第五章 『想いと、救い(後)』
なんで、ここに。そう思った。
もう、わたしの前に現れないでと、そう告げたのに、どうして。
『やっと君に会えたよ、リン。ずっと、会いたかった』
「……わたしは、会いたくなかった。なんで今更、わたしの前に来たの。もう来ないでって言ったはず」
思わず、声に刺々しさが増す。無理もない。この悪魔のせいで、わたしはこうなっているのだ。わたしは、この悪魔を許せない。
(だけど、)
許せないけど、許してしまう。
悪魔が善意でわたしをこうしたって、わかっているから。そのおかげでわたしは『泣き虫リン』じゃなくなった。
そう、
わたしの小さな、けど確かな幸せを、代償に。
だからこそ、目の前に現れて欲しくなかった。
『っ――あの地獄、アイツのせいで起きた、忌まわしい地獄。アイツと違って、僕ならリンを……』
ブツブツと呟くと、悪魔は薄く笑う。その笑みは、あの日の笑みと全く異なるものだった。
「……いったい、なんのこと?」
『別に、こっちのことさ。それより、リン。それは、読んでくれたかい?』
悪魔はそう言うと、わたしの持つ本――『悪魔大全』を指差す。
「……うん、読んだよ。これには悪魔――あなた達のことが、全て書かれていた」
『そう。それは数百年前――僕達が人間界に闊歩していた時代に書かれた本だからね。今は必要ないし、必要とされない。そんな本だ。それを用意するのは大変だったよ』
悪魔は嗤いながら、そう言う。
……まただ。
また、いつかの笑みとは違う笑みだ。
『それで? 知ったんだろう、僕のことを』
「……うん。全部知った。あなたは、炎を司る悪魔。だから、あなたに与えられた魔力のせいで、わたしの涙は炎になる。炎の悪魔、あなたの名は――」
ひと呼吸。そして、その名前を告げる。
「アミー。それが、あなたの名前」
『悪魔大全』には、そう書かれていた。
『ああ……ようやく、リンが、僕の名を』
その笑みは、先の二回の笑みと同じモノで、歪な笑いで、どこか不気味で……
わたしは怖かった。
内からくる恐怖を押さえつけながら、わたしは悪魔に聞いた。
「……もう一度聞くね。アミー、あなたは、何をしに来たの?」
『おっと、そうだった。僕はね、リン。君を幸せにするために来たんだ。だから、僕についてきてほしい』
「……え?」
言葉が出ないとは、多分このことを言うんだろう。そう思ってしまうくらい、彼が何を言いたいのかよくわからなかった。
「いったい……どういう意味?」
それでも、震える声でその真意を聞く。
『そのままの意味さ。この一年、ずっと君を見ていた。今の君は、あんまりにも不幸だ。報われていない。だから僕が、君にとっての、最高の幸せを用意した。僕についてくれば、それで君はいつかの日々に戻れる』
けど、聞いてもわかることはなかった。
「……どういう、こと、なの」
『だから、言ってるだろう? 君を幸せにするのさ。だからほら、僕の手を取って。僕について来てくれ』
屈託のない笑みを浮かべながら、アミーはわたしに手を差し伸べる。
アミーが何を言っているのか、全然理解できない。
この数ヶ月、理解することを拒んでいたわたしだけど、そうでなくても、彼の言っていることが何なのかわかることはできなかっただろう。
ただひとつ、わかったことが、彼の眼には、何の迷いも、濁りも、悪意は無く。
ただ、心の底から、こう言っているのだということだけ。
だからこそ、わたしは。
「……いやだ」
この悪魔を拒絶した。
『……え? いや、なんで、だい……?』
断られると思ってなかったんだろう、アミーはひどく驚いた――それでいて、どこか悲しげな――顔をする。
「アミー。あなたが心の底からそう言っているのは解る。けど、わたしは今のままでいい。これは、わたしの罰なの。それになにより――」
わたしはそのまま、言葉を重ねる。それが、アミーを傷付ける一言だとわかっていても、
