黒い仔山羊と小さなお嫁さん

「うん、いつも偉いね! 今日もいい感じ。朝ごはん、美味しかった?」


 看護師のえみちゃんって、いつも楽しそうなお顔してる。前からそうだったんだけど、みんな結構気付いてる。

 一昨日くらいからちょっとした瞬間に、左手の指輪を見てニヘニヘするからみんなで引いてる。隣の部屋のあみちゃんも気付いてて、あれは”結婚”だね、”結婚”が決まって嬉しいんだねって、内緒話してる。”結婚”かあ、えみちゃんお嫁さんになるんだね。わかる。えみちゃん可愛いもんね。

 えみちゃん好き。婦長さんとか怖い看護師さんもいるけど、えみちゃんは好き。

 何気に注射が上手で、あの人に比べると全然痛くないのに、いっつも”痛かった?ごめんね!”って言ってくれるのが好き。


「いつも通り、全部食べたよ」


 にこにこ顔にして私がそう言うと、えみちゃんは両目を大きく開いて困ったような顔をしてから、全部食べた私を褒めてくれた。

 ……ママのご飯って食べてみたいな。

 前にそう言ったら、パパもママもえみちゃんも、ついでにひでひと先生も、大人がみんなですごい困った顔するから、私はびっくりして大泣きした。

 その日の夜、今日あった事あみちゃんにお話したら”言っちゃったんだ……。私もそうだったから、仕方ないよ”って慰めてくれた。

 あみちゃん優しいお姉ちゃん。

 教えてくれた通り、もう無理は言わないって決めた。


 えみちゃんがお部屋を出て行ってから回診の時間まで暇。パパとママが持って来てくれたご本は全部読んだ。寂しくなると読み直すから、うん、小っちゃい子がお願いしてくれたら全部お話し出来る。

 イイテレのニャンニャンの時間は過ぎてるし、「おたたさまとご一緒」も、そろそろ辛い。ううん、いいの。小っちゃい子が体操のお兄サンやお姉サンと一緒に歌って踊るのを見るの、そんなに嫌いじゃない。

 ただ、私は出来ないのになって気持ちが出てくるから、ちゃんと見ないようにしてるだけ。

 回診が終わるといよいよ暇。ひまひま。ひーまーよー。

 ベッドの上でぐるぐるしたい。でもね、チューブが繋がってるから、そこは”じちょう”する。あみちゃんが、やっちゃダメって教えてくれたから。

 それでその後、運動の時間があって、勉強の時間があって、みんなそれぞれのパパやママ、じいじにばあばが来る時間が来る。 

 私のパパもママも、毎日来る。喉の奥まで、”私も一緒に帰りたい”という音を吐き出したい。

 毎日毎日、お日様が沈んでだいぶ経ってから、気まずそうな顔を浮かべながらパパとママが立ち上がるのを見る度に、ごくり、と飲み込む。一緒に帰りたい。でも許されない。なんで?なんでなの?なんで?なんで?


 ねえ! どうして……どうして私はずっとここにいるの!?


 ママ達が出て行った扉をじっと見つめる。

 隣のベッドも向かいのベッドも、カーテンを閉じて物音一つ立ててない。

 わかる。私もそうだもん。

 寂しいんだもん。


 それの何が悪いの!?


