海老天のへきれきっ!

さっぷうけい

寿司屋にて

 昔、祖父が教えてくれた。


「なぁ拓馬たくま、『故事成語こじせいご』は知っておるかのぉ?」


 その頃はまだ小学生だったか。当時の俺では意味も分からず、祖父のしゃがれた声で発せられた質問に首をぶんぶんと横に振った。


「今よりもな、ずぅーっと昔の人々の知恵がたくさん詰まっとる言葉なんじゃ。」


 正直興味のない話に、全く聞く耳を持っていなかったように思う。


「それはそれはありがたい言葉でなぁ、例えば…」


 でもそういう話に限って何故か、ふとした瞬間に思い出すものなのだ。


「わしはな。この『故事成語』のおかげで勉強もできたしかけっこだって一番速くての、人一倍ハンサムな男になって若くてきれいな女性とお付き合いできたんじゃ。まあ今となってはこんなヨボヨボのばあさんじゃがの。はーっはっは!」


 はっはっは。確かそのあと祖母に「ふざけたこと孫に教えるんじゃない」と、スリッパを投げられていた。いつも異常に元気な祖父母は、見ていて楽しかった。


「____ともかくな、『故事成語』は覚えておいて損はないんじゃ。どれ、いくつか教えてやろうか!まずはな…」


と言って、張り切って教えてくれたその言葉をを思い出したときというのは、


「あっ」      カタッ…ガチャーン!


大好きな海老天を床に落としてしまったときのことだった。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「ねぇ拓馬っ!大丈夫?」

 一緒に来た彼女の帆希ほまれが、心配そうに聞いてくる。それを横目に、俺はすぐさま海老天に駆け寄った。がしかし、


「…コイツはもう、食べられない」


 唯一の希望だった三秒ルールも虚しく、天ぷらの先に大きな埃が付いていた。落とした場所が悪く、座席の下のちょうど埃のたまりやすい角に横たわっていた。

 死体のように転がる海老天に目も当てられず、膝をついて絶望した。


「ごめん…ごめんよ海老天…。俺が不甲斐ないばかりに、こんな無残な姿になって…」

「もう、聞いてる?私だってそんなに心配されたこと無いんだけど!」


 そう口を尖らせた彼女の言葉はスッと耳から抜け、代わりに、安い回転寿司チェーン特有のプラスチック製の皿が上げた、突き刺すような悲鳴が何度も頭に響く。

 誰よりも愛した海老天様への申し訳なさからか、自然と目が潤む。これじゃあまさに…


「青天の霹靂へきれきならぬ、海老天のへきれき、だな…」


 海老天の足元に、大粒の霹靂がこぼれる。


 その言葉が、その涙が、だった。


 世界は傾き、天地はひっくり返り、開始の火蓋ひぶたは切られる。

 狂った俺の頭の中で突如、『故事成語のグルメレース』が始まったのだ!




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 拓馬が突然、おかしくなってしまった。もともと変だったが、今回は特に面倒くさいかも。そう思っていると、お皿の音を聞いた店員がやって来た。冴えない見た目をした店員で、私と同じように思っていたのか、溜息をつくような声で彼に聞いた。


「あのーお客様、大丈夫でしょうか?もしよろしければ、新しいのをご用意いたしますけど」


「___いや。海老天(天)は二物を与えず、だ。人はそんなに欲張ってはいけない。」


「へっ?」


 店員は、驚いて喉の変なところから声が出たようだ。私も拓馬の顔を見るが、いつもより一段と真面目な顔をしており、一段と面倒なことが分かった。

 彼はおもむろに立ち上がり、席に着いた。普段よりも背筋が伸びていて、いつもはしわしわのシャツがすっかり若返ったようだった。

 やっぱり、おかしい。


 店員には私の方から謝っておき、食事を続けることにした。

 とりあえず彼のことは一旦忘れて、私も好きなものを食べようとレーンを流れる干瓢かんぴょうに手を伸ばす。それを見た彼の、いつもより一段とキリっとした眉がピクッと反応した。


「…干瓢、好きなのか?」


「うん、まあそうだけど。拓馬も食べたいの?」


「いやそんなことはない!割り箸から作られた食べ物なんて、食べられるわけがない!」


 彼が急に、驚いたように言う。私もその言葉を聞いて驚く。そして「それラーメンに入ってるメンマじゃん!」とツッコミそうになるのを抑える。今の彼に言っても、更に面倒になるだけだと思って。


「___だとしても、今どきそんな嘘信じる人がいるかっ!」


 …結局、もう一つの方のツッコミが我慢できなかった。

 しかし一方の拓馬は「嘘だったのか…?」と、なんとか分かってくれた様子。


「だったら、一口食べてみなよ?」


「分かった、そうしてみよう」


 思いのほか素直な拓馬の口に、気が変わらないうちに干瓢を突っ込む。それが初めての『あーん』だったことに彼は気付いておらず、私も気付いていなかった。彼に餌付けした手を「まったくもう」とおしぼりで拭こうとしたときにふと気付いて、ほんの少しだけ恥ずかしくなるのだった。