「――わたしは、あなたを信用できない。あなたの行動が善意だと解っていても、わたしはあなたを許せない」
その言葉を、告げた。
矛盾だということはわかっている。確かに、わたしはアミーを許すという気持ちはある。けどそれ以上に、わたしはやっぱり、心のどこかで彼を憎んでいる。
だからあの時、わたしは『もう現れないで』と言ったのだ。許すと許さないの中間、『関わらない』を表すために。
【火涙】の性質を持ったわたしが、またいつ燃やしてしまうかわからなかったから。
そうならないために――感情を制御するために――自ら他人との境界をつくったのだ。
そうやって徹底して他人と一線を置いてきたから、他の人達は次第にわたしに関わらなくなっていった。
そうなるまで、時間はたいしてかからなかった。あのマリアさんでさえ、今でも関わってはくるけど、その頻度は減ったのだから。
――けど、あの人だけは、違ったな。
一瞬、そう思った。すぐにそれを打ち消す。
わたしは、この人を、もう一度、拒絶する。
関わってこないで、その意志を表すために。
その瞬間、アミーの両眼が見開く。
まるで、信じられない、とでも言うかのように。
『はは……なんだよ、アイツは良くて、僕は駄目だっていうのか……!?』
そして、独り言を呟く。
(『アイツ』……?)
そう言えば、さっきもそう言っていた気がする。『アイツ』とはいったい、誰のことだろう。
『……リン』
「……なに?」
『僕じゃ、駄目なのか……? どうしても、アイツの方がいいのか……?』
「ねぇアミー。『アイツ』って誰なの? そんな曖昧な言い方じゃ、わかんない」
『あくまで言わないつもりか……。なぁ、リン。もう一度考えてくれ。君は幸せになっていいんだ。あの日の幸せを、取り戻せるんだ。いいことじゃないか』
「……言ったでしょ、これはわたしの罪。わたしは、幸せになっちゃいけないの」
『リン!!』
刹那。ボワッと、アミーの周りを漂っていた炎が燃え上がった。そして、気付いた。
アミーの炎が、あの煌々と燃える赤い炎ではなく、まるで闇のように深い黒い炎だということに。
「……ひっ」
思わず、小さな悲鳴が出た。
そして、アミーはわたしに近付いたかと思うと、わたしの手を掴んだ。
『リン、僕について来てくれ。ただ、それだけでいいんだ。お願いだ』
その表情は鬼気迫るモノで、ただひたすら、怖かった。
彼の紅い眼は、わたししか映っておらず、そしてわたしは、その真っ直ぐな眼だからこそ、狂っていると感じた。
「あなた……だれ、なの……?」
『僕はアミー。炎の悪魔。それ以外の何でもない』
――違う。ちがう違うッ!!
この悪魔は、あの日の悪魔じゃない。
怖い。怖いよ。
「――――っ!」
『――! リン、どこへ行くんだッ!!』
アミーが掴んでいた手を振り払い、わたしは一目散に走り出す。目的の場所は無い。ただ、ここから離れるべきだと思った。
入口から出る際、司書さんの居るカウンターをチラと見たが、そこに司書さんは居なかった。アミーのせい、だろうか。
「はぁっ、はっ、はぁ」
走る。夏の青空が、ひどく目障りだ。
太陽の日差しが、ひどく眩しい。走り続ける度に揺れる黒髪が、途中で邪魔だということに気付いて、持っていたゴムで後ろで一つにして結った。
運動なんて得意じゃないわたしの身体が、音を上げたのはすぐだった。ズキズキと、横腹が痛い。肺が酸素を求めてる。けど、苦しいと訴える身体を必死に叱咤し、走る。
何も考えず、走る。走り続けた先に着いた場所は、
「――ここ、は」
以前、わたしが住んでいた街。その跡地が見える、小さな丘だった。
わたしの故郷は、今わたしが住んでいる街からそう距離は遠くない。確かに、全力で走り続ければ、そう時間はかからずに着くだろう。
何も無くなった、街だった場所には今、一本の大きい十字架が、建っていた。
