02 ENDmarker.

 駆け寄って来る音。


納和なわさん」


 彼の、声。


「帰ったって聞いて。そちらの総括から」


 振り返りたく、なかった。そのまま歩く。


「うん。調子がわるくて」


 雨の弾ける音。たぶん彼は、傘を差している。わたしは、差していない。それだけの違いなのに。それが、どんなに努力しても届かないような、永遠の違いだと、思う。彼には、傘がある。私には、ない。


 そういう人生。


 雨が、止んだ。


 違う。


 彼が、傘を。


「ごめん。そんなことすると、誤解されるよ」


 振り向かず、傘から出て、歩く速度を、ほんの少しだけ、上げた。


「ごめんね。ごめん。帰るから。お幸せに」


 彼のほうを最後まで見ずに、早足で歩いた。


 いつのまにか、家の、玄関。


 足元ばかり見て歩いて、そしていま、足元を見てる。ほんの小さな、水たまり。


「わたしは」


 そういうことが、言いたかったんじゃない。


 お幸せに、って、なんだ。


 当てつけか。


 中学から、ずっと。


 ずっと自分を大切にしてくれた人が。


 その人が結婚するというのに、お幸せにって、言って。突き放すのか。


 もっと、他に、結婚を祝う言葉が、あったんじゃないのか。これまでの優しさを感謝する言葉が、あったんじゃないのか。


「ばかだ」


 こんなに、こんなにも、ばかな人間が。私か。


 しゃがみこんだ。


 今。玄関に、この状態で上がると。


 マットが濡れる。


 でも、このまましゃがんでいても、何も事態は進展しない。


「私みたい」


 何も起こらず、何も起こせず。ただ、しゃがみこんでいる。


「たす」


 けて。


 ぎりぎりで、口に出すのを、止めることができた。


 たすけて。


 私が助けを求めるのは、彼だけ。そして、彼は、もう私のもとには、いない。


 さっき差し出してくれた傘を。雨から守ってくれた優しさを。私は、素直に受け取らなかった。


 お幸せに、って、捨て台詞だけ残して、歩き去った。


 そんな私が。たすけてと言うのは、おかしい。


 扉。開く音。


 わずかに差し込む、光。


 振り返った。


「だいじょうぶ?」


 彼ではなかった。


 総括。


「気になって、来たの。濡れてる。待ってて」


「なにしに」


「だいじょうぶ。休憩時間扱いだから。総括は偉いから、そういうのも自分で決められるの」


 彼女が、玄関に上がる。


 ちょっとして、新聞紙とタオルが用意されて。


「はい。これでだいじょうぶ。おいで」


 新聞紙の上に乗って。鞄を置いて。服を脱いで。タオルで身体を拭いて。


「ありがとうございます」


 それしか、言葉が出てこなかった。


 ただただ、つかれた。

 眠りたい。


「私、もう、寝ます。総括は戻ってください」


「でも」


「戻って」


 少しだけ、プレッシャーを乗せて、言葉を出した。優しさが、今は、つらい。


「うん。わかった。もしかしたらもう二度とここには来られないかもだから、そのときは違う人呼んでおくから」


 どういう意味か、理解することができなかった。


 総括のほうを見ずに、ベッドに潜り込む。


 微熱を、感じる。


 身体は丈夫だから、熱が出ても微熱程度。昔から、そう。中学から。看病されたこともない。


 眠りについた。


 そして、起きる。


 寝たような気はしないけど、微熱は、なくなっている。


「熱ぐらい」


 出ればいいのに。彼を失っても、ばかみたいに丈夫な、私の身体。


 ベッドから出ようとして、昨日の言葉を、思い出した。総括。もうここへは来れないって、言ってた。


 プレッシャーを乗せて言葉を出したのが、いけなかったのかもしれない。あんまり、そういう、威圧する言動を総括にしたことはなかった。


 謝っておくか。携帯端末。


「鞄か」


 帰るときに全部鞄につめたんだっけか。


 立ち上がった。


 少し立ちくらみ。


「あ」


 今、気付いた。

 シーツと、下着。

 鮮血でちょっとだけ真っ赤に染まっている。


 立ちくらみの段階で気付くべきだった。不安定経血。


 これも、昔から。医者も不思議がっていた。


 体調がわるくなると、ほんの少しだけ、経血が出る。そして、身体が治る。そもそも微熱が出ること自体少ないので、忘れやすい体質。


 そういえば、中学のときも。


「またか」


 また、彼のことか。


 もう、いやになる。


 扉を開けた。


「あ」


 テンダーがいる。


 にこっとした、笑顔。


 そして、その笑顔が、私の下半身を見て、固まる。


「あ、違うんです。これは体質で」


「同じです」


「同じ?」


「体調崩れると、血、出ますよね。お医者さんも分からないって」


「あ」


 同じ。


 テンダーと。


「ちょっと待っててください。血の色落とすの、持ってますから」


 小走りに駆け出した彼女が、何かを持って戻ってくる。


「彼女の代わりです」


「彼女」


 総括か。


「へこんでいたので、形だけでも、あとで謝っていただけるとありがたいです。彼女は繊細なので」


「いま、謝ります。そのために起きたんです」


「あ、下着は脱いでくださいね」


 テンダー。

 バーにいるときと、まったく印象が違う。服か。それとも、部屋の明るさか。子供っぽくて、無邪気。


 鞄から携帯を取り出して、電話をする。


「あ、私が先に出ます」


 差し出された、ちいさくてかわいい、手。テンダーの手は、こんなに小さかったのか。


 そのまま、電話を乗せる。


「あ、わたし。うん。いま起きた。大丈夫。大丈夫よ」


 電話が渡される。


『ごめんなさい。許可もなしに突然家に上がって、タオルとか新聞紙とか』


「いいえ。ありがとうございました。たすかりました。わたしのほうこそ、ごめんなさい」


『え、謝るのはわたしのほうよ。あなたはわるくない』


「また、来てください。わたしの家に」


『うん。それは、なんともいえない、かな』


「どうしたんですか」


『いや、ちょっと、あって。ごめんなさい。また連絡するね』


 電話が切れる。携帯の時間表示。午後8時32分。いつもなら、彼とバーで呑んでいる時間。


 まただ。また彼のことを。


「はい。あとはお洗濯で取れますから」


 テンダーの、笑顔。彼のことを一瞬でも思い出したことで、また、何か、こみあげてくる。


「何かあったら、言ってください。今日はバーはお休みに」


「待ってください」


 引き止めた。自分に、いちばん、びっくりした。


「大丈夫ですよ。私はここに」


「そうじゃなくて」


 そうじゃなくて、なんだ。


 冷静でいよう。


 寝たから、微熱もなくなったから、冷静に。


 彼は、もう。


 いないのだから。








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