 そして彼もハッとしたように、言う。


「これはまさか…」


「まさか…?」


 彼もそのことに気付いたとしたら、なおさら恥ずかしい。そう思いつつ、それでも少しだけ期待しながら、彼が次に発する言葉に神経を集中させると…


「…これがまさに、干瓢(断腸)の思い、か!」


「ズコーっ!」


 …思いがけない言葉を放つ彼に、私も思わず古典ギャグのようなセリフが出てしまった。全く。少しでも期待した私が、悪かったですよーだ。私は不貞腐ふてくされながらそう思っていると、今度は彼の反撃らしい。


「なぁ帆希。確かお前、勘八かんぱち苦手だったよな?」


「ぎくっ」


 今度はおじいさんの腰のような声が出てしまう。私の父もよく、ぎっくり腰になってたっけ。って、そうじゃなくて。とりあえず、なんとか取り繕うしかない。


「実は勘八って、割り箸をうま~いこと柔らかくしてお刺身みたいにしてるんだって、凄いよね!」


「そんな嘘、信じるわけないだろう?」


 結局拓馬に正論を叩きつけられ自棄やけになった私は、レーンに流れていたカンパチを、あるだけ机に移して一気に平らげていった。


「おぉ…これが本当の『勘八(間髪)を入れず』に食べる、ってことなのか…」


「うるふぁい!」


 口の中に残る勘八たちが、噛んでも噛んでも踊り続けて上手く喋れない。この食感がどうしても好きになれないから、勘八は嫌いだ。それでも強がって「おいしいね!」と言うと、彼は少しだけ悔しそうな顔をして、「俺も大好きだから」と残りを二人で食べきったのだった。

 そんな拓馬を見ているとなぜだか、ひしゃげた声で元気に話をする彼のおじいさんを思い出された。そういえば、有名な文系の大学で教授をしていて『故事成語』について教えていたような気がする。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 彼女とそんなやりとりをしていると、いつだかの店員が戻って来た。改めて見てみるが、やはり冴えない店員という印象しか受けなかった。


「先ほどは申し訳ありませんでした。これ、天ぷらの代わりの品と言ってもなんですが、ウチで来月から出す新商品でして、ぜひ召し上がってみて下さい」


 そう言って、彼は何やら一貫だけ寿司を差し出した。皿に乗っていたのはなんと……河豚ふぐ茄子なすの寿司だった。それを見て俺は気付いてしまった。居ても立ってもいられず、早々と立ち去る店員に対して


「これはまさか!『わざわい転じて河豚(福)茄子(成る)』、ということなのか?!」


 と言い放った。振り返ると店員は何も言わなかった。しかし、確かにニヤッと笑ったような気がした。あの店員なら出来る、そう確信するには十分だった。

 一通り寿司を食べ終わると、俺は例の店員に一つだけお願いをして店を後にした。昼過ぎの強い日差しが、俺と帆希を照り付ける。

 店を出て向かうのはただ一つ、俺の祖父の墓。そういえば今日は、祖父の命日だった。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 拓馬とともに彼の祖父のお墓へ向かう、その足取りは重かった。おなかの中をまだ勘八が泳いでいるからだろうか、正直分からない。ただ多分、これはそういう物理的な話では無いのだろう。

 そういえば、今日はやたら『故事成語』と掛けたことを言っていた。それは、生前に大学で『故事成語』について教えていたおじいさんを思ってのことだろう。今日感じていた違和感の正体はそれだったのかもしれない。


「…」


「…」


 寿司屋で面倒なほど喋っていた彼が、店を出てからは何も言わない。聞こえるのは虚しく鳴くカラスの声のみだった。夕日に照らされる彼の顔はどこか緊張してるようで、私は何も言えなくなってしまった。


 そして、目的地にやってきた。二人で黙々とお墓の掃除をして、花を替え、線香をあげた。そうして手を合わせてるとき、最初に口を開いたのは拓馬だった。


「…じいちゃん、寿司好きだったよな。今日はな、じいちゃんに出しても恥ずかしくない、最高の寿司を持ってきたんだよ」


 そして彼はいつから持っていたのか、手に下げた紙袋からプラスチックケースに入った『稲荷寿司』を取り出した。「帆希も食べてみてくれ」と言われ、一つつまんで食べてみる。すると驚くことに、中の米には鱈子たらこが入っていた。


「じいちゃん、聞いて驚くなよ。この稲荷の中には鱈子が入っていてな、鱈の力を借りて更においしい稲荷寿司になってるんだ。つまり、これが本当の『(虎)の威を借る稲荷《(狐)》』って訳だ!」


 来る途中に深刻に考え過ぎていたせいか、彼の子供っぽい発想に思わず笑ってしまう。店を出る間際に冴えない店員と何か話していると思ったら、そういうことだったらしい。


「なぁ、帆希もそう思わないか?これを何とか形にして貰おうと、凄く大変だったんだからな…」


「いや拓馬が作ったわけでも無いのに、なんでそんな偉そうなのよ!」


 そう言ってバシバシと肩を叩くと、彼は少し困ったようにはにかんせみせた。その顔を見て、つられて私も笑ってしまう。ああ、やっぱり私はこんなやつのことが好きでたまらないらしい。こんな考えることがバカで、すぐに人の話を信じちゃって、そのくせ変なところで鋭くて、…でもやっぱり一緒にいて楽しくて。そんな拓馬のことが大好きなのである。

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