第4話
四、
夏田美花は病院に入院している。もう十年近く眠ったままだ。彼女が運ばれてきたとき、誰もが絶望的だと思った。もう長くはないのだろう、と。検査したところ、何しろ頭を強打し、全身の骨を骨折していて、決して目を覚まさない。もう死んでいるのではないかとはたから見て思う人もいるのだろうが、かろうじて心臓は緩やかに動き、呼吸もしているようなのだった。美花の母は毎日仕事帰りに病院に立ち寄って、入院している美花の世話をしてやる。真っ白い部屋の真っ白いベッドの真っ白いシーツの上で、ただ意識が戻らず眠ったまま穏やかに脳死に向かっている娘に気の毒だと嘆き、聞こえてはいないんだろうが日常の様々な出来事をぽつりぽつりと近況報告するように話しかけてやり、お見舞いの花束を花瓶に生けたりしていた。彼女は寝ている間様々な夢を見ていた。おれはそばでそれをずっと見ていた。就職して社会に適応する夢。一人暮らしをする夢。恋人を作る夢。遠い町に遊びに行く夢。寝ぼけているとしか思えないような奇妙な夢。数々の夢の中で、彼女は確かに生きていた。
《あたしはもう生き返れないの?》美花がいつの間にか隣にいた。半透明で宙に浮いていて、魂だけの存在だということがわかった。
《そうだね。多分無理だろうね。だから言ったじゃん? あいつらを殺しに行こうってさ。おれならできるよ? いつでも言ってよ、おれ、すぐ美花の代わりに行ってやるからさー》
《殺したら元に戻れるの?》
《いや、無理。完全に自己満足。もう美花は死にかけてる。回復の見込みはないよ。目を覚ましたとしても、どこかに重度の障害が残ってるかも》
《それでも生きたいよ》
《本当にそう思うの? 今の暮らしのほうが楽しいでしょ? ね、おれとずっと一緒にいてよ。頼むからさ》
《嫌》美花はそう答えて、どこかへ行ってしまった。
《どこ行くの? 外は本当は危ないんだけどなあ。美花はもっと気をつければいいのにな》
おれは美花の後を密かに尾行した。美花は廊下にいた。また新しく夢を見始めたようだ。美花のまわりに白い光が差し込んできていた。真っ白い柔らかそうな羽根が数枚床に落ちていた。
《エフェ。下がりなさい》空の上から響くような声が地面に向かって降ってきた。美花の頭の上には病院の天井はなくなり、白い雲の上の空が広々と見えていた。美花は夢を見るような目で、綺麗な天使の姿が見える、と涙ぐんでいた。
《夏田美花。天国に来ますか? いいんですよ、心配しなくても》白く輝く天使は言った。
《こっちに来いよ、美花。一緒に地獄に行こう? おれはおまえのことを小さい時からずっと見ていたんだよ? ストーカーだと呼ばれても仕方がないよ? そのくらいおまえのことが本当に好きで好きでしょうがないんだよ。おまえが学校でいじめに遭っているのを見て、心を躍らせたことはもはや隠したりしないよ。精神病になって、死にかけているところを見ただけでときめきが止まらなかったのも白状する。精神異常者? おれは違うよ。ただおれは早く死の国で、そう自分の死の王国でおまえに会いたかっただけなんだよ》
《あたし、天国に行く。ねえ天使さん、あいつをどこかにやって。気持ち悪いストーカーだから》
《エフェ、まだ隠していた罪があるでしょう? 早く言いなさい》天使は怒気を帯びた声で言った。
《おい、美花、天国に行くなったら、もう。――そうだよ、おれが美花を殺したんだ。美花の生涯を不幸なものにしたのもおれだし、いじめだってそうだよ、おれがクラスメイトたちをけしかけたんだ。美花が死ねばいいと思って。おれがあの不良の女子を操って美花を窓から突き落とさせたんだ。おれが悪いんだよ。でも、どうしても、おれは美花が好きだったんだよ。早く地獄で会いたくて、そばにいてほしくて、仕方がなかったんだよ》
《美花は天国行きですよ。残念ながら、あなたの意に反して、美花は犠牲者ゾーンに連れていきます。ほら、美花もさようならって言っていますよ》
天国への階段を美花が昇っていく。空の上には、黄色いひよこのような巨鳥や、ネクタイと靴下がピンク色のスーツを着た男が立っていて、美花を見ていた。
《なんでだよ? なんでそうなるんだよ? おれは――》
美花が天国に到着したそのとき、完全に美花の魂はこの世から消えてなくなってしまった。たぶんこの世と縁が切れたからだ。おれの目には見えなくなってしまった美花。病院で眠っていた美花を見やると、しゅうっと一瞬空気が抜けるように魂が消滅し、身体に帯びていたわずかな熱が消え、干からびるように乾燥しきって固まって呼吸を止めてしまった。彼女の身体が、死んだ。もう二度と、生き返れない。死ぬこと自体はそれは別におれにとって悲しいことではないのだが、魂を先に天使にとられてしまったことを悔やんだ。すぐに、エラー音のような、不気味な電子音が鳴った。
《あたし、これから天国で夢の続きを見ることにしたから。じゃあね》
美花の姿は見えなくなってしまったが、声だけは空の上から響いて聞こえてきた。おれの隣を、廊下を、急いで数名の看護師が美花の個室に駆け込んで行った。先ほどの電子音は美花の死亡を伝える音だったんだろう。エラー音は鳴り続ける。もういい。おれはその場から立ち去ろうとして、歩き始めると、バランスを崩して転倒してしまった。がしゃん、と音がして、おれはその場にくずおれたことに気がついた。ああ、そうか。おれは。この死神の姿は、骸骨で全身が骨でできているから、地面にばらばらになって崩れたのは、おれの骨で、おれの身体であることがわかった。一方的に美花を殺して人生を台無しにしてしまう代わりに、もし美花の心が手に入らなかった場合、おれは死んでもいい、と願ったことを思い出した。おれの気持ちは拒まれて、約束通り、おれは死んだ。美花、と最期にそうつぶやいたかと思うと、暗くなった地面から黒い手が伸びてきて、おれの魂を捕まえて、地の底へと連れ去っていった。病院の床には、おれの白骨だけが残されたと思うと、溶けるように消えていった。
《おまえの気持ちだけは何か別のものに変えてやろう》神の声が聞こえた。
最後に残った美花へのおれの想いは、一粒の美しい小さなダイアモンドになった。ワックスがきいてつるりと光る廊下に、生きている人間たちには誰にも見えないけれども、暗がりで、ダイアモンドは、きらりきらりと純粋そうに輝いた。
了
了
美花の夢、エフェの夢。 寅田大愛 @lovelove48torata
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