マリッジ・カクテル

春嵐

01 marriage shot.

 彼が、結婚するらしい。


 友達以上恋人未満を、ずっと続けてきた。仕事に恋愛沙汰を持ち込みたくなかったので、部局も違う彼とは、仕事で会うことはあまりない。


 うちの会社には珍しく社内にバーがあり、バーテンダーが常駐している。


 そこの敏腕テンダーが、彼の妹だった。容姿は似ても似つかない。彼は身体が角ばって筋肉質だけど、テンダーは華奢な身体に細く長い指。


「どうぞ」


 いつも、このバーで会う。


 隣り合って喋るのではなく、背中を向けて。私はテンダーの顔を見て、テンダーに語りかけるように喋る。彼は、壁の絵に向かってひとりごとのように。


 呑んだ。美味しいお酒だけど、心から美味しいと感じることができない。彼が、離れていくからか。


 直接、彼の口から結婚することを聞いたわけではなかった。たまたま彼のいる部局に用があり、入ったときに彼が囲まれて祝福されていた。相手とか馴れ初めとかを訊かれていたような気がする。覚えていない。すぐにその場を離れたから。


 テンダー。


 美しい指と、綺麗な顔。隙のない動作。


 席を立った。容姿にしか目が行かないのは、自分が、いやしいから。


「ありがとう。美味しかった」


「まだ、来ておりませんが」


 彼が、ということだろう。


「いいの。もう」


 手を振って、席を立った。


 テンダーは、たぶん引く手あまたで、きっと声をかければどんな男でもなびく。


 自分は。


 もうすぐ三十に差し掛かろうとしている。


 幸いなことに綺麗でも不細工でもない普通の顔に、普通としか言い様のない体型をしている。中学で止まったまま、身長も伸びていない。


 中学では成長が早すぎて周りから奇異の目で見られたりしていた。そのとき、普通に接してくれていたのが、彼。成長具合の関係で体育は男子のチームに入れられたりして、キャッチボールやバスケットボールのパスの練習にも同性の相手がいなかった。


 彼は、笑って自分からペアになってくれた。私なんかのために、ボールを投げて、ふたりでいてくれた。そのころの彼は誰とも仲が良かったので、思春期独特の勘ぐりなどは起こっていない。


 今なら分かる。


 彼は、私のために、他の女子生徒や男子生徒にやさしくしていたのだと。角が立ったりいじめられたりしないように、守ってくれていた。


「ふう」


 仕事にならない。

 色恋は仕事に持ち込まないと決めていたのに。


 彼の、ことが。

 頭から離れない。


「ちょっと調子が出ないので、早めに帰ります」


 総括に報告だけして、鞄に持ち物を詰め込みはじめた。


「え、えっ」


 総括。焦った顔。


「だ、だいじょうぶ?」


「大丈夫です」


「そ、そう」


 私が彼と仲がいいことを知っているのは、バーテンダーの彼女と、総括の彼女だけ。


 仕事は普通にできる。昇進したくないので、そういう雑事はすべて総括に任せていた。かわりに、総括は私のプライベートに侵食してくる。


 接触非開示性パーソナリティ異常と本人は言っていた。そういうものがあるかどうかも、私は知らない。他人との精神的距離感が、具体的に把握できないらしい。よそよそしくなったり、なれなれしくなったりする。


 自分にとっては、苦ではなかった。なれなれしくなったとき、よく部屋に遊びに来てごはんを作ってくれる。よそよそしくなったときは、なるべく話しかけない。それだけ。


 ただ、今は。


 総括に気を回せるだけの精神的余裕が、自分には、ない。


 鞄を持って、部局を出る。


 彼に出会いたいような、出会いたくないような、切ない気分で廊下を歩く。


 誰とも会わずに、会社を出た。


 夕陽。


 空が紅く染まっている。


 陽が暮れる前に帰るのは、いつぶりだろうか。


 いつもは、夜になるまで社に居残って、バーで呑んでから、帰る。仕事が好きというのもあるが、単純に、帰ってもやることがない。ひとりの部屋があるだけ。


 バーにいれば、テンダーがいる。そして、彼が来る。ひとりではなかった。


 今は。ひとり。夕陽を眺めながら歩いて帰っている。徒歩15分の道程。


 彼とは、一緒に帰る仲だった。中学のときも、一緒に帰っていた。16時55分。


 そう。16時55分。


 帰り道にある公園で、彼を待つ。部活が終わるのが16時50分で、その五分後に、彼は公園に来る。そして、一緒に帰る。17時になったら、あきらめてひとり。


 今は。16時55分なのに。ひとり。


 足元ばかり見て歩いていたから、なのかもしれない。気付いたら、雨が降っていた。気付かないなんて、ばかみたい。


 雨。濡れていく。髪も。服も。鞄も。


 こんな日もあった。


 雨の日に17時になった。

 いつもはあきらめてひとりで帰るところを、雨だからと17時15分まで待った。


 来た彼は、顔と腕をぼろぼろに擦りむいていた。急いで駆け寄って、雨で濡れたティッシュで血を止めて、ありったけの絆創膏とハンカチで傷口を塞いであげた記憶がある。


 雨でぬかるんでて、転んだ。そう言っていた。


 彼のことしか、思い出さない。


 これからも。


 ずっと、こうなんだろうか。


 彼のことばかり思い出しながら、ときどき部局ですれちがったり、バーで鉢合わせしたり、するのか。


「どうしよう。これから」


 呟いた言葉は、雨の音で、誰にも聞こえやしない。


 ひとり。

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