10

「タツヤ君?」


 からりと軽快に転がる彼女の声でそう呼ばれたのは、一体どれくらいぶりなのだろう。目覚めると一眼レフを首から下げたアカネがシルエットになって立っていた。


「あの、僕」


 空は紺色から青へと変化し、遠くの山には朝もやが掛かっている。彼女はそこにカメラを向けてしばらく待ってシャッターを切る。


「ブルーアワーは朝と夜の境目だから、こんな不思議なこともあるんだ。本当にあなたがタツヤ君なんだね」


 一歩二歩と、こちら側に近づいた彼女の顔はあの頃のような張りのいい肌ではなく、随分ずいぶんしわが多くなり、白髪も増え、もうとても新聞屋の娘さんなんて呼べるような年齢ではなくなっていることが分かった。それでもその柔らかな笑顔は当時のままで、大きな黒目がタツヤをしっかりと見つめている。


「アカネさんがブルーアワーの君だったんですね。僕は、なんだか色々と大切なことを忘れてしまっていたようです」

「あの日、わたしは時間通りにあなたが戻ってこないことをおかしいと思ったけれど綺麗なブルーアワーだったからまたがんばって写真を撮っているんだろうなと思ってて。それで電話を掛けるのが遅れてしまったの。でもね、あと五分。たったの五分早くあなたに電話を掛けていれば助かったかも知れない。ううん。一分でも二分でも早く気づけていれば、救急車が呼べていれば、あなたの人生はまだ続いていたかも知れない。その後悔をずっと抱えながらわたしはここに来て、写真を撮ってた。そこに、あなたが写るような気がして」


 見下ろす街並みに、徐々に明るさが満ちる。東の空の下から淡いオレンジの侵食が始まっていた。放っておけばいつまででも悔恨の情を吐露し続ける彼女の右肩に手を置くと、タツヤはゆっくりと首を左右に振る。


「一度だけ、写ったんですよね? 僕はいつもあと五分早く起きれたらちゃんとカメラの準備を終えてから新聞配達ができて、それでちゃんとブルーアワーもゴールデンアワーも、何だったらモルゲンロートだってちゃんと写真に収められる。そんな風に思ってたんですよ。けど結局一度としてあと五分早く起きる、なんてことはできませんでした。きっと人生って、そういう永遠にやってこないあと五分の後悔をいくつも抱えながら、それでもやってきたその瞬間瞬間を生きていくしかないんですよ。人生にもしもはないんです。だからこそ人生って面白いし、難しいし、一つ一つの選択肢をどうなんだろうって悩みながら選んで生きていくんです」


 何か言いかけたアカネはその言葉を呑み込むと一言「ありがとう」と声に出す。瞳は潤み、そこからマスカラ混じりの雫が滑り落ちそうになっていた。


「アカネさん、見てくださいよ。この素晴らしいブルーアワーを」


 タツヤは泣きそうな彼女から目を逸らすと、あと僅かで終わってしまう奇跡の時間に意識を向けた。既に東の山の稜線は淡いピンクに染まり、山はその薄く掛かった靄の向こう側でしっかりと存在感をこの世界に現してきている。色とりどりな屋根が昇りつつある太陽の光を感じ、街は朝の息吹を始めていた。もう、時間がない。


「タツヤ君?」

「奇跡の青の時間は、すぐに終わります。だからこそ貴重で、けれどまた夕方になれば、あるいは明日の朝になれば、その奇跡にまた巡り会えるんです。僕は結局最後までその奇跡の瞬間を写真に収められなかったけれど、でも一番欲しかったものは、今ここに、ちゃんともらえましたから」


 涙を浮かべている彼女にカメラを向けると「笑ってください」と声を掛け、それからシャッターを切る。


「アカネさんは、歳を取っても本当に綺麗で素敵で、僕が一番好きな笑顔を持っている女性だ。今日、いや、ずっと出会ってくれて、ありがとうございました。僕はあなたが、大好きでした」

「何を言ってるの。こんなおばさんにそんなお世辞……タツヤ君?」


 気づくとアカネの隣には肩で息をする髭面の男の姿しかなかった。


「あの」

「あなたのブルーアワーの君には、会えましたかな?」


 街は朝の光に包まれ、空はすっかり澄み渡った薄い青に塗りつぶされ、そこに小さな雲をいくつか浮かべていた。もう、夜は明けてしまったのだ。


「はい」


 アカネはそれだけ答えると、立ち上がり、改めてカメラを交差点へと向けた。彼の事故後、新設された信号機が赤から青へと変わり、草刈り機を詰んだ軽トラックが走っていく。撮影した写真にはもう何も写らない。そこにはただ日常の街並みだけが、切り取られていた。(了)

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ブルーアワーの君 凪司工房 @nagi_nt

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