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また五分遅く目覚めるのだろうな、という思いで目を開くと、そこは丘の上の交差点だった。自転車はスタンドを立てずにガードレールへとボディを預け、握り慣れたライトブルーの一眼レフを手に、立っていた。
空は濃い青で塗られ、東の山の稜線が僅かに明るくなっている。ブルーアワーだ。タツヤは反射的にカメラを構えたが、ふと思い、交差点の方を振り返った。
そこに立っていたのは彼女ではなく、あのいかつい黒スーツの男だった。じっとこちらを睨みつけ、その手には黒い鎖を束ねたようなものを握り、口元を細かく動かしている。何を言っているのか分からなかったが、それでもタツヤに対して何の敵意もないとは考えられない。
そのまま自転車に乗ってこの場から逃げ出してしまおうかとも思ったが、それでもカメラをポーチへと仕舞うと小さく息を吸い込み、男の方に向かう。
「あんた、彼女に何かしたのか?」
男は低い声で地響きのような祝詞を唱えていたが、それを中断すると即座に首を横にし、こう言葉を返した。
「オオトリアカネを覚えているか?」
「よく知ってるよ。僕が勤めている新聞屋の一人娘だ。彼女がどうかしたのか?」
突然どうしてアカネの名を出してきたのか分からないが、見た目に加えて更にタツヤの警戒心は高まる。
「今は結婚しニキアカネと名乗っているが、その彼女が、彼女だよ。いつもこの交差点の写真を撮りに来ている女性だ」
ブルーアワーの君がアカネだと言われても、頭の中ではすぐに合致しなかった。
「馬鹿にしているんですか?」
彼女が既に結婚していて苗字まで変わり、毎日この交差点に来てよく分からない写真を撮影していたなんて。それにどう見ても年齢が違っていた。
心の声はそう言っていたけれど、目の前の男はタツヤに言い返すことすら許さない睨みを利かせた。
「お前は、今自分がどういう状態にいるのか、一度として疑問に思ったことはないのか? 何故三月十三日のままなのか。何故いつもブルーアワーなのか。何故彼女にお前の姿が見えなかったのか。何故、お前の体に血が滲んでいるのか」
血、という言葉に慌てて自分の胸元を見ると、そこが何かで濡れていた。紺色のジャージが更に濃い色に変わり、手で触れるとどうやらべっとりとした液体のようだ。その掌を街灯の方へと向ける。タツヤの手は一瞬で真っ赤に染まった。
「な、何なんだよ、これは」
「三月十三日。あの日に何があったのか、お前はまだよく理解していない」
男はそう言うと胸元から手帳を取り出し、そこに挟まれていた新聞記事の切り抜きを一枚手にして差し出した。
「これは?」
三月十四日の新聞の、地方版だった。十三日の未明にひき逃げがあり犯人は逃亡中と書かれている。その被害者の名はタツヤだった。
「あの日のことを、思い出すがいい」
低い声でそう言うと男は腕に金属製の数珠を巻いて、何やら祝詞を唱え始めた。
その刹那、タツヤの目の前に光が広がった。
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