 今日、私は初めて、えみちゃんが驚いて抱きしめてくれるまで、黙って扉を睨み続けていた。

 食べられないまま放っておいた夕飯が下げられて、えみちゃんが点滴に何かしたり検温とかしに来ても、私はまっすぐ扉を睨みつけてた。

 あそこから出たい。この建物から出たい。お家に帰りたい。

 ずっと頭の中で、それだけがぐるぐる回るから、私はただ、扉を睨みつけてた。

 えみちゃんが耳元で、色々言ってくれてたけど、聞き流してたから覚えてない。

 ただ、外に繋がる扉を睨みつけていた。

 気を失ったのか、気づいたら点滴が増えてた。

 次の日、あみちゃんがベッド脇に来てくれた。

 昨日の夜の私の様子をえみちゃんから聞いて、私とお話したいって言ってくれたと、後でえみちゃんから聞いた。

 あみちゃんは苦し気に車椅子に座りながら、一言だけ”仕方ないよね”と言うと、ただ側に居てくれた。

 あみちゃんの声を聞いて、側にいてくれると理解出来たら、私はわんわんと大声で泣き叫んでいた。

 驚いた同室の子がナースコールを押すと、一番にえみちゃんが走り込んで来て、泣き叫ぶ私を抱きかかえながら、何も言わずに頭を撫でてくれた。


 その晩、私は寝付けなくて、ぼぅっと天井を眺めていた。

 すっかり見慣れた天井に何も思うことなく見上げていると、するすると扉を開ける音が聞こえた。

 びっくりして起き上がると、周りの子は静かに寝息を立てている。

 私だけが、扉から入ってきた何かに気付いている事が分かって、心臓がどきどきと音を立てた。音も無く部屋に入ってくる影を目で追いながら、掛布団を引き寄せてぎゅっと握る。

 それは思ってたよりも小さな影で、ここにある四つのベッドを順繰りに品定めするように、ゆっくりと進んできた。段々大きくなる影が近づいてくる事を知らせるのに、私の足元で少し小さくなってから、また大きくなってきた。

 なんだろう?誰だろう?

 わざわざ窓際に入り込んで、私のベッドを囲むカーテンの切れ目を開いて顔を覗かせた。

 私が見えないようにきょろきょろ覗き込む顔を見ても、うーん、知らない子だ。

 知らない子がカーテンを押し退けながら私の頭からつま先まで、私が見えないように目を凝らしている。あちこち見回すその子を見て、私は気付いた。


 この子、イケメン。


 同じ病棟のゆうくんやはじめくんもイケメンなんだけど、もう、全然イケメン! あ、二人ともなんかごめん。

 なみなみした長めの黒髪はつやつやして綺麗だし、なんだろあれ、白っぽい大きな何かがなみなみヘアを押さえててカッコいい。肌も白くて綺麗なのに、すっごい綺麗な黒目がくりくりしてて、絶対カノジョいる感じ。それなのにほっぺはピンクでぷにぷにしてそうだし、唇はイチゴゼリーみたいに赤くてぷるぷるで完璧。

 お洋服もいい。仕事帰りのパパに近いけど、全然カッコいい。白いワイシャツに真っ赤なリボンが可愛いカッコいい。パパみたいに上着来てないのに、黒ベストと黒ズボンが完璧。

 すごいな、この子。見た目私の1こ、2こ?下っぽいのに、すごいな。

 絶対女子で困る子だ。

 可愛いカッコいい男子を見てたら、私の視線を真っすぐ見返しながら話しかけてきた。


「ねぇ、僕が見えてるの?」


 頷きながら考える。この子、救急で運び込まれた? でももう夜だし。暗くて静かだから、救急じゃないんじゃない? だったら、なんだろ、変な意味でドキドキする。大丈夫? ここ、病院だよ。大丈夫。何かあったらえみちゃんが来てくれる。

 そうやって自分を落ち着かせてたら、知らない男子がにぱって同世代に通じる満面の笑みを浮かべて言った。


「見えてるんだね。こんばんは。僕は、ばほめっとの ばほ。驚かせちゃった? ごめんね」


 うっわー!ずるい!