「……みんなの、お墓」
それはクロード家が造った、わたしの故郷の人達みんなのお墓。さすがに全員分を造るのは難しかったから、慰霊碑として一本の大きい十字架をクロード家が造ってくれたのだ。
あの日以来、わたしはここに定期的に足を運んでお墓参りをしている。
けど今は、今だけは、ここを見たくなかった。
だって、不安定なわたしが、今、ここを見てしまったら――――。
「……、ぁ」
ポタリ、と。
一滴の涙が、地に触れた。
――それは、始まりを告げる音。
今まで抑えてきたモノ。それが、一気に解き放たれた瞬間だった。
「あ、ぁ……!」
涙が地に触れた瞬間、まるで花が咲き開くかのように炎が燃え上がる。
ひとつ、またひとつ。ヒガンバナの形をした炎の花が咲き、その花弁を辺りへ散らしていく。
それが、ひどく幻想的で――
心のどこかで綺麗と感じている自分が嫌で嫌で仕方なかった。
止めなきゃ、止めなきゃ。そう思って必死に涙を堪えようとしても、それは無駄な足掻きで、涙は止まらない。今まで溜めに溜め込んできたモノが、わたしの内から全て吐き出されていく。
最初に燃えた炎は留まるところを知らず、どんどんその手を伸ばしていく。
その炎の暖かな煌きは、太陽のように輝いて、眩しくて、さっきの禍々しい黒い炎とは似ても似つかなかった。
幾つもの涙がわたしの頬を伝い、零れる。
その涙は、何もないこの場所に花を咲かせ――
ジリジリと鳴くセミの声がだんだん止んでいって、何も聴こえなくなって。
そうしてできたのは、ひとつの花園。
炎の花だけが咲く、
「やだぁ……やだよぉ……」
炎の花で埋め尽くされた花畑は、わたしの呟きなんか意にも介さず、わたしだけを燃やさず、無慈悲に辺りを赤色に染めていく。
「やめて、やめて……燃えないで、燃やさないで……! お願いだから、ねぇってばぁ……っ!」
ああ、こうなるんだったらいっそ、アミーについて行った方が良かったのかもしれないな――なんて、そんなことを考える。
この炎を消すには、わたしが泣き止めばいい。
だって、これはわたしの涙だから。けど、それができないのは、ひとえにわたしが「泣き虫」という性格だから。
今まで溜め込んできた涙。もう、衝動に身を任せてしまったいま、自分の意志で泣き止むことなんてできない。
「誰か……たす、けて……」
無意識にそう呟いた、その瞬間。
「もう、大丈夫だよ、アストロアートさん」
わたしを中心にできた炎の壁の外から、声が聞こえた。
わたしは、この声を知っている。
ずっとわたしが拒んでも、頑なにわたしに踏み込んできた、その声の主。
「……ファルシュ、くん……」
振り向いたその先にはアミーと同じ顔の、灰色の髪の少年――アレン・ファルシュが立っていた。
***
(間に合ってよかった……。また繰り返すことだけは避けなきゃいけなかったから)
アストロアートさんは、炎で出来た壁の中で蹲っていた。僕が呼んだ声に反応して上げた彼女の顔を見ると、その顔は泣いていた。
そんな彼女を安心させるように、僕は笑う。
「大丈夫、アストロアートさん? 待ってて、すぐそっちに行くから」
「来ちゃダメ、ファルシュくん……! 来ないで!!」
笑いながら、彼女にそう言う。けど、アストロアートさんはそんな僕を拒絶するかのように――いや、事実、拒絶しているのだろう。これまでと、同じように――僕に来るなと言った。
けど、だからどうした。
「大丈夫だから。――すぐに、君を救う」
ああ、救ってみせるさ。
だって、あの時そう決意したから。
そして僕は、炎の壁に迷いなく一気に突っ込む。瞬間、炎が僕を燃やす。
「あぐっ……」
熱い。まさか、こうやって僕が炎に焼かれる日が来るなんて思ってもみなかった。
炎を一気に突き抜けて、そのまま火で燃えていない地面の部分に転がり込む。そして、現状を確認する。
