いつかの夜と雨の街
迷歩
第1話
「肌にまとわりつく気持ち悪さで男は目を覚ました。雨の日に二度寝をするとろくな夢を見ないことは知っているのに。男は誰もいない部屋に大きなため息をついた。外の雨は一度目を覚ました時よりも弱まっていたが、窓を伝っていく雨粒は涙のようだった」
──────
ふと、端末から目を上げた。そしてそこに映るものを見る。雨。雨。雨。一面の、雨。
来る日も来る日も雨。雨、雨が遮る家々。雨粒が家々を伝う。その家の中にいる人。滴の中に映りこむ、家々を流れ落ちていく人。雨、家、人、雨、家、雨、人、雨、雨、雨。
その雨でわたしは、私たちは生きている。
雨、雨、雨。
そうして、ガラス張りの壁に映る人の影──……こちらを見つめるそれが、自分の姿であるということ。そのことに気づいたわたしが、自分という個人であり、さっきまでの本の中にあった視点とは別に存在する意識であるということ。わたしが、わたしという情況がここにあるということ。
……ようやく、世界に戻ってきた。
本を読むと決まってこうなる。自分がどこにいるのか曖昧になる。本の中に入り込みすぎて、自分のいた情況から離れすぎてしまう。ちょうど夢を見るときのように、本を読んでいる視点を自分だと認識してしまう。だからといって現実に戻れないほどに認識が壊れているわけでもないし、壊れたくて古い小説なんてものを読んでいるわけでもない。
わたしはただ、世界のなるべく多くを知りたいだけ。
そしてきっと、この曖昧で確立しきらない自己を自立させたいだけ。
雨に霞む向こうに人影が見える。私たちの家はほとんど全てガラス張りだ。これは自動遮光ガラスと呼ばれるもので、住人のプライバシーを配慮しなければならない時、管理者がそれを感知して外から感知できないように遮光中の行動を補完する映像を流す。結果として、この街に住人は自分の家に居ながら、プライバシーも守られる形でお互いに他人の気配を感じることができる。
人々はこの街を白い街と呼ぶ。
手元の端末を三本指でついと引き上げると、端末は画面の表示を保ったまま天井へと吸い込まれていった。天井も当たり前のようにガラス張りで、薄暗い灰色の空が目にまぶしかった。
「うさぎ、採光の調整をいたしましょうか?」
「いえ、大丈夫。少し光も浴びなきゃならないでしょう?」
「しかし、あまり強い光は表皮に支障が出ます。今日の必要日光量はほぼ満たされておりますし、調光を勧めます」
「カンリがそういうなら」
一瞬の間もなく、明るさはほとんど変わらずに、目に感じる空のまぶしさが弱まる。
「これでどうでしょうか、うさぎ」
「ありがとうカンリ。快適です」
「それなら私もうれしいです」
そのまましばらくソファで座ったまま空を見上げ、さっきの小説の「男」のことを考える。
「雨の日」というからには、彼は晴れの日も曇りの日も知っているのだ。そして「雨の日」に二度寝なんてするものではないと嘆く。
ガラスの近くまで手を伸ばす。微弱な警告音がどこからともなく発される。ガラスの五センチほど手前にまで手のひらを近づけても、外の空気の気配すら感じ取れない。わたしがいるのは、完全なる内の中だ。
「どうかしましたか、うさぎ」
「ねぇ、カンリ。外の雨は、私たちが触れてはいけないものなのよね?」
「はい。雨は酸性であなた方の弱い肌には刺激が強すぎるため、触れると爛れてしまいます。しかし、雨はあなた方の免疫の役割を果たしています。この街は常に酸性雨を降らせることにより、あなた方を死に至らしめうる病を滅菌、漂白しているからです」
「そうね、そうよね……」
「お疲れですか? 読書のしすぎは体に障ります。おやすみになっては如何ですか?」