 計算され尽くしたイケメン顔。これかー、これなのね。談話ルームのテレビに映ってたアレね。

 分かった。こういう男子に騙されちゃいけない。分かる。騙される。いや、騙されちゃだめなんだって。

 心臓がすんごいバクバクいってる。ずるいなー。ゆうくんもはじめくんも、イケメンっちゃーイケメンなのに、ばほはレベルが違う感じ。

 あみちゃん、ここにあみちゃんが言ってたヤバい男子がいるよー。あみちゃん言ってたの、本当だったよ。

 何も言えなくてただ頷いてると、ばほは何か確認するように頷きながら、私を見て笑いかけながら言った。


「また、来てもいい? イヤなら来ないよ。ここにお姉さんはいないっぽいから、少し、お話しに来たいんだ。ねぇ、いい?」


 私はただ、頷く事しか出来なかった。

 それから来たり来なかったり、ばほはなんだか自由だった。

 ばほ はここに来ると、どこに行ってきたとか何が綺麗だったとか教えてくれる。

 私が見た事のないビルの灯りや、雲の無い星空の光の話。川に写る街灯りや海が照らし出す青空。

 晴れた山で、しゃららと若草を撫でつける風は、空気が物に触れているとわざわざ見せてくれてるんだって。聞いただけなのに、若草色の山肌が波打つさまが見えた気がした。

 お返しに私も、いろいろお話する。ずっと病院にいる私のお話でも、ばほ は楽しそうに聞いてくれるから、だんだん ばほ を好きになっていく自分に気付いて、最近は ばほ が来るのがちょっと恥ずかしくなってきた。

 でも、来てくれないと寂しいから、恥ずかしいけどできるだけ来て欲しい。


「最近楽しい事あった? なんだかいつも、にこにこしてる」


 あみちゃんがいきなり言うから、私びっくりしちゃった。他のベッドの子もなになに?ってこっちを見てる。やめてよあみちゃん!恥ずかしい!


「な、なにも無いよ? なんでそんな事言うの?」


 照れ隠し出来たかな? 顔、赤くないかな?

 そんな事考えながら言ったら、あみちゃんはちょっとびっくりした顔をして私を見ていた。


「ごめんね。そう見えたからなの。もうちょっと注意して聞けば良かったね」


 眉を下げて困ったような顔をして私をなだめるあみちゃんは、やっぱりいいお姉ちゃんだ。

 パタパタとあみちゃんを手招きすると、車椅子でギリギリの所まで近づいてくれた。私は精一杯あみちゃんの耳元に近づいて、少しだけ教えてあげた。


「あのね。もしかしたら好きな人が出来たみたいなの。だからちょっと楽しい気持ちはあるよ。……でも内緒ね」


 仲良しあみちゃんなら、これくらい教えてもいいと思った。

 あみちゃんは本当にびっくりしたって顔をしてから、前みたいに私の手を握ると小さな声で「良かったね。応援するね」って言ってくれた。


 そんな事があった数日後、ばほが来た。

 ばほ と、ぽしょぽしょ内緒話をしていた時、あみちゃんとお話した事を思い出した。

 あみちゃんの事お話しようかなって思った時、初めて ばほ と会った時の事を思い出した。


『ここにお姉さんはいないっぽいから、少し、お話しに来たいんだ。』


 言ってた。たしかに言ってた!

 ……え?ばほ って年上しゅみ?

 むー、これは教えちゃだめかも!

 私だって ばほ より1こか2こ年上だけど、あみちゃんは更に2こ上のお姉ちゃんだから、あぶないかも! ううん! 絶対あぶない!

 あみちゃんメッチャ可愛いし、ばほよりお姉ちゃんだから、ばほはきっと、絶対あみちゃんに……。

 嫌だ。ぜったい嫌!そんなの絶対に嫌!

 ばほ をあみちゃんにとられるのも、あみちゃんを ばほ にとられるのも絶対に絶対に嫌!

 そう思っちゃったら、ぽろぽろと涙が溢れてきた。

 急に泣き出した私にびっくりした ばほ は、わたわたと両手を動かした後、ハンカチを取り出して私の涙を拭いてくれた。ばほ も優しいな。

 私、優しくしてくれる人が大好きなのに、そんな人に嫌な事考えてた。

 私も優しくしたいのに、出来ない私が嫌になった。

 泣き止まない私にびっくりした子が、えみちゃんを呼びに行くと、ばほ は慌てて出て行った。

 私の涙を拭いてくれたハンカチを残して。



 それから何日経っても、ばほ は来なかった。

 毎日検査や勉強して、小児科棟のみんなとお喋りする。パパやママが帰る時、寂しくなるとあのハンカチを握りしめて堪える。ばほ のハンカチすごい。

 これがあると我慢できるんだもん。

 でも、ばほ に会いたい気持ちは我慢できない。

 会いたいなー。どーして来ないのかなー。


 ある日検査の後、ひでひと先生のお顔がピクってした。そしてすぐ、いつものお顔になったけど、私は知ってる。ひでひと先生がお顔をピクってさせると、その日はパパとママが来る日になるって。