皮膚が火傷している。爛れてはいないが、それでもかなり痛い。幸い制服の方は、一気に突っ切った為、焦げるの範疇で収まっていた。身体に燃え移った火も、運良く既に消えかかっている。本当に、運が良かったとしか言えない。
「ファルシュくん、そんなにならなくてこっちに来なくても……!」
アストロアートさんが、僕を心の底から心配するように、僕に声をかける。
その声がとても嬉しくて、やっぱりこの子は優しいなと、そう思わずにはいられなかった。
「はは……これくらい、大丈夫、だよ」
「でも、そんなに火傷して……!」
「君が背負ってきた痛みに比べたら、これくらい……どうってことないさ」
「――――っ!」
そうだ。これまでこの子が、アストロアートさんが、どれだけ苦しんだ。
この子は、何も悪くない。あの日のことだって、彼女に全て非があるわけではない。罪を背負うべきは決して彼女じゃない。
だから彼女は、新しい地で幸せになってよかった。そうするだけの権利があった。
だけど彼女は、その手に掴めたはずの幸せを自ら拒んだ。
彼女が、あまりにも優しすぎたから。全て自分が悪いと背負い込んで、これは罪だと、罰だと自分に言い聞かせ、目の前にあった幸せを拒んだ。
得てしまった性質のせいで他人の優しさを拒み続け、満足に胸の内のモノを吐き出すこともできず、ただ溜め続けていった。
そうやって、優しすぎる少女はずっと苦しんできた。
「だから――ほら。安心して。もう、泣かなくていい」
僕にとって大切なもの。
守りたいと、救いたいと願ったもの。
それを、泣かせたくないと想い、願うのならば。
「――君は、何も悪くない」
誰かが、言ってあげなくちゃいけない。
彼女が抱えてきたモノを、否定しなくちゃいけない。
「――――あ、ぁ」
「泣かないで、リン。君に、涙は似合わない。君にはやっぱり、笑顔が似合うよ」
笑顔を絶やさず、僕は手をリンの頬に触れ、そこに伝う涙を拭う。
リンは、雷でも打たれたように動かない。けど、微かにその体は震えていて、弱々しく、その手で僕の身体を押し返そうとしていた。
「ちが、うの……だめ、なの。はなれてよ、ファルシュくん……!」
「僕は離れない。君がどれだけ自分が有罪だと言おうと、僕はそれ以上に、それを否定する」
「~~っ、ファルシュくんに何が解るって言うのッ!! わたしは故郷を燃やした! わたしが泣き虫だから!! 心が弱いから、涙を止められなかったからッ! だからみんな死んだ! クラスメイトも、街のみんなも、――お姉ちゃんもッ!! これが罪じゃなかったら、他になんだって言うの!!」
「確かに、あれはもう、どうにも出来なかった。今更言っても、どうしようもない」
「だったら……!」
「けど――たとえそうだったとして、生き延びた君が幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたッ!」
「……え?」
何度でも、僕は自らを卑下する彼女を否定する。
そして、彼女の幸せが在るということを肯定する。
「あの日のことは、君が悪いんじゃない。悪いのは、君の涙に性質を与えた者だけ。もう一度言うよ。君は悪くない。――何も、悪くないんだ」
「……どうして、あの日のことを」
「っ――君がしなくちゃいけなかったことは、自らに罪を課して、それを償うことじゃない。生き残った者の責任として、その人達の分まで生きることだったんだ。
ただ生きるんじゃなくて、自分が幸せだと思いながら生きるということを。そのキッカケは、いつでも目の前にあったじゃないか」
「……マリア、さん」
「君があの日、悪魔に願ったのはなんでだ? ただ普通に、友達と過ごしたかったからだろう? その願いは、いつでも叶えられたじゃないか。君がそのことに意識を向けなかっただけで、掴み取るべき幸せはいつでも目の前にあった。
