◆6-2
「――! 旦那様、奥方様、あれを!」
ヤズローが指した先、恐らく岩肌の隙間から夜明けの光が見え、僅かな潮騒の音も聞こえた。海に面した崖まで、通じていたらしい。
「……ここはまだ嗅ぎつかれていないようです。どうしますか?」
「ふむむん。このまま大脱走としゃれこみたいところではあるが、まず吾輩がここから出るのは難しいだろうね」
事実、その岩の隙間は偶然できたもののようで、子供ならば悠々と通れる、ぐらいの大きさだった。ヤズローならばどうにか、リュクレールならもっと楽に通り抜けられるが、どう足掻いてもビザールには物理的に不可能だった。
どうしましょうか、とリュクレールが視線をヤズローに移し、お望みとあらば、とヤズローが岩壁を殴るつもりで拳を握りしめたその時。
「ヤズロー。お前にひとつ、頼みたい」
「――なんなりと」
僅かに身を固くした自慢の執事に、ビザールはあくまでいつも通り――それでも、ほんの少しだけ緊張を含んだ声で命じた。
「瑞香を、助けてやって欲しい」
ヤズローとリュクレールが、同時に息を飲んだ。
「恐らく、皇都の宮殿である、翡翠宮――緑色の屋根の建物のどこかに、囚われていると思われる。どうにか連れ出して、ネージまで逃がして欲しいのだ。都に流れる川を下れば、この黒河まで辿り着けるはず。危険な役目だが、どうか――頼まれてくれるかね」
「全て、仰せの通りに。お任せください。必ずや、果たして見せます」
「ありがとう、ヤズロー」
何故を問わず、ただ最敬礼で答える執事に、ほんの少し済まなそうな感情を押し殺して、主は笑って礼を言った。そして、最愛の妻に向き直る。
「リュリュー殿、ここからならば港も近い筈。どうぞ、竜胆号へ向かってください。黒鮫様もご承知の筈です。いざという時は貴女だけでも帰国を――」
「いいえ。わたくしは、男爵様と共にここへ残ります」
きっぱりと言い切った言葉に、ビザールの舌がひたりととまった。話が始まった時に、リュクレールは既に覚悟をしていた。この方は間違いなく、自分の妻の安全だけは何があろうと守ってくれると。だからこそ、この提案を飲むわけにはいかなかった。細い腹にきゅっと力を込めて、妻は夫を見詰めて続ける。
「この中を探索し、別の出口を探しましょう。男爵様もご一緒でなければ、わたくしが戻るわけには参りません」
「リュリュー殿、お気持ちは大変ありがたく思います。ですが――」
「男爵様とご一緒でなければ、わたくし、絶対に、帰りません」
じわりと目の端が熱くなったので、必死に堪える。無様に泣いて己の意思を押し付けるなど、ただの子供だ。そうではない、ここに残る理由は、ただの我儘ではない。
「今の男爵様を、おひとりにするわけにいかないからです」
言った言葉は、リュクレールの中で納得になった。この墳墓に入ってから――もしかしたら、この国を訪れてから。何か良人に対する違和感が、ずっとリュクレールに付きまとっていた。それは普段ならば絶対に見ることの無い、良人の不安、焦燥。そして、彼の魂がまるで蝋燭の炎のように、何か起こるたびにゆらゆらと揺れていることに気づいていた。それは親友である瑞香の無事を思うものでもあるし、他にもっと――。
「わたくしは、男爵様の妻です。夫を守れず一人で逃げ帰るなど、わたくしはわたくし自身を許せません」
向かい立つビザールは、一瞬――どこか、途方に暮れた子供のような顔になり。その隙を逃さず、ヤズローが進み出た。
「奥方様、旦那様をよろしくお願い致します。ここでひとり放置をしたら、数時間で飢え死にしかねないので」
「ええ、ヤズロー。わたくしに任せて、貴方は瑞香様を、どうか」
「仰せの通りに」
ヤズローも、主を一人にするなど有り得なかったのだろうに、それ以上に命令を跳ね除けることは出来なかったのだろう。確かな感謝を込めて頭を下げる従者と、それを受け止めて同じく礼をする妻を眺めて――ビザールはやはり、ほんの少し困ったような顔で笑っていた。