 思ってた通り、その日お夕飯時間の前にママが来た。お夕飯時間にママがいるのは久しぶりで、少し嬉しかった。

 夕飯の後にパパが病室にに来ると、なんだか怒るのを我慢しているようなお顔をしてた。びっくりした私がパパの顔を見ていると、なんだか難しそうに目や口を動かして、いつもとちょっと違う、笑っているようないないようなヘンなお顔になった。

 いつもは泣かないはじめくんが、泣くのを我慢する時のお顔に似ていると思った。

 その日の夜、久しぶりにばほが来た。久しぶりだから嬉しくて、色んなお話をした。

 借りていたハンカチを返そうとすると、私にプレゼントしてくれるって。男の子からのプレゼントなんて初めてだったから嬉しかったけど、なんだかもの凄く恥ずかしくなった。


「僕、君の事が気に入っちゃったんだ。だから、契約じゃなくて、何か君の望みを叶えたいの。考えておいてくれる?」


 いつもより早い帰り際に、ばほ はそう言うとふわっと風の様に出て行った。

 さいしょ意味が分かんなくてちょっと考えていたけど、これって”こくはく”じゃない?

 うわー!”こくはく”された?されちゃった?私!

 どうしよう、顔が熱くなる。そう思ったら、にこにこが止まらない。

 ばほ の事を考えてると、お胸がどきどきして息が苦しくなる。


 胸がドキドキして、誰かに聞かれたらと思うと恥ずかしい。

 息が詰まって苦しい。胸が苦しくなってベッドに手をついちゃう。

 何か近くでピービービービー五月蠅い。

 どんどん息が苦しくなって、ついた手で支えられなくなって、ベッドにぱたんと倒れると、同じ部屋の子達がキャーって大きな声を挙げるのが聞こえた。

 バタバタと大きな影が私を取り囲むと、どんどんうるさくなる。


”チアノーゼ……出て……”

”あぁーん!わぁーん!”

”レベル……って!ストレ……急いで!”

”しょうに……の……せんせ……連絡!”

”……ちゃんがー!ね……ちゃん大丈夫なの!?ねえ!じゅんこ先生!”

”……ちゃん!?聞こえ……ちゃん!?”

”みん……大丈夫……ほら、少しさが……待ってて!”

”先輩、ス……チャー来ま……た!移します!”


 うるさいし目の前がチカチカする。途中えみちゃんの声が聞こえた気がする……けど、よく分かんない。


”いち、に!っさん!”


 体がふわっとした後、どこかに運ばれてるって思った途端、私はすとんと眠り込んだ。



 目を開けたら、見慣れたお部屋だった。

 なにかしゅーしゅー音がして、小さなお部屋の中に私しかいない。目を動かすと、外の無いガラス窓が見えた。

 私ここ知ってる。

 私ここ、大嫌い。

 ここにいると、身体動かないし声も出ないし、本当に嫌い。一番嫌い。

 出してよ!ねぇ!聞こえないの!?

 ここから出して!

 悔しくて辛くて、寂しくて泣きそうになったその時、とても気持ちいい声が聞こえた。


「ああ、ここに居たんだ」


 ばほ の声がした。

 え?ここ、パパもママも入れないお部屋なのに?

