第五章 『想いと、救い(前)』

 ファルシュくんとの一件から、数日が経った。


 わたしは変わらず、独りだ。




 教室の片隅。そこでわたしは独り、本を読んでいた。外を見れば雨が降っていて、空はどんよりと曇っている。灰色の雲が空を覆い尽くし、雨がザァザァと降っている。


 静かに、文字を目で追う。けど、その内容が頭に入ってこない。つい、思考が別の方向へと逸れてしまっている。


 その思考は、あの日のこと。


 あの日以来、ファルシュくんはわたしに話しかけようとはしてこない。それはそれで、間違ってはいないのに、わたしの心は晴れないまま。


 あの日、彼が言った言葉。

 あの日、わたしの中を埋め尽くしていた感情。

 全部、解らなかった。


 わたしは彼を拒絶した。あの人の優しさを拒んだ。

 それは正しいハズなのに、わたしは間違っていないハズなのに。みんなの幸せを――彼の幸せを守ったハズなのに。


 ――どうして、こんなに胸が苦しいのだろう?


 解らない。判らない。わからない。

 どれが正しくて、どれが間違っていて。

 どれが幸せなのか、どれが罰なのか。


 わたしにはわからない。

 彼に向けるべき感情が、わからない。


 心の中にぽっかりと、大きな穴が開いたようで、でもその埋め方がわたしにはわからなくて。


 底の見えないその虚は、いったい何を意味しているのかわからなくて。

 何よりも、自分の心がわからなくて。

 わたしは――怖かった。


 彼を拒絶したのがいけなかったの? でもそうしなきゃ、わたしが救われないのは明らかだったじゃない。


(……わたしはいったい、どうすればよかったの?)


 考えても考えても、わからない。


 ――わからないから、考えないことにした。


 だんだんと、世界から色が失われていく。ついさっきまで多彩な色に彩られていた世界は、黒と白のモノクロな世界に変わっていった。


 ああ、いまの私には、これが似合っているのかもしれない。


 世界から音が無くなっていって、色も消えていって、ついにわたしは独りになった。


 けど、そうしている間にも、時間は進んでいく。孤独の世界でも、時は進む。


 隣に、彼が来た。わたしに挨拶をしてきたみたいだったけど、よく聞こえなかった。


 モノクロの世界の中で、ただ時間だけが過ぎていく。


 いつもなら聞こえるはずのクラスメイト達の喧騒が、今は聞こえない。


 教室の扉が開いた。セラ先生が、わたし達に挨拶をする。それは一見、いつものセラ先生。


 けど、どうしてかな、あのセラ先生は、セラ先生であってセラ先生じゃない気がする。


 だって、『悪意』が無いから。


 の悪意が、無いから。


 セラ先生が、ジッとわたしを見る。いつもならその視線には、何も感じないけど、今日に限って、それが気持ち悪いと感じた。


 あのセラ先生から感じられるのは、張りぼての悪意。だけど、それすらも、張りぼてに成りきれていない。張りぼてで隠しているのに、その隠した何かが、そっと漏れ出しているかのよう。


 ――けど、そんなこと、もうどうでもいいか。


 思考を切り替える。

 関わらなければ、こんなこと、関係ないじゃないか。


「……さん。……ートさん」


 誰かが、わたしを呼んでいる気がする。いや、呼んでいるのだろう。


 そしてわたしは、それが誰なのか知っている。

 知っているけど、聞こえないフリをした。

 その人物は、反応しないわたしを見て諦めたのか、わたしを呼ぶのをやめた。


 いろんな感情が、わたしの中で渦巻く。わたしはそれを、必死に押しとどめた。



 再び、外を見る。

 雨は、止まないままだった。




 ***




 一週間が経った。心の虚は大きくなっていく一方だった。なんだか、怖い。


 何度か、彼が話しかけてくれたけど、相変わらず疎遠のままだ。明日も、きっとこんな感じだろう。


 それと、先生の様子がなぜかおかしい。まるで何かに取り憑かれているみたいだ。




 ***




 一ヶ月が経った。数週間前から、何故かあの日の感情がわたしの心を再び埋め尽くしていた。


 いったい、なんなのだろう。苦しいけど、心地よくもある。


 数日経っても、謎の感情は、増す一方だ。そのせいで、わたしの心は満たされているのか、失われているのか、よくわからなくなってくる。


 彼とは、何も変わらない。


 この壁が、壊れることはない。




 ***




 三ヶ月が経った。時間が経つにつれ、虚と感情――総じて、『想い』は強くなっていた。けど、彼とは話せないまま。


 とても、苦しい。


 ねぇ、誰か、教えてよ。

 教えてくれるのなら、誰か。

 いったい、これは何なの。


「――――、」


 淡々と過ぎていく日々。

 わたしは独り、別の世界にいる。


 後悔はない。これはわたしが望んだモノ。

 ああ――でも、苦しいな、泣いてしまいたいな。


「――――、?」


 何かが、このモノクロの世界を照らした気がした。声が聞こえた気がした。

 いや、もしかするとそれは、ずっと前からあったのかもしれない。

 その声は、あの人の声に聞こえた。そう思った自分が、バカだと感じた。


 けど、その声に誘われるかのように。

 わたしは、顔を上げた。




 ***




「…………暑い」




 気付いたら、夏になっていた。時間の感覚さえも、よくわからなくなっていた。漠然と、ただ時間が過ぎているとしか、認識できなかった。


 ひどく、曖昧な日々を送っていた気がする。記憶はノイズがかかったように何も思い出せない。確かなのは、その日々に彼の姿は無く、幸せも無く、ただ灰色で飾られていたことだけ。