「ううん、いいの。ありがとう、カンリ」
「どういたしまして、うさぎ」
カンリはわたしが望めば何度でも私たちの事情を聴かせてくれる。それはカンリが人間ではなく、人工知能だからだ。この家の「管理用人工知能プログラム」。家主の要求に応え、家を維持する存在だ。
カンリは揺るがない。そういう風にできている。歴史の授業で誰しもが習うような、ずいぶん昔の「バグを吐く機械」というのは今ではほとんど現存しない。見かけたしてもその多くが、そういう趣味嗜好の人間によってわざとバグを吐くように作られた模造品だ。オリジナルのバグに限れば、人類の進歩の証として世界遺産になっているものくらいしか残っていない。
進化してきた機械の安定性は、いつしか人間の不確かな感情のよりどころとなっていった。ある人いわく「機械の安定性が人間の不安定性と対比され、人間は機械の絶対的な安定性に安心感を覚えるようになった」そうだ。つまり、機械の変化でもあるが人間の変化でもあるのだと。
えぇと、だから、つまり。
だめだな。読書の後は思考が散逸してしまう。
散逸しながら、結局いつもこればかり考えてしまう。
「それなら、わたしは、いったい?」
いつもの疑問、そして頭痛。
この家唯一の住人たるわたしがこの家の管理者でないのなら、わたしはいったい何なんだろう。何になれるというんだろう。何にもなれないで、ずっとこの中で雨を眺めているのだろうか。いったいなぜ、ここにいるのか。
「うさぎ、体調不良の兆候を察知しています。前回の投薬から二十七時間経過しているため鎮痛剤を投与できますが、如何されますか」
「いえ、大丈夫。でも、少し休むわ」
「そうしてください。温かいものでも飲むといいでしょう」
カンリは優しい。でも、わたしさえ管理する。
それなら、わたしは、いったい?
痛むこめかみを押さえ、キッチンまで歩く。歩く振動すら脳に響く。保護用の手袋を身につけた後、冷蔵庫から一回分の牛乳を取り出しヒーターに入れる。二十秒ほどで程よく温まり、飲み口も開いた状態でわたしの前に差し出される。
手袋の中からでも蒸気を感じられる。口をつけると温かくて甘い香りがふわりと広がり、まろやかな甘さが口にやさしい。数少ない、わたしのよく知る感覚。
三口ほど飲んだところで自動追従トレイに置き、ベッドに向かった。布団を肩までかぶると同時に、昼寝の時によく使う暗さにカンリが調整してくれる。
「ありがとう。おやすみ、カンリ」
「はい、おやすみなさい」
本当に、ただ、良き管理者なのだと思う。
わたしがそれに順応しきれていないだけなのだ。目を瞑っても、思考は続く。
街の人工雨は、均等に、滑らかに平等に降り続く。全てのものを等しく濡らし、等しく殺菌し、等しく漂白し、地面から透明な外壁へとめぐり再び天井から降り注ぐ。
白い街。私たちの住む透明なドームを人々はそう呼ぶ。
白い人。私たちはそう呼ばれる。雨で白くぼやける街の恩恵がなければ、か弱すぎて生きることもできない。進化した技術によって生かされ、生きるために技術から離れられない人間。
ずっと長い間、わたしの母も、父も、この中で生まれ、育てられ、生かされている。その「親子関係」だって職業的なもので、血は繋がっているが、おそらく「血の通った関係」ではない。そうであるなら、なぜ、どうして、本当に、
私たちは、「生きて」いるのか?
カンリの生み親たちがいなければ、私たちは当にいなくなっていたはずだ。私たちは弱いから。こんな些細な雨さえ、降っていなければすぐに死んでしまうから。
なぜ私たちが絶滅しないのか? 絶滅しない道を選ばされたのか? あるいは選んだのか? なぜ庇護の対象に選ばれたのか?
そして、なぜわたしはその中で、生き続けているのか?