 その声は初めて聞く声だった。びっくりしてるような、慌てていたような、でもほっとしたような、色んな気持ちが混ざった声に聞こえた。

 びっくりして声が聞こえる方を見ると、すぐ傍に ばほ がいた。

 ちゃんと見ると、やっぱり ばほ はイケメンだと思った。超カッコよくて、超かわいい。

 つやつやした波打つ黒髪が綺麗。大きなツノみたいな髪留めも綺麗。仕事帰りのパパよりもずっと似合ってる白いシャツと黒い服、それに真っ赤なリボンがカッコいい。

 それで、私を見る大きな黒い瞳が好き。

 私には無い物を全部持ってる ばほ が好き。


「ねぇ、覚えてる?」


 大好きな全部が、いきなり聞いてきた。

 よく分からなくて続きを待っていると、ばほ はもじもじしながら話してくれた。


「君は特別だから、君の望みを叶えたいんだ。決めてくれた?」


 私の、望み?なんだろう?私の望み。

 元気な体?楽しい時間?家族と一緒にお家に帰る事?

 色んな望みがいっぱいあったんだけど、今思いつくのは一つだけ。

 ばほ の顔を見たら、今まで見た事が無い、とっても不安そうな顔をしてる。

 こんな顔、病棟で何度も見た。きっと私も、何度も同じ顔をした。

 だから私は、今の ばほ の顔を見て決めた。

 断られたらどうしよう。

 ううん。私にはきっと、もう後は無いんだよ。


「決めてあるの」


 ちゃんと ばほ には聞こえてたみたい。ぱぁっと顔色を明るくて、私の顔をまっすぐ見てくる。

 ごめん。やめて、恥ずかしい。


「あのね、ぼほ のお嫁さんになりたい。お嫁さんになって、ずっと一緒にいたい」


 ああ!言わなきゃ良かった!

 ばほ がすっごい驚いてる!どっちなんだろう。嫌なのかな。嬉しいのかな。

 嬉しいと、私も嬉しいな……。


「ほんとに?本気で?」


 全身の力を振り絞って、無理やり うん って頷く。酸素マスクとかコードや管が邪魔するけど、私の気持ちを伝えたくて、全力で頷く。


「嬉しい。僕、君の事が大好きだったから。でも、”悪魔の花嫁”ってすっごい大変だって聞いてたから……。でも、僕は君が大好きになっちゃったから……」


 ええー!?男の子なのに泣くの!?

