えていないのです」
何を言ったらいいのかわからず、リュクレールは唇を噛んだ。愛する夫の悲しみを癒す術が、彼女の中に見つからない。
大切な友の命を己の意思で滅すること。大切な友から愛する人を奪い去る事。どちらも、魂が千切れてしまうほどの悲しみであっただろう。どんな言葉も薄っぺらい慰めにしかならず、どうすればいいか分からない。
せめて寄り添いたくて、俯いた夫の頭をおずおずと抱き寄せようとした瞬間。背に回っていた腕が、ぐいとカを増して抱きつかれた。
「っ」
僅かな痛みを堪えて、その体を受け止める。自分の体が彼の悲嘆を癒してくれるのならば、幾らでも捧げようと本気で思った。――だが。
「リュリュー殿。どうか吾輩を、許さないで頂きたい」
胸元に顔を埋めた夫の、奇妙な懇願に、再びリュクレールは言葉を失った。
「――この身に刻まれたのは崩壊神の標。世界に飽いた終焉の帳。全てを壊す、新しきものの礎。我が腹の空腹は決して治まらず、内から神の食指が吾輩の血肉を食らい続けております」
懺悔は続く。リュクレールの目には見えていなかったが、彼の舌に刻まれた神紋はじわりと血を滲ませていた。同時に、リュクレールに触れている腹部も、じくじくと熱を持ち始めている。
「吾輩の中身が、いつしか、全て虚ろになった時は、この口は嬉々として貴女の全てを食らってしまうでしょう。ですからその時は」
どこか譫言のように囁くビザールの声は、心細さを堪える少年のようにも聞こえた。
「……僕から、逃げて下さい、リュクレール殿」
そんな、懇願を聞いて。
リュクレールは息を、大きく吸って――ぺちんっ、と。
「む、お」
ビザールの丸々とした頬っぺたを、両方から小さな手で勢いよく挟み、その丸い顔を上向かせた。ぱちくりと肉に埋まった小さな目を瞬かせる夫を、リュクレールは僅かに潤んだ金と青の瞳で睨みつけ――
「逃げません。男爵様は絶対に、そのようなことを望まれていないからです」
そう言って、良人の欺瞞を一刀両断した。
だってリュクレールは、知っているのだ。彼がどれだけ優しい人か。生きることを諦めない者に手を貸して、立たせてくれる人だと。そんな彼が、伴侶に望んでくれた自分が――逃げることなど、出来るものか。
もし本当に、彼が狂い、愛する妻を貪ったとしよう。そして彼は飢えを満たし――嘆き悲しむだろう。こんなことは望んでいないと、一生苦しみ続けてしまうだろう。親友を一人失うと自分で決めた時も、きっとそうだった筈だ。
望みや願いが、叶わぬと理解したら、そう選んでしまえる強い人だ。そして与えられる痛みや悲しみを、たった一人で耐えていこうとする人だ。だからこそ。
「ですが、リュ――むん」
尚も言葉を紡ごうとした夫の唇に、リュクレールは己のそれをぶつけるようにして塞いだ。恐怖はない。だって、一瞬触れた舌が怯えたように竦み、動かなくなったから。彼が自分を食らいたくないのだと、その気持ちがあるだけで、充分だった。
「……ほら。男爵様は、絶対に、わたくしを食べませんわ」
拙い、押し付けるだけの口付けを終えて、ほんのり頬を染めて微笑むと、ぱちくり、とどこか虚ろだった瞳が何度も瞬いて、光が灯る。ほう、と安堵してリュクレールは柔らかい男爵の胸に体を預け直した。
「リュリュー、殿」
おずおずと、怯えたように緩んでいた彼の腕が背中に回るのが心地よくて、はしたないと解っていても頬を胸に摺り寄せてしまった。
「わたくしには、男爵様の抱えた悲しみを共に背負うことは、出来ないかもしれません」
きっと彼がそれを良しとしないから。重荷を妻に背負わせるなど、させないだろうから。
「ですから、これ以上の悲しみを絶対に増やさないと、お約束します」
まだ何の力も持たない小娘だけれど、それだけは誓おうと心に決める。この方を絶対に、ひとりにはしないと。
「……リュリュー殿。吾輩、あまりの感激に不覚にも、言葉を紡ぐことが出来ません」
漸く絞り出したようなビザールの声はほんの僅か掠れていたが、気づかないふりをして、応える代わりに自分の腕を、どうにか夫の背に回した。
「――感謝を。本当に、ありがとうございます、愛しき我が奥方」
「勿体ないお言葉ですわ、愛しきわたくしの、旦那様」
見詰め合い、紅潮した頬で微笑み合う夫婦を、ひんやりとした低い声が遮った。
『――我が領地が騒がしいと思えば。何処の狼藉者か?』
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