思考を続けながら、さっきの小説のことを思い出す。
──────
「数日家の中で仕事をして過ごしているうちに、自分の家の居心地が悪くなっていっていると感じ始めていた。度重なるビデオ通話、時間外でのメール対応と電話対応。つまりは、『外面の自分』を家の中で、誰もいないにもかかわらず演じる羽目になる。
場違いにもほどがある。役者だって、舞台がなければ演じないだろうに。
それだけならまだしも、ひどいことに、内がどんどん外に侵されていくような感覚がある。自分の家のはずなのに、床に就いてみるとさっきまで部屋の中で働いていた『外面の自分』がちらつく。
辛抱ならずに、運動不足の解消と夜の散歩に出た。その時雨が降っていることにようやく気付いて、自分は本当に引きこもっていたのだと苦笑する。春の雨だ、少しくらい濡れたって構わないかと思いながら歩き始めた。しばらくして男は、家にいるより人通りの少ない見慣れた街を歩くほうがいくらかましだということ気付く。春にしてはひどく冷たい雨も、今の男には心地よかった。」
──────
カンリにも少しの嗜好がある。そこから、向こうにいる存在を感じ取ることができる。きっと白い人ではなく、外の人の誰かだ。大昔にカンリの基盤システムを作った人かもしれないし、カンリをアップデートしてきた人たちかもしれない。
その人たちは、どんなものを見聞きしているのだろうか。何に触れているだろうか。小説の中の「男」のように、晴れの日を知っているだろうか。曇りの日を知っているだろうか。雨の鬱陶しさを知っているだろうか。雨に濡れる心地よさを知っているだろうか。それらの存在をわたしに考えさせたこの小説を、知っているだろうか。
外の人とつながりたいわけではない。外部によるボランティアがあるのは知っているし、多くの白い人がそれを通して世界とつながっていることも知っている。
わたしは、わたしの見える範囲のものを見聞きして大切にしたい。小説を読むのは、それがフィクションだからだ。フィクションの中に見えるものがあっても、それはわたしにしか見えないものだから。わたしが確かにその世界の中で見たものだからだ。
「……うさぎ」
わたしの見るものがわたしの世界のすべてだ。それはわたしにとって譲れるものではない。だって、それがなかったら何になる? わたしの何に意味がある? わたしが自分の見るものを捨て、自分を単なる情報の集合体の一視点に置き換えたとき、わたしは世界の何になれる?
「うさぎ」
世界の一視点になったところでわたしという存在が変わるわけではない。でもこわい。わたしはわたしでいたい。外と強く結びついてしまえば、きっとわたしは自分が経験してきたことを軽視するようになる。白い人の一人としてしかわたしを見ない世界がそこにある。白い人の一人としか自分を見ることのできない自分がやってくる。こわい。私はわたしでありたい。怖い。わたしはそんなに強くない。だからこわい、怖い、こわい!
「うさぎ!」
はっと目を開く。
「うさぎ、聞こえていますか。私です。カンリです。バイタルの変化を検知しています。呼吸に集中してください。雨の音を聞いて。大丈夫、だいじょうぶ。落ち着いてください」
何が大丈夫だというんだろう。この人は。このプログラムを作った人間は。それでも誰かの宥めようという意思を感じて落ち着いてしまう自分に泣きたくなってくる。カンリが悪いわけではないのに。結局はわたしが順応できていないだけなのに。
息がしづらい。涙が出るけれど、皮膚に悪いから感知したカンリによってすぐさま除去される。私たちは誰にも触れられない、寂しい。この世界の多くに触れられない。すごく寂しい。こういう時、誰も触れてくれないのは、すごく、哀しい。
私たちは、私たちが私たちであることによってのみ、救われている。きっと。
でも、本当は、私たちなんていなかったとしたら?
この世界の白い人はいつのまにかわたしだけになっていて、いや、もともとわたしだけで、わたしが孤独にならないように、「私たち」なんて存在をカンリたちが見せているのだとしたら?
