完璧な夏休み…。

宇佐美真里

完璧な夏休み…。

ジーーーーーッ。ジジジジジジ…。ジーーーーーッ。

蝉の鳴き声が、いつも以上に耳に近かった。それほど広くもない…それでも都会のワンルームマンションの猫の額ほどのベランダに比べれば、其の数倍はある庭に面したガラス戸は大きく開け放たれており、庭に植えられた柘榴の木の上方で蝉が鳴いている。姿は縁側からは見えない。あまりに近くで聞こえ続ける其の鳴き声は、鳴り続けるばかりに何時しか耳に馴染み、さも鳴ってはいないかの如く耳に触らなくなっていた。


縁側から見える狭い空の大半を、力強く入道雲が占領している。涼しさを感じさせてもよいはずの残り半分の"青"は、残念なことに涼しさの何の役にも立ってはいなかった。それでも、エアコンに慣れてしまった身体には当初、耐えられそうもないと思っていたはずの暑さも、蝉の声同様…不思議と気にならずになりつつあった。


畳の匂いと縁側で焚かれている蚊取り線香の香りが、ゆっくりと首を巡らしている古めかしい扇風機のか弱い風に乗って漂っている。扇ぐ訳でもなく、ただ漫然と手にしている団扇をゆらゆらと揺らしていると、早く食べて片付けてね…と台所から母の声が聞こえてきた。畳の上で、座布団を枕にごろごろと寝そべっていた私は、座卓の前に起き上がった。其の上には母の置いて行ったお盆があり、真っ白な糸玉の様な素麺が幾つかの氷と共に浮いている硝子の器と、分葱、擦り生姜、茗荷の乗った薬味の小皿、蕎麦猪口が麺汁を其の中にして、置かれていた。茗荷は嫌いなのに…と眉を顰める。何度私が言っても母は薬味に茗荷を欠かさない。美味しいのに…と言いながら、結局は其のまま片付けることとなるのは分かっているはずなのに…。


薬味の小皿から、擦り生姜と分葱を多めに蕎麦猪口へと入れ、氷をわざと鳴らしながら素麺を数筋、箸で掬う。其のまま口に持って行くと、行儀が悪いとは思いつつ、やはりわざと大きめに音を立てて啜った。思っていた以上に大きくなってしまった其の音に、行儀が悪い…と案の定、台所から母の注意する声が飛んできた。行儀が悪いついでに私は、掻いていた胡坐を崩して扇風機へと足を伸ばした。其の強弱ボタンを「中」から「弱」へと指先で器用に換える。小皿の上で揺れていた小さな分葱たちが、揺れるのを止めた。


つるつると素麺を喉元に流し終え、そのまま後ろにバタンと仰向けに倒れ込む。腕を伸ばし座布団を傍に寄せると、二つ折りにして頭の下に挟み込んだ。誰も居ないのを好いことに、大の字になってみる。食べ終わったなら早く片付けてね…、まるで監視でもしていたかの様にタイミングよく台所から再度、母が言う。大の字のまま、畳の上に放ったままになっていた団扇を拾い、くるくると柄を回しながら、其の気が無いことを隠そうともせずに生返事を母に返した。


寝そべったまま、身体をごろごろと転がして縁側へと寄る。縁側から足を垂らしてぶらぶらとさせながら、耳に遠くなっていた蝉の声に気を向けてみる。相も変わらずに其れは、ゼンマイが壊れた様に音を立て続けていた。元気だな…と鳴き続ける蝉を思う。まぁ、一週間と云う短い命なのだ、一生懸命に生きているのだな…と、自堕落に浸かり切った私は無責任に、忙しない蝉を笑った。ワンルームマンションを出て来る時には、電子パッドなどを一切持たずに帰郷することに一抹の不安を感じても居たが、何と云うこともない…。情報から切り離されて不安になるどころか、意外と容易く満喫し始めている自分が此処に居る。持って来た携帯電話も、電源を切ったまま鞄の中だ。ゆっくりと…ゆっくりと其の形を変えていく入道雲を眺めながら、ひっきりなしに飛んでくる携帯電話への通知に、煩わされることのない夏の日を堪能していた。


額を伝う汗に目を覚ます。気付けば縁側に足を垂らしたまま微睡んでいた様だ。すぐ脇に放置された豚の姿をした陶器から、線香の煙の筋はもう上っていなかった。額の汗を着ているTシャツの肩口で拭いながら、換えの蚊取り線香の在り処を、台所で早くも夕飯の支度を始めている母に尋ねると、いつもの場所に在るでしょう…と返って来た。いつもの場所が分からない。都会へと、大学入学を期に家を出て以来、何年経つと思っているのだろう…。もう三年だ…。いつもの場所って一体何処?…と返す。エプロンで濡れた手を拭いながら母はやって来て、部屋の隅に在る小さな箪笥の上の缶の中から新しい渦巻型の線香を取り出すと、マッチ箱と共に私に差し出した。


差し出された渦巻を、ようやく縁側に起き上がりながら受け取ると、だらけ過ぎじゃない?いくら夏休みだからって…と言われる。否定も肯定もしない。何と言っても夏休みなのだ。夏休みはだらけるものなのだ…と開き直る私に母は、はいはい…とだけ言いながら台所へと戻って行った。


マッチを擦って渦巻に火を点ける。ゆっくりと螺旋状に巻かれたみどり色の蛇はジジジ…と小さく音を立て、尻尾を赤く染めながらその長さをゆっくりと変えていく。豚の陶器へと、其のみどり色の蛇を差し入れる。豚の口から、ひと筋の細い煙が立ち昇った。其のひと筋の煙を、首を巡らしている扇風機の風が揺らした。


何時しか陽も随分と傾いていた。翳り出した陽が、空を青から赤へと換えていく。其の赤も、大して時を掛けることもなく紫へと滲んでいく。夜の帳が下りるのは、あっという間だ。蝉の声に交じり、何処かで烏の鳴き声がした。


帰郷して二日。今日も何もしなかった。何もしないと云うことで充実している。明日も何もする気はない。強い意志の元に、何もしないぞ…と自分に言い聞かせていると、プルルルル…と玄関で固定電話が音を立てた。何もしないと決意したばかりの私は当然、其の電話にも無視を決め込んだ。何もしてないんだから電話くらい出なさいよ…とぶつぶつ文句を言いながら母は玄関へ、パタパタ…とスリッパを鳴らす。間を置いて、再びパタパタ…と云う音と共に電話の子機を片手に母が戻って来た。あんたによ…。携帯電話を持って来てないの?…と子機を私に差し出した。


携帯電話には掛けて来ないでね…と、彼には此処の電話番号を伝えていた。面倒くせぇなぁ…と番号をメモした紙を受け取った彼。扇風機の前に座り顔で風を受けながら、母から子機を受け取って、私は耳に当てた。無事に駅に到着したらしい。


「うん…今から迎えに行くね。え?何か要る物?」


電話先の彼の質問に、目を瞑り考えを巡らす。

夏休みを完璧にする物…。………。


「線香花火!」


夏の夜、縁側で西瓜を食べながら、彼と共にする線香花火…。

此れこそが完璧な夏休みではないだろうか?

私は立ち上がり、扇風機のスイッチを再び足の指先で器用に消すと、彼を迎えに行ってくるね…と母に告げながら玄関へと向かった。



-了-

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