×××
ヤズローが外へ出ていき、暫く。ビザール達は壁に目印として白墨で跡をつけつつ、墳墓の内部を探っていた。
「墳墓の仕組みは国で違えど、大切なものは下に埋めることに変わりはありますまい。出来ればなるべく下がらずに、出口を探したいところですな」
いつも通り、暗がりの墓の下でもビザールの舌は止まらない。その様に安堵しつつ、リュクレールの中の落ち着かぬ不安は消えない。
解らないことが多すぎる、のが勿論ある。一体何故自分達が襲われたのか、何故瑞香も囚われてしまったのか。異変がほぼ同時に起きればそれは連動していると考えるのが自然だが、やはりそれが何故なのかを考えられるほどの材料が彼女にはない。いつもならば、はしたなさを脇に除けてでも夫に問うところだが、今は緊急事態であるし、何より。
「……如何致しましたかな?リュリュー殿」
大分息は整った筈なのに、ビザールの声にどこか張りが無い。勿論誰かに狙われている身、大声を出すわけにいかないと考えているのかもしれないが、彼は元々その手の機微を見せる性質ではない。諫める従者がいないからというのもあるが、それだけではないとリュクレールにも気づけてしまった。
「わたくしは、大丈夫です。それより、不躾ですが……男爵様こそ、どこかお体が悪いのではありませんか?」
頭を下げながらはっきりと告げると、ぱちぱちと肉に埋まった瞳が瞬く。惚けているというよりは、気づかれると思わなかった、と言いたげに。笑みが一瞬だけ苦笑にかわり、すぐににんまりとしたものに戻った。
「これはこれは吾輩一生の不覚! 心配をおかけしてしまい、申し訳ない、我が愛しの妻殿」
いつも通りにおどけた声に、無理をしている様子はない。それでもほんの僅か眉根を寄せてしまうリュクレールに許しを請うように、ビザールは程よい岩場に背を寄りかからせて座ると、すすいと妻を手招いた。ちょっと迷うが、リュクレールもおずおずと近づき、そっと彼の膝の上に腰を下ろす。もにゅりと柔らかい腹に寝床のように身を預けると、ふむんと鼻を鳴らす音がした。
「……瑞香との付き合いは、もう十年程になりましてな」
不意に始まった話に目を瞬かせるも、彼の話はいくら助長に見えても必要な要素は全て入っている筈なので、聞き逃さないようリュクレールは耳を欹てる。
「吾輩が学生の頃、籍を置いていた学院に留学してきたのです。今よりは随分と人付き合いが悪かったのですが、素はリュリュー殿の良く知っている姿とそう変わりません。当時は同窓に、吾輩ともう一人、同じ祓魔の家系の者がおりまして、色々あって三人でよくよくつるむようになりました」
「……シャラトにあるという、貴族の学院ですか?」
「おお、ご存じでしたか。ええ、そこで吾輩はモラトリアムを味わい、無二の友を二人も得ました。あの頃は吾輩も若く、色々と無茶はしたものの、楽しかったと断言できる生活でしたとも。……たとえ、最後に与えられたものが別れだとしても」
ほんの僅か、揺れた声にリュクレールはぱっと顔を上げる。ビザールの瞳はずっと妻に向けられていて、その瞳の奥が僅かに揺らめいた気がした。
ふと、ビザールの柔らかい手がリュクレールの手をそっと握った。添えられるようでいて、縋るようにも見えた。妻は両手で、手を握り返す。少しでも温もりが伝われば良いと。
「何が理由だったのか、決定的なことは吾輩、情けなくも解りません。ですが、あの日、瑞香は愛する者の命を、吾輩は無二の友の全てを、この手で失ったのです」
「それ、は」
聞いてはいけない、と思ったのに口から漏れてしまった。あまりにも、あまりにも、示された過去が残酷すぎて。蒼褪めてしまった妻を、宥めるように銀髪をそっと撫で、懺悔のようにビザールは告げた。
「我が友を手にかけたのは、小目。その魂が悪霊に落ちる前に食らったのが、吾輩なのです」
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