二本の黄金線

宇佐美真里

二本の黄金線

「おかしいな…」

咥えていた煙草を口から放し、額に浮かぶ汗を拭いながら呟く。

尋常ではない汗だ。浮かんできた汗は、自分の重みに耐え切れず、ひと筋たらりと流れた。ひと筋流れ始めると、玉のように浮かぶ汗は、我も続けとばかりに次々に競うように流れ始めた。

さらっとしていた汗は、いつの間にかその成分を変えたのか、ベトベトとした感触を肌に残した。


とりあえずその場にしゃがみ込む。

手にしていた煙草を咥え直し、もう一度深く喫い込んだ。空いている方の腕で額の汗を再度拭うが、やはり其れは普段よりもねっとりとした感触を残した。


「味覚もおかしいのか?」

いつも喫い慣れているはずの煙草の味を上手く感じられない。

美味くない…。いや、味がしない。いや、味が違うのだ。いつもの味がしない。更にもう一度、喫い込んでみる。

いつもならば感じられるはずの、微かなハニーレモンの味わいは微塵も感じられなかった。代わりに、くらっと目眩に似た感覚を覚え、ゴホッゴホッと激しく咳き込んだ。

目を瞑り顔を上げる。

真っ直ぐ上に向けたはずの頭が、大きく揺れる感覚に陥る。しゃがみ込んだ背中越しに当たる街灯の作る自分の影を眺めるが、影は実際には揺れていなかった。

動悸が激しくなる。心拍数が上がっている。頭の血管にバクン…バクンと血が流れていくのを感じる。破裂するのでは…と思うほどの強い脈動だ。

焦る…。焦燥感が半端ない…。

慌てて煙草を足元に落とすとスニーカーで揉み消した。バッグの中を探り、中からペットボトルを見つけ蓋を回してミネラルウォーターを口にする。

ゴクゴクゴク…と大量に喉の奥へと流し込む。

これで少しは落ち着くはずだ。

ペットボトルの蓋をして、しゃがみ込むすぐ脇に其れを置くと、膝に肘をつき頭を抱えながら足元の煙草に目を落とした。


「やはり、おかしい…」

未だ激しく脈動する頭で、痛みを堪えながら考えてみる。そんなに悪酔いする程には飲んでいないはずだ。

バーボンをロックで三杯。いつもと変わらない量だ。なのに、この酷い有り様は何だ?いつもと変わらない店、変わらない酒、変わらない量…。

どうしたと云うのだ?

何が違う?体調も決して悪くなかったはずだ。これまでこんな悪酔いなどしたことはない。何がいつもと違うと云うのか?


「いつもと違うこと………」

そう云えば、全てがいつもと同じ…と云う訳でもなかった。思い当たる節はあった。改めて振り返らなければ、気にも留めなかったこと。だが疑い出せば、そのひとつひとつがおかしくも感じられる。


カウンターの端に居たあの男…。

かなり長い間、此方に視線を送っていたではないか?確かにあの時、気になっていたはずだ。

「見られている?」と。

何故、此方をずっと見ているのだろうと思った瞬間を思い出す。カウンターからトイレに立ち上がり、男の後ろを通った時にも、男は横目でずっと此方を見ていた。確かに男は此方を見ていたのだ。

激しい脈動が記憶を呼び起こすのを邪魔していたが、あの時、無意識のうちに男の視線を受けていたのだ。


相変わらず汗は止まらない。

次から次へと湧いてくる汗にも拘らず、頸筋に手を遣ると其処は冷たくなっていた。両の手を頸筋に充てがうと、掌の温かさがじんわりと伝わって来る。

トイレへと席を離れた隙に、何か盛られた?いや、そんなことはないだろう。

あり得ない。席はいくつも離れていたし、第一にカウンターの内側にはマスターが居た。そんな気配が見られれば、マスターが何か言っただろう。


あり得ない。

ならば、やはりあの時か?

そうだ、あの時だ。

其れ以外にあり得ない。

接触は有った。確かに有った。

よくあることだと気にもしなかったが、やはりおかしかった。


「忘れてますよ?」

と男が声を掛けて来たではないか。店を出ようとした時、男は声を掛けてきた。煙草の箱を手渡してきた。

もしあれが本当に此方の忘れ物だったならば、何よりも先ずマスターが此方を呼び止めたはずだろう…。だが、マスターは忘れ物に気がつかなかった。

いや、忘れ物などなかったから、声など掛けなかったのだ。

思い出せ…。よく思い出せ…。

流れるねっとりとした汗。ドクンドクン…と音を立てる頭の中の脈動…。冷えた頸筋…。其れら全てが記憶の呼び覚ましを妨げる。バクン…バクン…と鼓動が鳴りながら、ズキンズキン…と頭の中で痛みが存在をアピールしている。目を閉じて眉をひそめる…。記憶の扉に手を掛けて、少しずつ手前に開いていく…。


