黒い仔山羊と寂しいお姫様

「秋雨前線が発達して、今週は曇りが広範囲に曇りが続くでしょう。気象衛星の画像で見てみま……出ますか?……えーっ(プツッ)」


 リモコンを投げ捨てるとこの部屋にまた、耳の奥にけたたましい無音が帰ってくる。


「はぁ、今時テレビで情報収集とか無いわ」


 大きな独り言が口から突いて出る。

 スマホどこだっけ? ちょっと前に放り出したスマホ。2年落ちを機種変更でお求めやすく求めたスマホを探して室内をうろついていたら、不意に子供の声が聞こえた。


「ねぇ、お姉さん。僕とお話しましょう?」


 うん? なんかいきなり、可愛らしい声が聞こえたぞ?

 なんじゃ? なんでや? 私……どうした?

 音源を探すように部屋中見回しても、ここにそんなものはいない。いるわけがない。

 ううん、いるはずだった。いて欲しかった。

 あ、またドツボにハマりそうだと気付いて、思い切り頭を振る。

 昔お祖母ちゃんがくれた、翡翠の首飾りをぎゅっと握り込む。これだけは四六時中身に着けている。お風呂の時も例え一糸纏わぬ姿になっても、これだけは外さない。これだけは……。

 少し落ち着いてきた。

 いないものは、いてはいけない。そう決めたんだ。


 ……ま、どうでもいいけど。


 カーテンを閉じてないだけなのに、外から無思慮に射し込んでくるギラギラした灯りが、まるで私の瞬きに合せるように、私の世界を下品で下劣な色で刹那に塗り替えていく。

 まるで私を塗り替えるように射し込んでくるこの光が嫌いだった。

 それでも、赤や黄色、紫にピンク。暴力的にペカペカと切り替わる軽薄な光にも、すっかり慣れたと思ってた。慣らされたと思うくらい、私は光を浴び過ぎたのかも知れない。

 私の世界は分厚いカーテンを閉じてる僅かな時間だけ色を取り戻す、小さくて狭い世界だと思い知らされる。

 外から入る人工的な光が照らし出す室内は、うんざりするほど見飽きた狭い世界全てだ。

 赤に黄色、本来白いはずのカーテンやシーツも何もかも、外の色で無理矢理色づけされるのは見慣れていても好きになれない。


 はあ……私、何してたんだろ……。


 そんな風に思った途端、下半身から力が抜けて意図せず座り込んでいた。

 汗ばんだ体がべと付いているのか、体を動かす度に不快感を与えてくる。軽く腕を上げ下げしても、身体に衣類ぬのが纏わりついてもどかしい。

 んー、これはシャワった方がいい感じ? そうね、シャワろうか……シャワるか……。


 ……ま、どうでもいいかな。


 なんかすっごく重い何かを振り切ったはずなのに、そうしたら身体が軽くなるはずだったのに、私の体はさっきまで重労働していたかのように、手足はずるずると重く鈍く、ゆるゆるとしか動いてくれない。

 あまりに言う事聞かない身体にうんざりして、身体を床に投げ出す。

 投げ出した体をクッションが受け止めると、当然視界に写るのは天井になる。

 壁紙からそのままに張られた我が家の天井なんて、暮らした月日のだけ見慣れている。

 ここに来た人が何人、呼吸いきを荒げただろう。

 私は何度、見知らぬ誰か越しにこの変わらない天井を眺めただろう。

 今まで何回ここで、部屋と共に私は蹂躙されてきたんだろう……。


 ……ま、どうでm


「ねえ! お姉さん! ちゃんと聞いてよ!」


 また聞こえた気がする。

 ううん! ちゃんと聞こえた! 絶対聞こえた!

 小さな男の子特有の可愛らしい、高めで硬質な中にちょっと柔らかい子供の声が聞こえた。

 思わず上半身を起こして辺りを見回しても、ガッチャガチャに散らかった私の部屋の光景しか見えない。部屋の隅まで見渡しても誰もいない。部屋に散らばったものを拾い上げても誰もいない。

 そうここに、そんな男の子はいなかった。

 自分でもびっくりするくらい、がくっと頭が落ちた。視界の全てが自分の下半身って、なんだこれ……。

 笑おうとして笑えなくて、泣こうとして泣けなくて、翡翠の首飾りをぎゅっと強く握りしめながら、ただただ、ぼうっと下を向いていたら、どこかで迷い猫の鳴き声が聞こえた。

 飼い主を探すように、飼い主を心配するように、夜のぎゃあぎゃあ五月蠅い音を掻い潜るよう長く伸ばして、声を主に届けようと鳴き叫ぶ声音に胸が締め付けられるように感じられた。


