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 その空気はしんと張り詰めたあの日のものと全く同じだった。タツヤは自転車に乗り、丘の上の交差点へと勢いを付けて駆け上がる。息は荒く、それでも見上げた空が夜闇をおもむろに取り払い、紺色から徐々に青へと変化していくグラデーションを見せてくれているのを目にすると、立ち上がってのペダリングにも無限に力を入れられそうな気になれる。


 ――今日こそはこの光景を収める。


 その心意気で自転車から慌てて飛び降り、そのまま脇のガードレールに車体を預け、腰のポーチからデジタル一眼レフを取り出す。電源がオンになる数秒すら待てない。今すぐにでもシャッターを切り、この青く染まった街並みを収めたい。その欲望が、タツヤの背中を一瞬照らしたヘッドライトに気づくのを遅らせた。

 音には気づかなかった。エンジンではなくモータによる駆動音はこの朝の静寂の空気を乱すには弱く、レンズカバーが開いた機械音の方がタツヤにとってはよほど耳障みみざわりなものだったからだ。

 シルバーのセダンはブレーキ音を立てることなく容赦ない速度でタツヤの体を吹き飛ばすと、彼の体は五メートルも宙を舞い、そのままガードレールを超えてコンクリートブロックで固められた法面に落下した。

 その落下する人影を、タツヤは交差点からぼんやりと見つめていた。車はガードレールを自転車ごとひしゃげさせて十メートルほど先で停止すると、数秒のちに再び動き出し、何事もなかったかのように走り去ってしまった。そこに救急車が到着したのはおよそ三十分後のことで、病院に到着した時には既に心停止状態だったと新聞記事には記載されていた。


「これが、真実……」

「ああ、そうだ」


 隣に座った男は彼の手帳に挟んだ記事の切り抜きを見せながら、ブルーアワーの空に小さく浮かんだまま静止している雲を見上げる。


「当て逃げの犯人は捕まったそうだ。飲酒運転に加えて免許停止中という状況で気が動転して逃げ出したと供述したらしいが、ブレーキ痕もなく速度もいくら超過していたんだろうな」

「運が悪かった、ということですかね」

「さあな」


 男は立ち上がると、地面に落ちた一眼レフを拾い上げる。それはボディが割れ、中の部品のいくつかが紛失してしまっていた。


「通常霊というのは何か、あるいは誰かに対して恨みを持った精神がこの世とあの世の境目で漂い続ける。ただし君のように事故で何の心の準備もなく突然訪れた死に対しては恨みといったものは生まれず、それどころか自分が死んだことが認識できないまま、この不可思議な境目の世界を生き続けることになる」

「僕は、生きていたんですか。それとも、死んでいたんですか」


 同じ日常を繰り返し、疑問こそ感じながらも、毎朝の新聞配達だけは欠かさずに続けていたことを思い出す。


「自分が過ごしている日常が生のものか死のものかなんて、誰も区別することはできない。ただ一つ明確に差があるとすれば、そこに喜びや悲しみといった感情があるかどうかだろう。君は新聞配達が好きか?」

「はい。生きがい、と言ってもいいかも知れないものでした」


 もう過去形で話すしかないことが、少しだけ悲しかった。


「霊は恐いものだ、という認識があるかも知れないが、本来それは誰もが持っている精神の一つの形だ。不幸があって肉体と分離し、その後昇華されることなくこの境目の世界に取り込まれてしまっているだけで、彼ら自身が行っている多くは自分たちが生きてきた人生そのものなんだ。それも一番幸せだった頃のことを何度も繰り返している。それをオレは彼らなりの幸せな状態というやつではないかと思っている」

「自分なりの幸せな状態……そうかも知れませんね」


 三月十三日を何十回と繰り返したあの日々を思い起こすと、確かにタツヤの内側には温かいものが生まれた。


「けど、彼女にとっては、アカネさんにとってはどうだったんでしょうか」

「それは直接彼女と話すがいい」

「どうやって?」

「自分の死に気づいたお前は間もなくこの世界から完全に消滅する。それまでの僅かな間……それこそ五分間だ。オレの体を貸してやる。オレを通して、彼女と話せばいい」


 男の言っている意味は理解できなかったが「お願いします」と深々頭を下げると、彼は「五分だけだ」と念押しをして、短い祝詞を唱えた。

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