「そうだ…」

あの時カウンターには空になった煙草のケースがねじり潰され、置いてあったはずだ。数本喫って空となった煙草の空き箱…。空になるといつもケースを捻り潰すのは癖だ。マスターは其れを知っている。だから…、だからマスターは「忘れ物だよ…」と声を掛けることなどなかった訳だ。


「忘れてますよ?」

と手渡された煙草…。あれは男がそもそも持っていた物なのだ。其れをわざわざ差し出して来たのだ。さも忘れ物だと云うふりをして…。

だが、何のために?

足元に転がり揉み消された一本の吸殻を見つめる。

「ん?」

気になって、右手の人差し指と親指で摘み上げて凝視する。吸殻に目を寄せる。

「違う…」

いつもの銘柄の其れとは違っていた。よく見ると、其れはいつもの其れよりも雑だった。煙草そのものが雑。綺麗に巻いてあるようにも見えるが、よく見れば雑に巻かれている。明らかだった。

煙草など普段ならばいちいち見もしない。だから気付かなかったのだ。

いつもの銘柄には、フィルターの処にゴールドのラインが二本入っているはずだった。しかし今、目の前に二本の指で摘み上げた吸殻のフィルターには、其れがない。ゴールドのラインが二本、其処にはなかった…。


慌てて履いているジーンズのポケットに手を遣り、煙草のケースを探る。

しゃがみ込んでいるので、上手く取り出せない。取り出す為に立ち上がろうとしてよろけ、脇に置いてあったペットボトルを倒す。転がろうとする其れを抑えようとして手を伸ばす。屈んだ為に頭が下がって、目眩を覚えた。

吐き気を催す…。

一瞬堪えてはみるが、堪え切れずに嘔吐した。我ながら驚く程の嘔吐の量だった。堰を切ったように喉の奥から勢いをつけて吐き出される…。激しい脈動は頭だけでなく、頸筋に、腹に感じる。

鼓動は幾分加速する。目の前が真っ暗になり、平衡感覚を失って膝をつく。四つん這いになりながも更に嘔吐は続いた。吐く物も吐き切ったのか、吐き気だけになった後も四つん這いのまま、しばらく動けない。更にそのままやり過ごす…。吐き気だけが続く。

更にそのままやり過ごし次の吐き気を待ってみる。


どうやら嘔吐は完全に終わったようだ。

四つん這いから身体を起こし、ポケットの中の煙草の箱を取り出してから、再びアスファルトに尻を置く。転がったままになっていたペットボトルに手を伸ばし、蓋を開け中味で数度口を濯いだ。大きくひとつ息をした後、煙草のケースを開ける。


中には残り八本の煙草が在った。

一本ずつ摘み上げフィルターのラインを確認する。八本そのどれひとつにも、ゴールドのラインは見つからない。やはり八本のどれも巻きは雑だった。

嗅いでみる。

微かではあるが、いつもの香りとは違うのが分かる。但し、気に掛けて嗅がなければ分からない程度の違いだ。しかしその微妙な違いは煙草の香りではなかった。たばこ葉の匂いに交じって、ほうじ茶のような香ばしい匂いが感じられる。其れでいて微妙に青臭さも感じる。


"あれ"の匂いだ。

たばこ葉と"あれ"の混ぜ物だ。

前に一度だけ"あれ"は経験したことはあったが、たばこ葉との混ぜ物は初めてだった。とにかく見知らぬ男に渡された物は、いつもの煙草とは別物であると確信させられる…。

「だが、何の為に?」

何の為にそんな物を渡してよこしたのだろうか?嘔吐したことで、僅かに楽になった頭…脈動も弱まりつつある頭で考えてみる。何の為なのか?その答えを見つけることは出来ない。


偽物の八本残る煙草の箱をそのまま捻り潰し、自分の吐いた吐瀉物の向こうへと投げ捨てる。

「盛られたって訳か…」

呟いてみる。

「だが、何の為に?」

同じ言葉を繰り返す。


まだふらふらとする足元に注意しながら立ち上がる。

ペットボトルの残りを全て吐瀉物の上にぶち撒けて、その場所を離れた…。

「まともな煙草を喫わせてくれ…」

独り苦笑いし、Tシャツの裾を捲り上げ汗だくになった顔を拭くと、少し先に見えるコンビニへと足を向けた…。



-了-

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