君が苦しむ姿を……君が幸せじゃない姿を、君のお姉さんは喜ぶと思うのか……!?」
ずっと、彼女を見てきた。
どうすれば、彼女に償いができるかずっと考えていた。
この一年で彼女が変わってしまったことを知った。
――僕が変えてしまったことを、知った。
目の前には、掴みとれるはずの、確かな幸せがあるのに、優しすぎるが故にそれを拒んだ少女。
僕は、その背中を押してあげたかった。それが償いになるんじゃないかと、そう思った。
だから、ここに来た。『アレン・ファルシュ』として。
彼女に拒まれることは解っていた。けど、だからと言って、それが止める理由にはならない。
どんなに拒まれても、僕は彼女の心に入り込む。この数ヶ月だって、毎日話しかけた。
クラスメイト達にリン・アストロアートという少女について話した。マリア・クロードにも、協力を仰いだ。
全部、全部、リンのために。リンに、リンの幸せを返すために。
――『アレン・ファルシュ』は、ただそれだけの為に存在している。
そしてその「幸せ」に、僕という存在は要らない。そこに僕は、存在しちゃいけない。
僕は、彼女の笑顔が、もう一度見たいだけ。
あの日、あの幸せの象徴とも言えた、花畑で見せた、彼女の笑顔を。
ただ――それだけなのだ。
「だから――」
震える彼女を抱きしめる。安心させるように、その存在を肯定するように。
「ぁ……」
呟く彼女の声がきこえる。それすらも愛おしく感じる。
離したくない。この小さな身体をずっと、ずっと抱きしめいていたいと思う。彼女が好きだ、という嘘偽りない気持ちが、溢れて止まらない。
けれど――それは、許されない
「リン」
抱きしめた身体を離し、彼女の顔を正面から見る。
そして、笑いながらこう言う。
「笑って、幸せになってくれ。僕はそれだけを、願っている」
「――――ッ!!」
だんだんと、炎が収まっていく。伝っていた涙が、地に落ちなくなったのだ。
リンの顔はすでに涙でぐちゃぐちゃで、正直人には見せられない顔だなとか思ったけど――その顔が、何よりも愛おしいと感じた。
そしてリンは、笑い方なんて知らないと言わんばかりに、不器用に笑いながら……
「……う、んっ……!」
と、そう言ったのだった。
***
だんだんと、炎が収まっていく。周囲はわたしの
目の前にはファルシュくんが居て、わたしを安心させるかのように笑って、わたしのことを待っている。
アミーと同じ顔なのに、けどアミーのあの笑顔とは全く違うモノ。
それは多分、あの日のモノと同じモノで。
そして、彼が転校してきたその日から、ずっとわたしに見せ続けてくれたモノ。
この数ヶ月のモノクロの日々の中でも感じていた、暖かな光。それは多分、きっとコレだ。思えば、彼はその間もずっとわたしに話しかけていた。
出会ったその日から、ずっと拒んできたのに、それでもわたしに踏み入ろうとする不躾な人。けどわたしは、多分それが嬉しいとも感じていたんだ。だから、今日――朝、学校で会った時、何も言ってくれないことに苛立ちを感じた。
他の人達とは違う、拒んでも拒んでも、わたしに関わってきた唯一の人。そんな彼にわたしは、どこかで心を許していた。だから、こんなにも心が揺らいだ。
(わたしは……幸せになっても、いいのかな――)
他人を拒絶するのが苦しくて、でも他人の優しさが欲しくて、けど結局は拒み続けてきたわたし。
でも彼は、彼なら、こんなわたしでも、隣に居てくれるんじゃないかって、淡い期待を持ってしまった。
わたしは、一人で生きるにはあまりにも弱い人間だから。
お姉ちゃんという絶対的な存在を――心の拠り所を無くしたわたしは、あまりにも弱かったから。
誰かに、隣にいて、一緒に歩いて欲しいって、思ってしまったから。
あの夕方の教室の邂逅から今日に至るまで、ずっと感じていた謎の感情。その正体はきっと、心の中にある大きな虚を埋める何か。そしてそれが何なのか、わたしは思い出した。
