ポエム演説「物書き」
牛盛空蔵
ポエム演説「物書き」
今日もどこかのおじさんは、大股で演説台へと登った。
今日の論題は「物書きとは何であるか」……ではない。
どちらかというと「物書きは何でないか」といったほうが近い。
そのほうが演説しやすいのもあるからな。
例えば、王道の、あるいはテンプレに沿った物語に対して、読者の中にはこう批判する者がいる。
「物書きなら、既成の型にとらわれず、新しいものを書くべきだ」
一見もっともな意見だ。
……本当に?
つまるところ「物書きの書くものは革新的、革命的でなければならない」という意味に解せられる。
もちろん、ここでいう革命とは政治的なものではない。これは比喩表現であって、横文字でいいなら「イノベーション」と解するほうが、「レボリューション」と考えるよりは近いだろう。
ともあれ。
本当に、物書きはイノベーターでなければならないのか?
断じて違う。物書きは革新者ではなく、まして革命家でもない。
物書きの使命は、あくまでも面白い作品を書くこと。新しいか古いかは関係ない。
面白さを追求した結果、新しい表現方法が開花することはあるだろう。しかしそれは、極端にいえば「おまけ」にすぎない。
追求されるのはあくまで「面白さ」であって「新しさ」ではない。テンプレや王道で面白いものが書ければ、作者としてはそれでよく、読者の大半もそれで納得する。
テンプレで面白いものが出にくいかどうかは、この問題に関係がなく、また作者個々の適性や読者個々の感性にもよる。おまけに、議論に付するには根拠も乏しい。賛否両方において、ではあるが。
さらに掘り下げよう。
文芸の革新を志しつつ作品を書いた作者たちもいないではない。古くは言文一致運動を興した二葉亭四迷らがいるし、プロレタリア文学の小林多喜二も、まあ……革新を志したように思えなくもない。
だが、そういう物書きは、全体からみれば例外に属するものだ。基本や原則に置いてもよいような多数派というには、数が少なすぎる。
彼らをみて「やはり物書きは革新者でなければならない」と考えるのは暴論に過ぎる。
また、別に革新を志したわけではないが、書いていく過程で新しい表現方法を生み出した、生み出そうとした物書きもいる。特にきわめて近年のことだが、例はあえて挙げない。
一見、読者の要望に沿う「新しい表現」を世に出した彼らがどうなったか。
大きな批判を受けた。
「これはもはや小説ではない」
「これはラノベと呼ぶに値しない」
「日本の将来が心配だ」
手のひら返しだ。
結局、読者は「新しいものがいい」といいながら、実際は面白ければ手垢のついたものでもよい、むしろ新しい表現方法は受け付けたくない、と思っているのだろう。
それならそれでいい。面白いものが好きならそう言えばいい。
だが、実際には新しい表現方法を受け付けるつもりがないのに、新しさを追求しているかのような態度は、ただの方便とでも呼ぶべきものではないか?
というと、「そうではない、彼らは『新しくて、かつ面白いもの』を求めているのだ」という反論があるだろう。
ならば問うが、なぜ「新しくはない」古典の名作は読み続けられるのか?
古典の名作を否定するつもりはない。だが、ことさらに「新しさ」を期待するものではないだろう。熟成した料理に、素材の新鮮さを求めるようなもので、論理が破綻している。
温故知新? その新しさは「再発見による新しさ」であって、ここでいう純粋な新しさではない。
結局、新しさなど求めておらず、ただ面白いものを求めているだけだ。
それを「新しさを求めている」などと主張するからおかしなことになる。
新しくなどなくてもよい。せいぜい面白さを追求した結果のおまけでよい。それが真の需要なのだろう。
惑わされるな。新しさは真の需要ではない。
以上だ。
言うと、どこかのおじさんは静まり返った議場を後にした。
ポエム演説「物書き」 牛盛空蔵 @ngenzou
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