 ぽろぽろと泣く ばほ を見てたら、やっぱり私がお嫁さんにならないとって思った。

 あみちゃんにも渡したくない。ばほ の事好きだから、他の子が ばほ のお嫁さんとか絶対やだ。

 なのに私は、動けないんだけど、ね……。

 ごめんね、ばほ。


「君を僕の花嫁にしたい。僕は嬉しいから、全力でお嫁さんにする。でも、本当にいいの?君が大好きだから、もう一度だけきくけどほんとうに……」


「あーもーうっさいにゃ」


 どこからともなく、私のお腹の上に黒猫が飛び乗った。

 びっくりしていると、ばほ が怒ったような声を挙げて私の上から黒猫を追い落とそうと手を振る。


「ちょっと!ばすてと!だめでしょ!僕の奥さんに乗ったら!」


 お尻を上げてバランスをとっていた黒猫が、『ケッ』って顔をして ばほ を睨むと、ばほ はぐっと息を飲むような顔をして、何歩か後ずさった。

 黒猫はそんな ばほ から振り返って私を見た。

 つやつやの黒毛は夜空を映したようにきれいで、私を見るまあるい金色の目もとっても素敵。


「ねぇあにゃた。ばほ のお嫁さんににゃるって本気で言ってるのにゃ?」


 私が力いっぱい頷くと、黒猫はまだ何か言ってきた。


「あにゃたは知らにゃいだろうけど、”悪魔の花嫁”ににゃったら、パパやママともお別れにゃよ?いいの?もう会えにゃくにゃるよ?それでもいいにゃ?」


 また頷く。

 だんだん黒猫の目が怖くなってきたけど、私は本気だもん。


「人じゃなくなるのよ?”悪魔の花嫁”は人外の存在。ばほ に娶られれば、あなたは ばほ のつがいになって、対の悪魔という存在になる。本当にいいの?」


 いいの!ここにいるだけじゃ嫌なの。

 ばほ を待つだけじゃ嫌。ばほ と一緒にいたいの。本当なの……。

 なんだか悔しくて涙が出てきた。すっごく悔しくて黒猫を睨み返す。


 機械の音だけが響く中、はっきりと黒猫の溜息が聞こえた。


「あなたもバカね。好きになっちゃいけないのを好きになるなんて……」


 ザリッと音がする。よくわからないけど、黒猫が私の手を舐めているみたい。

 ふふ。もう感覚は無いのに、きっと慰めてくれてるって思った。

 目を動かすと、そこには ばほ がいる。

 優しくて柔らかい顔して、私を見てる。

 私は本当に嬉しくて、満たされて、穏やかな気持ちで ばほ を見ていた。



 月明かりを背に受けて、知らないビルの屋上で伸びをする。

 急に体が大きくなるから、正直ちょっと不便。

 でも足も腕も長くなって、いたずら好きの黒猫ばすてとが足元に纏わりつくと、踏まないように注意しないといけない。だから、ついっと抱き上げる。

 ばすてと がいつも通り不満げな声を挙げるけど、抱っこは嫌いじゃないみたい。

 夜風をはらんだ私の髪が、ばすてと の艶のある黒い毛皮に幾筋かの白線を引くと、以前旦那様が言っていた夜の海を思い起こさせる。夜空と混じり合う海の波打ち際に泡立って浮かぶ白線を思い出した。

 はらはらと好き勝手に流れる髪を片手で押さえていると、旦那様が来た。


「ああ、こんなところにいたのか。不自由は無いか?愛しき我が妻よ」


 ばほ がこうなるなんて、私もびっくりだ。

 今もすらりと伸びた手で私の髪を弄ぶように触るのが、エロくて嬉しい。長じて伸びた四肢の一挙手一投足は、彼の流れるような所作を更に優雅に見せる。ふふっ。昔はつけていなかった黒い革手袋と、昔から来ていた白シャツの袖口との合間に見える、透き通るような白い肌の手首が、我がダンナながら色っぺぇ。尺骨マジ!ろっぺぇ!尊い!

 執事然とした衣装も大人びた今の姿にマッチしていて、美男児時代のダンナも可愛かったけど、今の姿はそういうクラスタにはもはや毒だろう。ベストのポケットからつるりと出てる金時計の鎖とか、もう!もうもう!カッコいい。

 相変わらず、癖の強い黒髪は夜の闇を溶かし込んだように艶やかで、そこに割り込むように生えた灰白色の山羊の角は、雄々しさと共に理知的な雰囲気を醸していて、ほんとに私の旦那様なのかと、何度見ても萌える。いや、悶える。

 私を見る緑がかった黒色の瞳は、底の無い暗い闇のようなのに私を写して輝いている。うん、好き好き光線垂れ流しは嬉しいけど、私が好きなのはクールなダンナ様なので、ちょっと自重して欲しい。

 すっかり大人びて、ばほ の頃のようなぷにぷに感は姿を消したのに、引き締まった細面はむしろ有象無象を惹きつけそうで緊張感ほとばしる。

 だめだぞ。これはあたしんだ。

 はぁ、ほんとお嫁に来てよかった。眼福眼福アンド眼福。


「さて、用事も済ませたから……帰ろう……か?」


 ばすてと を抱き込む私に、照れながら手を伸ばす旦那様が愛おしい。

 ちょっぴりイジワルしたくなって、含み笑いを漏らしながらその手を取ると、何故笑うのかと言わんばかりな不満顔で抗議するその全身が凶器。

 ずるい。

 惚れなおしてしまうやろー!


「ええ、旦那様」


 私はうっきうきでそう答える。

 胸元で ばすてと がうんざりしたと低い声で鳴いた。


「バカップルは手の施しようがにゃい」

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