第四章 『揺れ動く心(後)』
――それから。
わたしたちは、街を――もちろん、手はつないだまま――歩き回った。全部は案内できていないけれど、それでも街のほとんどは案内したと思う。
わたしの買い物を済ませ、街の名所や主要な施設を巡り、途中で買い食いしたり。
……正直な話、楽しかった。しばらく、こんなことはしていなかった――ううん、こんな風に同い年の人と歩き回ったのは、初めてだったから。しかも相手が、転校してきたばかりの男の子だなんて思ってもいなかった。
「今日はありがとう、アストロアートさん。すごく、助かったよ」
「いえ……そんな、これくらい」
いま、わたしたちが居るのは、街を一望できる高台。最後に、街を見下ろせる場所に行きたいと、ファルシュくんが言ったので、連れてきたのだ。
夕焼けが、街を照らす。緋色に染まる小さな街。
その光景はとても綺麗で、けれど何処か、街が燃えているようにも見えて仕方なかった。
……そう思ってしまうのは、たぶんわたしの罪の意識のせいなのだろう。
こんな些細なことでさえ、わたしはこの意識から逃れることはできない。
自分を赦すことが、できない。
「…………」
――楽しい、だなんて、思ってはいけない。
それは、わたしの罪を忘れることと同じだから。
わたしは、幸せになってはいけない。
罪を償わなければならない。
あの地獄の日からの誓いを、破るわけにはいかないから。
今日の日のことは、一度きりの例外として、記憶に蓋をする。
そして、リン・アストロアートは孤独な日常に戻る。
「それじゃあ……わたしは、これで失礼します」
だから、一刻も早く、ここから立ち去らないといけなかった。
本来なら、この時間は無かったはずのもの。他人と距離を置くと決めたわたしが、こうして関わりを持つことはありえないはずだった。
それがなんで、こうなっているのか――その原因を思い出したとき。
カサリ、と音がした。
おそらく、はみ出していたのだろう。ポケットに入れていたあるモノが、不意に落ちてしまう。
――それは、彼へ宛てた、一通の手紙。
優柔不断で、矛盾した心を持つわたしの現われというべきもの。
「あ―――――」
手紙は、そのままゆらゆらと落下していき、不運にも、ファルシュくんの足下へ落ちていった。そして当然、彼は手紙を拾い上げてしまう。
手紙の封には彼への宛名が綴られている。だから、ファルシュくんへ書いた手紙だということは、一目瞭然だった。
「これは……」
「ファルシュくん! それ、今すぐ離して!!」
柄にもなく、大声を上げて彼に近づく。けれど時はすでに遅く、彼はもう手紙を読み始めていた。
「あ、あ……」
顔が真っ赤になっていくのを感じる。
――なんですか、これ。何かの罰ですか。
何が悲しくて、自分の書いた手紙を、目の前で読まれなきゃいけないのだろう。確かに、読んでもらうために書いたのだけれど、よりにもよって今だなんて。
そんなことを考えていると、ファルシュくんはもう手紙を読み終わったようで、その顔に驚きを浮かべながら、わたしに声をかけた。
「えっと、アストロアートさん。これは……」
「……見ての通りです。昨日は、すみませんでした」
開き直って、彼に謝る。
すると彼は、面食らったかのようにきょとん、とした顔をしたあと、
「僕としては全然気にしてなかったんだけど……そっか。気にしてくれてたんだ」
「嬉しいな」と。
そう言って、彼は照れながら笑った。
(~~~~~っ!!)
ドクンドクンと、心臓が鳴る。
――やめて、来ないで。
これ以上、わたしの心に入って来ないで。
わたしの心を、迷わせないで。
「……? どうしたの、アストロアートさん? 顔色、悪いけど……」
突然黙ったわたしを不審に思ったのか、ファルシュくんが近付いて来る。
「来ないでッ!!!!」
けれど、わたしはそれを、明確な意志をもって拒絶した。
「……え?」
「来ないで……。お願いだから、もう……!」
彼がわたしを慮ってくれていることはわかる。
そこに打算など何もない。純粋な善意。思えば、彼の行動は全て善意で出来ていた。
心臓は鳴り止まない。それどころか、時間の経過につれ増していっている。ドクドクとうるさい。お願いだから、静かにしててよ。
声が震える。ジワリ、と目頭が熱くなっていく。ぼやける視界。それに気付いたわたしは、必死にそれを押し止めようとする。
いまにも壊れてしまうかもしれない、そんな状態でファルシュくんを見ると、彼は戸惑った顔でわたしを見ていた。
(――――ぁ)
その様子は、いつかの『彼』と重なった。
わたしと彼の間にまるで大きな壁が出来たかのように、わたしたちは動けずにいた。
夕焼けが、ファルシュくんを照らす。その姿は、彼自身が燃えているようでもあった。
そしてわたし自身も、この燃えそうな衝動を抑えるのに必死だった。
この衝動を、いっそ全部吐き出してしまえたらどれだけ楽だろう。
そう、思ってしまう。
けれど、それはダメ。それだけはしてはいけない。
泣いてはいけない。泣いてはいけない。
泣いたら、またあの日の繰り返しになってしまう。
だから、泣いてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
「お願いだから……。もう、わたしに近付かないで……!」
声を絞り出して、彼を拒絶する。
そうしないと、いつこの堤防が決壊するかわからないから。
壊れた時に、彼を巻き込んでしまうのだけは、避けたかったから。
だから、拒絶する。
心の底から、拒絶する。
彼を――悪魔と同じ顔をした、心の優しい少年を、拒絶する。
視界が滲む。そろそろ、ダメかもしれない。
依然として、心臓の鼓動は止まない。
わたしの心は、彼の優しさに蝕まれながら、正体不明の感情に襲われていた。
「……わかったよ。今日はもう、これで帰る」
そう言って、ファルシュくんはわたしの横を通りすぎる。
「―――、――、――」
ファルシュくんがわたしの横を通った瞬間、彼は何かを呟いた。
「……ぇ?」
けど、わたしがその意味を確かめる前に、彼はもうこの場から姿を消していた。
「…………っ、はぁ」
ようやく、感情の波が引いていく。心臓の鼓動も静まり、溢れそうだった涙も収まっていった。
思わず、その場に座り込む。そうせずには居られなかった。
けど、今度わたしの心を襲ったのは、彼に対する罪悪感だった。
そうしないと自分を――そして、彼を救えないとわかっていながら、わたしはこのジレンマに苦しむ。
「……帰ろう」
立ち上がり、おぼつかない足取りで帰路につく。
家に着くまで考えていたのは、最後の彼の言葉。
『――絶対に、君に、君の幸せを返すから』
あれはいったい、どういう意味だったんだろう。
その言葉だけが、わたしの脳内を占めていた。
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