短編置き場

曲 くの字

変わらないもの

 とあるビルの屋上、陽射しの眩しさに、彼は目を細めた。数瞬の後、彼は我に帰ったように首を横に振った。

「何をやってるんだ俺は、これから死のうってのに」

 彼はフェンスの外側、足が半分ははみ出ているであろう場所に立っていた。いざ此処まで来たは良いものの、最後の一歩が踏み出せない。

 彼は世界に絶望したはずだった。新卒で入った倉庫管理の社員を始めて三ヶ月。時代錯誤なまでに強烈なパワーハラスメントに遭い、日々嗚咽と枯れてしまった涙を殺し職場へと向かう日々。

毎日上司の機嫌を挨拶で測ることから仕事が始まるようになったのは、三週間ほど前からだろうか。それまではさして気にも留めていなかった様なことが、それこそ一挙手一投足を見逃すことなく観察して、逃げて隠れてその場を凌ぐようになった。

 別にこんな倉庫など、自分ひとりが消えたところで何一つ変わらない。去年より入庫数が増え、しかし倉庫の面積が増えたりはしない。新入社員が知ったことじゃないが、それは上司の苛立ちを加速させ、八つ当たりを食らうのは自分だ。

 進んでいるはずの時があるのに、自分だけがそこから切り離されたように、置いていかれるように感じ、しかし涙は零れなかった。

 既に彼の中で、何かが弾けていた。けれど、自ら死を選ぶという選択だけは出来なかった。気がつけば、彼はフェンスをよじ登り、屋上の広い床の上に倒れ伏していた。

 空から射してくる紫外線に、彼はやはり目を細めた。

「死ぬことすら出来ないのか。情けねぇな」

 起き上がり、建物の中へと入る扉へ向かおうと立とうとした時、目の前に影が落ちていることに気がついた。

「あなた、自殺しようとしてたの?」

 夏が始まろうという時期、蝉が鬱陶しく鳴き始めているにも関わらず、その少女の声は混じり気ひとつなく彼の耳の中に入ってきた。

 慌てた彼は、この少女の存在を訊ねる前に答えを述べた。

「そうだよ。でも出来なかった。情けないだろ?」

「情けないとかじゃないよ。あなたは、運命を変えたの」

 少女は答えた。彼には淡々としていたようにも聞こえた。

「だって」

 少女は続けて、

「ここはもう、死んだ人の世界だから」

 この一言を聞いて、あまりの突拍子の無さに、彼は少女の方を見上げる。吸い込まれんばかりの翡翠色の瞳、色素が抜け落ちた純白の髪、肌までもが白く、本当に生命であるのかどうかさえ、彼は疑ってしまう。

 自らの体のカラーリングを強調するかのように、白いワンピースを着た少女を見ていた彼は、ふと気がつけば自分と彼女以外何も見えないことに気がついた。闇の中に、自分と彼女の二人だけになったように感じた。

 少女は先ほどの続きを語り始める。

「あなたは既に死んでいるの。ここは、一度死んだ者が住まう世界」

 彼は声帯を切られたかのごとく、声を失っていた。

「一度死んだものが、また同じように人生を送れる場所」

「言うなれば、ここが『天国』ってことになるのかしら。『地獄』と捉える人もいるでしょうね」

 口をぱくぱくさせて、彼は聞き惚れていた。

「あなたは下の世界で、今日この日にこの場所で飛び降りたの」

 やっとの思いで、男が声をひり出す。

「な…ぜ……」

「勤め先の上司から酷い理不尽な言葉を浴び続けて、心が壊れてしまったの」

「悲しくて、でも涙は流せなかった」

「泣き出す前に、死を決めてしまったから」

「だからこうして、この世界に生きているの」

 脳裏に、飛び降りた自分の姿が三者視点の映像として入ってくる。否定したくても、彼には出来なかった。その術を持たなかった。ただ一言、彼は少女に問いかけた。

「俺を、救ってくれたのか?」

 少女は笑った。ふと我に返った彼は、自分が再びビルの屋上にいることに気がついた。

「違うよ。あなたは自分で別の未来を作ることに決めたの」

「別の……未来……?」

 彼は復唱するように少女に聞いた。

「そう。本来この世界では、自分の生きた人生と同じように全てが進んでいくの」

「俺は、それを捻じ曲げたってことなのか?」

「そう。それは並大抵のことじゃない。運命を変えたんだから。しかも、自分の死に際を変えられる人間は珍しいの」

 彼女は満面の笑みで彼を見つめた。

「なんでこんな世界があるんだ? 運命が決まってるなら二回目なんて無駄だろう」

「後悔させるためだよ。死に際に現れるのが私たち『天使』。今のあなたのように、全てを伝えて後悔させるの。そして来世では、自分の力で何かを変えられるように」

 彼は自分が見下されている姿勢だったことが恥ずかしくなり立ち上がった。今までとても重かった体が、急に軽くなった気がした。

「なんで死ななかった俺に会いに来た?」

 自称天使は一言、

「あなたなら、これからの『時代』を創れるからだよ。また遭おうね」

 彼は笑った。

「いつ死ぬのかわかるのか?」

「わからない」

 少女は答えながら、空へと溶けていった。

 彼は再び笑った。

「いっぺん死んでんだ。最早怖いことがあるもんか」

 彼は走り出し、フェンスを飛び越し、跳んで行った。

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