 空を見上げれば、青空が広がっている。澄んだ青が、とても目障りだ。太陽がギラギラと地を照らしていて、とても眩しい。


「――――、――――」


 声が聞こえる。

 あぁ、五月蝿いな。


 隣を見ればそこにはマリアさんが居た。この声は、マリアさんのものだったらしい。けど、彼女が何を言っているのか、わからない。


 いや、わかろうとしていないんだ、わたしが。

 何を言ったかよく覚えてないけど、とにかくわたしはすぐにその場から離れた。


 学校前に差し掛かった時、わたしは今日がいったい何の日だったか思い出した。

 今日は、終業式だった。


 俯いていた顔を上げる。そして、嗤う。


 ――ああ、世界は変わらず、モノクロのままだ。


 わたしはそのまま、校舎へと歩を進めた。

 昇降口は、生徒達で溢れかえっている。わたしはその人混みを縫って歩いて、教室を目指す。誰もわたしを気に留める人なんかいない、いつもの光景。


「――おはよう、アストロアートさん」


 だから、その挨拶が自分へ向けられたものだということに、気付かなかった。


「ぇ……?」

「おはようっ、アストロアートさん!」


 目の前の女子生徒――たぶん、わたしのクラスメイト、だった気がする――は、わたしが挨拶を聞き取れなかったと思ったのか、もう一度挨拶してくる。


「あ、えと。その……おはよう、ございます」


 ぎこちなく、挨拶を返す。すると、その女子生徒は「やたっ、挨拶してれたっ」と小さく呟き、それじゃあ、と言って教室の方へ向かっていった。


(なんだったの、いまの……)


 いままで無かった経験に、ひどく戸惑う。あの返答で、よかったのかな。


「あ……」


 教室の目前。そこでわたしは、ファルシュくんに出会った。彼も、わたしに気付いたようで、笑顔を浮かべて、わたしに話しかけてくる。




「おはよう、アストロアートさん。今日は、顔を上げてるね」

「え……?」

「あの日から、ずっと君は顔が俯いたままだったんだよ。うん、やっぱり顔を上げた方がずっと良い」




 ファルシュくんは笑いながら、そう言う。そしてそのまま教室に入ると、何事も無かったかのように席に座る。

 なぜかわたしは、その行動にひどく苛立った。


(なんで?)


 なんで、苛立ったのだろう。彼が関わってこないのは、いいことじゃない。


 これじゃまるで――――。


(わたしが、彼に構って欲しいって思ってるみたいじゃないか)


 またしても、自分の心がわからなくなってしまった。




 ***




 気が付けば、わたしは図書館の中に居た。時計を見れば、まだお昼すぎ。そっか、今日は終業式だったから午前で学校が終わったんだっけ。それすらも、なんだかあいまいだ


 図書館は、相変わらず閑散としている。ここに来た経緯が、イマイチ思い出せない。けど、わたしのことだ。たぶん、無意識のうちにここに足を運んだのだろう。


 ここには、誰もいないから。

 誰も、来ないから。


 本棚をぼんやりと眺めながら歩く。特に目的はない。ただ、こうするだけでも気は紛れた。

 本の一冊一冊の背表紙を丁寧に見ていたからだろうか。



「――――?」



 ふと、周囲の本とは明らかに雰囲気が違う、古びた本が目に入った。


(こんな本、あったっけ……?)


 まだこの学校に来て一年と少しだけど、その間に、この図書館の本をほとんど読んだ。


 だって、それしかすることが無かったから。確かに、まだ読んでいない本はいくらかある。けど、こんな古びたな本が、記憶に残らないハズがない。


 気になったわたしは、それに手を伸ばす。全体的に古びており、背表紙も、表紙も、全部真っ黒な本。表紙の方に小さく、白い文字で『悪魔大全』とだけ書かれていた。


「悪魔……大全?」


『悪魔』。そのワードが、どくんと、わたしの心を揺らす。


 数百ページはあろうかという分厚い本。いくら本好きなわたしでも、全部読もうと思ったら二、三時間はかかりそうなくらいの厚さ。


 それに恐る恐る、表紙に触れ、開く。きっと、かなり昔に書かれた本なのだろう。ページは色褪せ、所々破けている。けど、読めないことはない。


「――っ」


 その本には、全てが書かれていた。――悪魔の全てが。


 名前。特性。権能。象徴。悪魔に関わる全てが、この本には記されていた。

 そのひとつひとつを、じっくり、隈無く読む。無我夢中になって、ある記述を探す。


 時間を忘れ、没頭する。途中、立っているのが辛くなり、いつものスペースに行って、イスに座って読んだ。


「――あ」


 そして、見付けた。見付けてしまった。


 それは本のかなり後ろの方に載っていた。他の悪魔は数ページにわたり記述されているのに、この悪魔だけは見開きで二ページのみ。それはつまり、この悪魔の知名度――もしくは、位くらいが低いということを、意味していた。


 炎の悪魔。右端に記載された画には、抽象的ながらも、それが描かれていた。

 その悪魔の名は――――。




「っ……!? なに……?」




 唐突に、ガタン、という音が聞こえた。驚いて、顔を上げて辺りを見渡せば、いつの間にかもう夕方になっていた。


 窓から夕日が差し込む。その緋い光が、まるで炎のように眩しくて、目が焼けてしまいそうだ。


 ああ――なんだろう。

 この光景は、いつか、どこかで、見た気がする。


「――――、ぁ」


 そうだ。これは、『彼』と出会った日の光景だ。

 そして、彼に出会う前に、思い出した光景で……


「う、そ」


 震える声で、呟く。

 窓から夕日が差し込む、夕暮れの図書館。その最奥の一角。

 人は誰も居ない、わたしだけの場所。

 そこに――


『――やぁ、リン』


 いつかと同じように笑いながら、彼はそこに居た。



 暑い暑い、夏の日。

 そんな日の、出来事だった。

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