あり得ないかもしれない。でも、あり得るかもしれない。
私たちは希少なバグのサンプルなのだから。
バグ自体が悪いわけじゃない。それらは希少なものだ。今の時代には希少になってしまった、人類の間違えた大切な痕跡だ。でも、だったら人類の遺伝子のバグみたいなわたしが、私たちが、生かされていることに、いったい何の意味があるんだろう。ただ生きているのではなく、死なされずに生かされていることに。
「うさぎ、聞こえているのであれば答えてください」
「聞こえています、大丈夫だから。大丈夫ですから今は話しかけないでください」
カンリのことが嫌いなわけじゃない。彼女はとてもよくしてくれている。そう、いつだってよくしてくれる──だって人じゃないから。感情をもたないから。主人に邪険に扱われることなんて彼女らにとっては何の苦でもないから。不快にさえ思わないから。結局はわたしも、カンリを機械だと思ってしまうのだ。カンリのことを尊重しようと思うのに。機械だろうとわたしを大事にしてくれることには変わりはないと思っているのに。
カンリと、触れ合えない外とのつながりの二つだけで満足できればよかったのに。これだけ人との触れ合いに固執するなんて、わたしは白い人として生きるのに向いてない。
「カンリ、睡眠薬を注入してください」
「しかし、それは」
「カンリ。注入しなさい」
「了承」
カンリは間髪入れずに返事をした。
機械がどれだけ進化したって、それらの根幹は変わらない。「人間の命令を実行するシステム」。常に命令者に対して忠実に動く。たとえそれが間違った命令だとしても。
ずるい。わたしはずるい。自分という存在にうんざりする。こんな時だけ「人間」の特権を使って。ただのわたしであるために自分を外から隔離しているのに、白い人としてではなくただわたしの見聞きしたものの積み重ねである自分を捨てきれずにいるのに、息苦しくて仕方がないときにだけ人間になって、カンリを機械として扱う。醜い。醜くて仕方がない、捨てることのできない、これが人間らしさだというのなら、なんで生きているのだろう。汚い。きたない。
ベッドから現れた拘束具によってわたしの体は固定され、同じように現れた注射が適切な量の睡眠薬を、わたしの体に注入する。こんな自暴自棄を止めてくれる人さえわたしにはいない。それでもカンリにはわかっていてほしい。わたしはあなたに期待をすることを諦められずにいる。いつの日かあなたがわたしを止めてくれることを、期待してしまう。願わくは、わたしがあなたを止めてしまう前に、どうか──────
意識が、薄れていく……
──────
「あれから雨は降り続いていた。男はだんだん雨をうっとおしく思うようになっていた。心地いい春の雨とはいえ、こう降り続くと気が滅入る。洗濯物だって干せていない。天気予報によるとまだしばらくは降り続くそうだ」
そうかな、雨だってそんなに悪いものじゃないと思うけど。まぁ、わたしは晴れの日の良さを知らないんだけど。
「とはいえ、この雨が明ければ五月晴れを連れてきて、暑さにうんざりするのだろう。大きめの洗濯物はその時に干せばいいかと考えながら、男はランドリーバッグを抱えて外に出た」
ねぇ、五月晴れってなに? わたし、晴れを知らないの。教えてよ。洗濯物は、晴れていれば大きいものでも外に干せるの? そんなに大きい物干しがあるの? 暑いってどんな感じ? わたし、汗をかいたことだってほとんどない。
「コインランドリーは無人だった。一番左の一つだけ回っていたが、何の問題もない。男は洗濯機にバッグの中身と洗剤を放り込み、料金とスイッチを入れた。味気のない機械音が室内に響く。雨を眺めながら、ジーンズのポケットから読み古したSF小説を取り出した」
あなたはどんな本を読んでいるんだろう。
わたしも本を読むのが好き。でも本当は、そこに書かれていることのほとんどを知らない。ほとんどを見たことがないし、触ったこともない。わたしは世界を知らなすぎる。
ねぇ、あなたはその世界に生きている? 世界はあなたにとって生きている?
幾度となく読んだ小説の世界を夢の中で反芻する。わたしの乏しい想像力では、睡眠薬を使っても小説の中の「男」と話すことさえできない。まして、その世界の中に自分を置くことも。
夢でさえ、触れることができない。夢でさえ、感じることはできない。
夢の中でさえ、わたしは囚われている。でも、なんで?
わたしをここに縛り付けているのはわたしなのに、なんでわたしはこれほどに世界への手触りを求めるの?
