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 それでもようやく「うん」と口に出そうとした瞬間だった。僕らの背後で延々とリピート再生を繰り返していた規則正しい蝉噪の一部が、ふいに乱れた。

 そして突然、足元の地面で大粒の油が飛び跳ねたような音がして、僕は「ひっ」と声を出してしまう。


 蝉だ。一匹の蝉が僕たちの足元に落ちてきたのだ。


 僕は反射的にベンチの上へ足を引っ込める。だけど君は、地面へしゃがみ込んで、それをじっと、凝視していた。そしてあろうことか、ひっくり返っていた蝉を右手で拾い上げる。


 死にかけているのだろうか、少女に掴まれた蝉はもがき苦しむような鳴き声を出す。


「な、何してるんだよ……!」


 正直、今すぐに遠くへやってほしかった。君の手のひらから逃げ出した蝉が僕のほうへ飛んでくる想像で、冷や汗が滲む。


「……まだ」


 目を細めながら顔を守るように手を広げていた僕は、君が小さな声で何かを言うのに、おそるおそる手を下ろしながら目を開ける。

 ベンチの上についた屋根のおかげで僕たち二人は日陰にいた。逆光のせいか、見上げた君の表情ははっきりと見えない。ただ、真剣な瞳と視線がぶつかったような気がした。


「まだあたしたちは、土の中なんだよ」


 君の右手の中で、蝉はもうほとんど鳴かなかった。


「何年も土の中にいて、その間に太陽が見られなくても、なんにも言えなくても、いつかここから出ていくんだよ。こんなところから出て、太陽を見ながら思いっきり叫べる日が来るんだ」


「……」

 君は青空を背負っていた。


「天国ってきっと、そういうところだもん」


 その時、もう一度蝉が喚いた。

 君が右手を振りかぶってプールに向かってそれを放り投げるのが、スローモーションみたいに見えた。


 途端、プールの方からは女子の悲鳴がどっと上がった。だけど僕は、そんな声はどうだって良かった。ただこっちに振り返る君を見ているのに必死だったから。


「ね」


「……僕でも?」


 僕は何も言えない。悔しいことも、やりきれないことも、理不尽なことも、羨ましいことも、声を上げる勇気なんてない。黙って唇を噛んで、舌を噛んで、せいぜい死に損なうだけだ。それに、この世界で一番正しいのは君だと思っていることも、きっと口にすることなんて一生ない。


 だけど、両手をぱんぱんと払いながら微笑んだ君は、


「そうだよ」


 と言った。


 僕は地面に足を下ろして、頷いてみる。本当にそうなれるかもしれないと、思いたかったからだ。鳴いて、喚いて、叫んで、君に握られ、放り投げられ、死んでいった、あの蝉のようになれるかもしれないと、思いたかったからだ。


 じりじりと足の裏が熱くなる。夏が終わるのは、もう少し先だ。




泥中の蝉 完


 

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泥中の蝉 文月 螢 @ruta_404

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