久しく忘れていた、ある感情。それはあの日から心の奥底に仕舞っていた、美しくて、尊い感情。
(ああ、わたしは――)
――この人のことが、好きなんだ。
その『好き』が、果たしてどの『好き』なのかは解らないけど、それでもリン・アストロアートがアレン・ファルシュのことが好きだということに間違いはない。
顔を上げる。そこには、モノクロの世界……ではなく。
色彩に溢れた、カラフルな世界。
ああ、この光景は、いつかも見た気がする。あれは、いつだったっけ――。
そうだ、あの日――悪魔に出会った日だ。
あの悪魔から、【火涙】の性質を貰ったとき、わたしはこれでみんなと仲良くなれる、そう思っていた。
だから、あの日お姉ちゃんと見た夕景は、とても綺麗だった。鮮やかだった。
世界が、美しく見えたんだ。
夏の日差しが眩しい。けど、それが煩わしいとは思わなかった
ファルシュくんを正面から見据える。そして、聞かなきゃいけないことを、聞こう。
彼と、話をしよう。この感情のことは、それから。
「あのね、ファルシュくん――」
口を開いたその瞬間。
「――ッ! リン!!」
「え?」
――黒い炎に、包まれた。
「な、に……!? なんなのっ!?」
突如現れた黒い炎は、わたしだけを包み、大きな箱の中に入れられたかのようにわたしを世界から隔絶する。
『やっと……見付けたよ、リン』
炎の監獄の後ろから、先程も聞いた声を聞く。この声は間違いなく――。
(アミー……!)
ついに追いつかれた。いや、今の今まで見つからなかったことの方が奇跡だった。アミーが来るのは時間の問題だった。
『久しぶりだね。今はアレン・ファルシュだっけ』
「君は……アミー!?」
けれどアミーはそんなわたしをよそに、この場にいるもう一人の人物――ファルシュ君に声をかけた。
(ファルシュくんとアミーは知り合い……!? 顔が同じだけど、ということやっぱり……)
その予測を確信へと近付けるために、耳を澄ませる。でも、炎越しのせいか、よく聞こえない。
「……どうして君がここに居る。ここは人間界だ。君が居ていい場所じゃない」
『それは君もだろう、アレン。僕らはここに居ちゃいけない存在だ。けれど、』
アミーが言葉を区切ったのか、くぐもってはいたけど、聞こえていた声が突然途切れる。そして――。
『僕は、リンを
炎が、わたしを燃やした。
「~~~~っ!?」
身体は燃えない。燃やされるのは意識。遠慮なく、わたしの意識に入り込んで、何かを燃やしていく。
(やめて……来ないで……!)
感じるのは恐怖と嫌悪感。わたしを燃やそうとするこの炎が気持ち悪いと感じた。そして、その炎を操るアミーも。
けど、炎は燃やしていく。それが何なのか、気付いた時には既に遅かった。
(やめて、それだけは……!)
燃やされているのは、ある感情と、記憶。その感情は、先ほど気付いたあの感情。そして記憶は、この一年の記憶。まだ思い出せる。思い出せるけど、部分的に欠落してしまっている。
忘れていって、そしてだんだんとぼやけていく。
揺れた水面のようにはっきりとしない情景。彼と、彼に関する記憶が、曖昧になっていく。
曖昧になったそれは、まるで夢のように映り、次第に別の情景と混合していく。
(ファルシュ、くん……!)
彼の名を呼ぶ。大事な存在だということに気付いた、彼の名を。
忘れたくない、忘れたくない。
――だけど、現実は無慈悲だ。
「あ――――」
わたしの意識がだんだんと途切れていく。その最後が途切れるその瞬間、彼の声が聞こえた。そんな気がした。
…………彼って、誰だっけ?
火涙の少女 巡漓じゅんぺー @jun-meguri
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