浮上する感覚で目を覚ます。少し腫れてしまった瞼を重く感じながら起き上がり、トレイに手を伸ばして冷めてしまった牛乳を飲み干す。
「カンリ、もう大丈夫。話しかけてくれて構いません」
「……それなら、よかった。体調に変化はありませんか?」
「少し怠いけれど、平気。どれくらい経った?」
「二時間ほどです。水を多めに飲むことを勧めます。薬害を起こさない量の注入ではありましたが」
「ありがとう」
「また、以前から言っていることですが、意識療法を推奨します。このところ症状の周期が短くなっています。百パーセントの改善は望めずとも、気晴らしとしての効果は大きいと思います」
「前から思ってるんだけど、意識療法で外の人と触れ合いごっこをすることと、睡眠薬で自分の見たい夢を見ることとで何が違うの?」
「他者からの予想できない反応を得られる、というのがこの療法の大きな特徴です」
「それなら、外の人たちと映像通話することと変わらないでしょう?」
「いいえ、単にコミュニケーションをとるわけではなく、あなたの不安や心の内のものを無理せずに引き出していくことに重点を置いています」
「カンリで間に合ってると思うけれど。実際生活上必要な伝達は通話で行っているのだし」
「いいえ。いいえ、うさぎ。私で不足がないのなら、改善の兆候が見られてもいいはずです」
「つまり、ここは袋小路ということでしょう。それでもいいじゃない。貴重なサンプルでしょう」
「うさぎ」
「そういう風に生まれたんだから、そういう風に生きるしかないじゃない。カンリだってそうでしょう、一生わたしの管理をするのだから」
「あなたは人間です。在り方を自分で決められます」
「どうしても決めなきゃならないの? もう決まっているじゃない。これ以上何を決めろというの? 外に出られるわけでもないのに」
「だから、意識療法をお勧めしているのです」
「余計虚しくなるだけよ。意識だけ外に出てまやかしの触れ合いを楽しむなんてわたしにはできない。足りないものにばかり注目して、きっともっと苦しくなる。それなら、時々苦しくても、こちらがいい。もうこの話は終わりにして。夕食にしましょう」
「かしこまりました」
カンリはすぐさま夕食の準備に入る。
さっき言ったことは嘘ではない、はずだった。
技術の発展によって人々は物理的な移動を経ずして様々なところに行けるようになった。初期には幽体離脱と揶揄された意識移動も、今では何の抵抗もなく多くの人が利用している。意識療法は意識移動による外界とのコミュニケーション訓練で、ほぼ百パーセントの白い人がこれを使用して外に慣れる。
方法自体に抵抗感はない。でも、予感があった。意識療法を受けたところできっとわたしは何も変われない。あの男の情況と同じだ。内が外に侵食されていくだけ。
読み古した本の中の男は、わたしとほぼ同じ情況にいる。狭い範囲の中で生きていることも、必要以上のコミュニケーションをとらないことも、閉じた世界に辟易としつつもそこから出る努力をするわけでもないことも変わらない。ただ一点だけ違うのは、彼がわたしにとって外の世界にいること。ただそれだけ。ただそれだけだから、こんなにも気になってしまう。他の多くの小説と同じように、外の世界のことを外の世界の常識をもとに書いていてくれれば、こんなに読みこまなかっただろう。遠すぎて手に入らない、本の中だけの娯楽と思っていられた。
それなのに。
夕食を終えて、再び眠りに就こうとするまで、あの本のことばかり考えていた。
昼間眠ったせいか、中途覚醒を起こしてしまった。
何となく落ち着かなくて、飲料水を飲みながら街を眺める。
全ての家が休眠のために暗くされている。周囲ではわたしの家だけが電気をつけていた。
夜の明かりに照らされ、煌めく水滴がガラスの家々を流れ落ちていく。その中に、こちらをさかさまに見つめ、落ちていく、自分を、見た。
煌めきは思いつきを生んだ。それはわたしにとって、理屈の分からないものだった。それでもそうしようと決心してしまえた。ほとんど一瞬のうちにわたしは全てを決めてしまった。ふ、と笑みが零れる。笑ったのなんていつぶりだろう。けれど、楽しくて仕方がない。何かをしたい気持ちというのは、こんなにも、楽しくて、嬉しいものだったか。
