逢丸
安良巻祐介
峠道を歩いていると、時折、昨日までそこになかったはずの、茶屋のような建物が現れることがある。
この類の怪異というのは幾つかあるが、かかっている暖簾の色が藍色、そこに白抜きの文字で、「逢」と書かれていれば、それは、「逢丸」である。
この「逢丸」という怪異は、建物のように見えるけれども、実際は幻と生き物の中間のような、存在か、現象か、ひどく曖昧なものであって、山の天気に応じて生ずるのだという。
これに出会い、不思議に思って近づいてみると、入り口に至るより先に、暖簾をくぐって、中から人が出てくる。
その姿は、見る者の家族、友人、知り合いのうち、何人かの特徴を混ぜ合わせたもので、老若男女の境なく、髪の色やしわなども、一目見て誰それのものだとわかるようになっている。
その顔色は、色褪せた和紙のような、ひどく憂鬱な、しかし懐かしい色であって、そして、足元には影がない。
それは、出てくるなり、混ざった元の人のうちだれかの声で、「善哉、善哉」と叫ぶ。
そうして、両手をゆるゆると掲げた格好で、こちらへと向かってくる。
ここで慌てて、念仏を唱えたり、武器を抜いて切りつけたりすれば、そいつはやはり混ざった誰かの声で断末魔の悲鳴を上げ、しかし傷など生じた様子もなく、そのままゆるゆると背を向けて、また暖簾をくぐり、その家の中へと戻ってしまう。それきりだ。
そうなってしまうと、慌ててその後を追おうとしても、暖簾の字はいつの間にか「無」の字に変わっており、建物も、みるみる呼び水が失せるようにして遠ざかってゆく。無理をして追いかけると、谷底へと転落するという。
店より出てきた者に動じず、こちらへ近づいてくるのを見据え、何もせずじっと堪えて居ると、それはすぐ目の前まで来たところで、掲げた両手をさっと下げ、自分の顔を掻くような真似をする。
そうして、その顔は、ぞろん、と寒天が崩れるようにして、知人の混ざり物から、まったく別の顔に変わるらしい。
ここまでを、声を一切出さずに耐え切ったものだけが、その、別の顔になったものに手を引かれ、店の内へと、入ることができるという。
「逢」の字の染め抜かれた暖簾を潜り、昼でも夜でも夕暮れでも、変わらず真っ黒く何も見えない、そんな店の内へ。
入った者が、どうなるかは伝わっていない。
仙境に行けるとも、生きながら地獄に落ちるとも、あるいは天狗に攫われるとも、風説だけはあれこれ飛び交ているが、どうもその全てが、本当のことではないらしい。
ただ一つ、店へと呑まれる瞬間、その者の生家で、仏壇から「善哉、善哉」と、先祖の声で、細く鋭い叫びが聞こえるという話だけが、確かなこととして、諸国の訴え帳の中に、いくつもいくつも、記されている。
逢丸 安良巻祐介 @aramaki88
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