「ねえ、本当に見えないの?」


 すぐ傍で誰かが涙を啜り上げながら私に問い掛けるように感じた。その声色は酷く心地よくて、嗜虐性を持った覚えは無いのに、思わず全身を預けたくなるほどに甘美な何かが、私の脳の奥の奥、一番深い芯の部分から、それだけはしてはいけないとギシギシと嫌な音をがなり立てて、絶対にいけないと警告を発していた。

 そう意識した途端、全身に冷や水を浴びせられたように、ザァっと冷や汗が流れた。

 私のどこかから流れ落ちた汗は顎から首元へ、あるいはうなじから背筋へ伝い落ちるように、同じく喉元から鳩尾を通って流れ落ちる水滴の重さに途惑うように、私の思考と心はふらふらと、右に左にに揺さぶられていた。

 なんだろな、なんでこうなったんかな。

 何が悪かったんかな。どこが? いつから? なにが? どうして?


「はあ」


 思わず溜息を吐くと、一つだけ思い出した。最近溜息多いって、あの子が突っ込んでたな。多いって言われても、無意識だからどうしたら減らせるのかって聞いたら……。


 あれ? あの子、なんて言ったっけ。

 いや、あの子って……誰?


 ―――ミャア


 すぐ側で猫の鳴き声が聞こえたと辺りを見回すと、薄いカーテンの向こう、狭いベランダに一匹の黒猫がすまし顔で座っていた。金色の瞳を2つ、真っすぐに私に向けてもう一つミャアと鳴くと、開けろと言わんばかりにガラス戸を数回撫でている。

 誘われるままガラス戸を開くと、黒猫は気取った女の様にしゃなりしゃなりと部屋へ入って来た。

 部屋の中をあちこち移動しながら、何かを探すようにフンフンと匂いを嗅いで回っている。私はその様子を見て、どうせ嫌な臭いしかしないのにと顔を顰めていた。

 その内黒猫はひとしきり嗅ぎまわって満足したのか、さっきまで私が座っていた所にちょこんと座って、また私を誘うように金色の瞳で私を見据えた。

 よろよろと覚束ない足取りで黒猫の側まで行くと、かくっと足の力が抜けて座り込んでしまった。

 その一部始終を見られていたと気付いて顔が真っ赤になる。相手は猫なのに、恥ずかしくて仕方なくなった。

 じっと私を見据えている黒猫は今まで見た野良猫と全然違う。

 野良猫は私を見ると、大体逃げるか、腹を見せたり近寄って体を摺り寄せてくる。それは親愛の印なのか媚びているのか。ホントの気持ちは野良猫自身にしか分からない。

 目の前の黒猫は気持ちいい距離を保ったまま、ただそこに佇んでいた。

 ただ静かに、私がどうしたいのか、どうするのか見定めるようにちょこんと座っている。

 

「私にどうしろっていうの?」


 そう問い掛けると、黒猫は詰まらない事を聞かされたとばかりに、その鋭い牙を見せつけるように大きなあくびをして、また私を見た。

 何を求められているんだろう。どうすればいいんだろう。

 ぐるぐると考えている間に、黒猫は時折何も無い所に目を移したり急に猫パンチを繰り出したりしながら、それでも私に多くの意識を向けている事が分る。

 自分で考えなきゃ。自分で……。

 黒猫が向ける視線に急かされながら、私は必死に考え続ける。無意識に翡翠の首飾りを握り込んだ時、不意にドアが気になった。

 ここは賃貸の一室。鍵は中からしか掛けられない。

 でも、私は鍵を触った事が無い。いつも誰かが外から鍵を開け、用が済んだら外から鍵を掛けていく。

 あのドアは酷く軽いはずなのに、何故か重過ぎて私には開けられなかった。

 でも、本当は……。


 ―――ミャア


 私の視線の先を見た黒猫は一鳴きすると、すっとドアに近づいてカリカリと引っかきだした。

 見捨てられたのかと思って心臓が飛び上がるような衝撃を受けていたら、どうも違う。黒猫は私を誘うように、何度も振り返りながらカリカリとドアを引っかいている。

 この部屋に来てから初めて、鍵に手を伸ばす。まだ心の片隅に、触らなければこのままここに居られると思っている私がいる。

 おずおずと鍵に手を伸ばす。指でつまんだ鍵はヒヤリと冷たかった。


 カチリ


 思い切って鍵を回すと、拍子抜けするほど音も軽く鍵は開いた。そのままドアノブに手をかけて、ゆっくりと回して押すと、重い重いと思っていたドアもすーっと音も立てずに開けた。