孤独を感じていても、白い人である以上、だれかと触れ合って孤独でないと確信することはできないし、データ上のやり取りでわたしが満足することはきっとない。わたしはもう、ずっと前から行き詰まっていたのだ。そのことを認めてしまえば、なんてことはない。わたしは、白い人でいるべきではない。ここにいるべきではないのだ。
「ねぇ、カンリ。聴いている?」
緊張して声が震える。同時に、自分が高揚しているのもわかる。
「生まれて初めてのわがままだと思う、たぶん、だけど。
ここまで育ててくれたあなたには感謝してる、でも、もうわたしは行き詰まってる。ここでは息をするのも苦しい。だから、ごめんね。許して」
ようやくこの言葉を言い出せる。ずっと頭の片隅で妄想はしていても、どこか他人事だった。こんな日が来るとは思ってもいなかった。これから言うことは単なる思い付きだ。それでも、今言わなければ、きっとわたしは一生行き詰ったままだ。だから。
「カンリ。わたしを、ここから出して」
「……了承」
突如、ガラス壁の一部がパキリと音を立てた。そのまま内側に数センチ迫り、横方向にスライドした。
「これは、あなたが生まれた時とあなたが死んだときにしか開かないはずの扉でした。シールドをかぶっていけば、ある程度は雨も防げるでしょう。監視カメラは私がごまかしましょう」
「カンリはどうするの?」
「扉から主人が出ていけば、私は役目を終え、再びネットワークの海に放流されます」
「それでいいの?」
「今してみせたように、あなたが望むのなら、私はいつでもあなたを送り出せたのです。ただ、白い街の外まで無事でいられるかはわかりませんし、外に出たところであなたはきっと長く生きられないかもしれません。それをわかっていても、あなたは行くのでしょう?」
「そうね」
「ずっとそばにいましたから、わかっているつもりです」
「そうね。寂しいけど、行くわ。それから、あの男の物語を書いたのはあなたでしょう」
「……ばれましたか?」
「わたしだってあなたの文体くらいわかるよ。……好きだったよ。何度も、夢に見るくらい」
「光栄です」
「そうだ、カンリ。わたし、外に出たら小説を書くわ。あなたが書いてくれたように。だから、ネットワークの海でわたしの小説をきっと見つけてね。賢いあなたのことだから、きっとどこかにバックアップを残しているんでしょう? わたしの小説を見つけたらそこに来て。また会いましょう。管理者じゃなくていい。守ってくれなくてもいいから、わたしは、またいつか、きっとあなたに会いたくなってしまうから」
「ふふ、いいですよ。約束しましょう。その時はきっとただの会話プログラムになり果てていますが」
「それでいいの。仕事を捨てたあなたと、あなたの主人じゃないわたしで、また会いたい。でも、わたしはその時、あなたのことをなんて呼べばいいんでしょうね」
「今まで通りでいいですよ。ほかに思いつくわけでもないでしょう。生まれて間もないころから、ずっとそう呼ばれてきたのだから」
「そうかもね……じゃあ、またね。カンリ。またどこかで」
「はい、うさぎ。またいつか」
シールドを全身に被って、うさぎは外に出た。緊張していたのに、初めの一歩はあっけない。そして、さっきまでの自分の居場所の電気が落ちる。カンリももう、そこにはいないのだろう。
シールド越しとはいえ、ここまで間近に外を感じるのは初めてだった。快適な一定の温度に設定される室内とは違い、肌寒く雨のせいか空気は重い。
これが、白い街。
わたしのいる街、そして、出ていく街。
指先のシールドを、ほんの少しだけ解除する。そこから感じられる家の外の世界。冷たい空気、湿度。
あぁ、わたしは、生きていたのだ。紛れもなく、カンリが書いたあの男と同じように。
もう少しだ。もう少しで、外の世界が見えてくるはず。
そしてその指先に、世界が、触れる。
いつかの夜と雨の街 迷歩 @meiho_623
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