 ベランダが開いたままだったせいか、一気に風が流れ込んできた。風は世界の匂いを部屋に流し込みながら、私の体を包み込んだ。

 久しぶりに嗅ぐ外の世界。次々と香る色んな匂いにうっとりしていると、いつの間にか黒猫は私の足元をすり抜けて外に出ていた。


 ―――ニャア


 数メートル先で立ち止まった黒猫は、私にどうするか?と問い掛けるように鳴くと、金色の瞳で試すような視線を送って来た。

 いやだ。嫌!もう置いて行かれたくない!ここはいや!

 私は誰かが置き忘れていった、季節外れのコートを羽織ると足元も気にせず黒猫の後を追った。

 見慣れた嫌な光と知らない沢山の人が混じり合う奔流をかき分けながら、必死に黒猫を追い続けた。

 気付かない内に周りの色と音が減っていき、それでも走り続ける黒猫についていくと、見知らぬ住宅街近くでポツンと明るい場所を目指しているのが分かった。

 立ち止まった黒猫の側にとてとてと近づいて顔を上げると、そこは交番だった。

 思わず立ち竦んだ私は助けを乞うように黒猫を見ると、自分はここまでだと突き放すような視線を返してきた。

 私は目を閉じて大きく深呼吸する。そしてまた、ぎゅっと翡翠の首飾りを握りしめて、震える足を一歩づつ前に出した。

 交番の引き戸に手を掛けるその時、もう一度だけと黒猫を振り返るとさっきの場所から金色の瞳をこっちに向けていた。見守ってくれていると分かった。

 そして私は中へ入る。



 それから先の事はよく覚えていない。

 椅子に座ってはだけたコートから見えた自分の下半身に驚いたり、そんな私を見た警官がタオルを掛けてくれたり、いつの間にか泣きじゃくる私の背中を優しく撫でながら、年配の警官が他の警官に色々言ってたを覚えている。


「ありがとう、来てくれて本当にありがとう。大丈夫だよ、大丈夫だよ」


 お父さんのようにお祖母ちゃんのように、私はちゃんと話せていないのに年配の警官は急かさずにただ、ずっと優しく背中を撫でてくれた。遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた時、黒猫はどうしたかと顔を上げて見ると、少し先の街灯の下に、見知らぬ小さな男の子の側にいる黒猫が見えた。

 あの子はどこの誰だろうと思って見ていると、黒猫は機嫌良さそうに尻尾を振りながらその子と一緒に夜に溶けて行った。

「あぁーあ、契約しそこねちゃった!ばすてとのせいなんだからね?」


 そう言うばほは、言い方程怒っていにゃかった。そうよにゃ。ばほはああいう子とは無理に契約しようとしにゃいもんね。

 ほんとにばほはいい子にゃね。好きよ。

 ついイジワル言いたくにゃっちゃう。


「そうにゃね。あの子が持ってた首飾り、随分強い護符だったみたいにゃから、結局最後までばほの声は聞こえても、姿は全然見えてにゃかったもんね」


 ぴた!っとばほが足を止めた。あ、ヤバい。もしかして結構な地雷だったかにゃ?

 あちしの方を振り返り見るばほは、既に両目に涙の珠を浮かべている。


「ううー……気にしてたのにぃ……気にしてるのにぃ……ばすてと……」


 涙が零れるのを堪えてぷるぷるすると、緑がかった綺麗な黒髪も一緒に揺れて光で艶めいて見えるから綺麗にゃねー。

 あ、しゃがみこんで膝抱き始めたにゃ。ヤバい。


「ねえ、ばほ?泣かにゃいで?ね、ごめんにゃ。次、次行こう?護符持ちは予想外だっただけにゃし。ね?」


 あちしの名前はばすてと。悪魔バフォメットのばほが舌足らずで名付けちゃったから、ばすてと。

 これでもばほの使い魔です。 

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