ペチュニアの陽だまり

不可逆性FIG

ペチュニアの陽だまり


 吐瀉物のにおいが風にのって私の鼻をついた。

 教室に入るなり、中学生最後の夏休み直前な終業式の朝の空気に浮ついていた私は思わず顔をしかめる。クラスメイトが遠巻きに眺めていたのは教室の後方……そこには照井さんがうずくまった姿勢のまま嘲笑の的にされていた。

 私は近くにいた女子に何があったのか訊くと「いつものイジメがエスカレートして、照井さんのお腹にパンチする動画を撮って笑い合っていた」とのこと。朝礼で担任が来るまでにはまだ時間がある……。でも、放おってはおけない。小さく深呼吸して、クラスメイトに暑いけど窓を全開にするように、そして掃除道具を持ってきてほしいと指示を出す。そして、粗暴で幼稚なイジメ主犯格の男子たちを睨みつけながら照井さんに優しく話しかける。

「大丈夫? 気付くのが遅くなってごめんなさい。ゆっくりでいいから喋れそう?」

「……あ、藤野、委員長。……ごめん、教室、汚しちゃった」

「気にしないで、照井さんは悪くないもの。みんなで掃除すればすぐに綺麗になるって! そしたら、すぐに保健室行こうね」

 貧乏くじでも引かされたかのような顔の別の男子たちからモップとチリトリとバケツを受け取り、私は手伝いに名乗りを上げた友達と一緒に吐瀉物を無心になって片付ける。途中、わざと聞こえるような声で「先生がいないと点数稼ぎにならないから、あとで委員長のこと報告しといてやろうぜ」と茶化されたけれど、グッと怒りを飲み込んで相手にはしない。

 誰かが窓を開けるとそよと風が吹いて、クーラーで冷やされた重たい空気が夏の青い熱気と混ざり合いながら反対側の引き戸へとすり抜けていく。あらかた片付け終わったあと、教室の後始末を友達に任せて私は照井さんを連れて保健室に向かうことにした。彼女が立ち上がると、夏服の白いシャツも、赤色の紐リボンも、紺色のスカートさえもが汚れていて、何が行なわれていたのか想像するのも恐ろしい。けれど、そんな目に合わされた照井さんはお腹を抑えながらも、悔しいとか、苦しいとか、恥ずかしいとかの表情もなく俯いた顔はひたすらに『無』だったことに私は背筋が少し寒くなってしまうのだった。


「藤野さんはそのまま教室に戻っていいわよ、ありがとうね」

 保険の先生に経緯を説明して、私は彼女のジャージを手渡してから教室に戻る。先生にこってり絞られたあとなのか、ふてくされた粗暴な男子が私を一瞥し、鼻をフンと鳴らしていた。

 それから、空席の照井さんを残して何事もなく全校集会や通知表の授与が惰性で終わり、ギラついた太陽は真上を通り過ぎただろう頃、私は先生に呼び止められてしまう。

「藤野さん、ちょっといいかな」

「はい、先生」

「照井さんね、先ほど早退したみたいでさ、この通知表や残った荷物なんかを届けてあげてくれない?」

 張り付いたような笑顔でそう提案する先生。嫌とは言えない雰囲気が優しさの奥から滲み出ている。そんな葛藤の中、先生はトドメの一言で私を追い込んでいくのだ。


「――藤野さんには先に伝えるけど照井さん、八月の頭に引っ越して転校するんだよ」


*****


 明くる日、七月の終わりは突き抜けるほどに果てしない真夏の青空が広がっていた。青、というよりは瑠璃色とでも表現したほうがいいくらいの透きとおった快晴である。

 そんな強い日差しの中、私は大荷物をリュックに詰めて汗ばんだ首筋を拭いながら、スマホの地図を片手に目的地までの街を横断しているのだった。

「この十字路の先を左に……あ、ここのアパートだ」

 結局のところ、先生に押し切られて私は照井さんの自宅まで配達をしている。彼女は自分の荷物や洗濯した制服などまるまる置きっ放しで早退してしまったのだ。そしてたぶん、そのままこの街を去るつもりだったのだろう。なにせ照井さんはお世辞にも社交的とは言えず、中学一年の冬に転入して来てからおよそ友達らしい友達と談笑している姿は見たことがない。とはいえ、話を振れば普通に答えてくれるし、笑顔も可愛い普通の女の子である。多少、オシャレに無頓着なところはあるけれど、それだってひとつの個性だ。なのに、どうして孤立しているかというと、彼女自身が周囲に壁を作っているからに他ならない。ハッキリと拒絶されたことは誰もがないが、何故だか彼女は孤独であろうとしている。誰も照井さんの心に触れた者はいない。――だから、そんな距離の感じる照井さんが異分子としてイジメの標的にされてしまうことに対して、心苦しいけれど理解できないわけではなかった。

「荷物を届けて挨拶して帰ろう……」

 きっと彼女もそれを望んでいるはずだから。そう思い込んで『照井』の表札がある103の扉でチャイムを鳴らした。

 ほどなくして、父親だろう男の声がインターホンから聞こえ、私はクラスメイトであることを名乗る。すると、扉が立ち並ぶ通路の奥からパタパタとサンダルの小走りする音と共に彼女が現れるのだった。

「あれー? 藤のんじゃん、どうしたの」

「藤のん!? え、ちょっと待って、照井さんってそんなキャラだっけ……!?」

 奥にある共有の中庭から照井さんが夏らしい白Tシャツと半ズボンで登場。というか、そんなことよりも私のこと何て呼んだ? 未だに驚いて思考が空転している。そんな私を置き去りに彼女は言葉を続ける。

「いやあ、学校でウチと仲良しにしてると藤のんも色々と都合が悪いと思って、委員長って呼んでたんだよ。それと、終業式の日はごめんね。ウチの汚いのを片付けてもらって」

「それは気にしないでいいよ。じゃなくて、照井さんって本当はそういうキャラなんだね……びっくりなんだけど」

「どうなんだろう、まあこれが自然体ってやつ、なのかも?」

 あはは、と笑って照井さんは自宅に招き入れるように先導するのだった。


 それから、私は冷房の効いた居間で麦茶を頂いて、持ってきた荷物――洗濯した制服、置きっぱなしの教科書、そして通知表などをまとめて手渡した。引っ越しするのは本当のようで、居間はがらんと広く隅にはダンボールが積まれていた。生活の痕跡は最低限の食器類だけで、なんとも居心地の悪さを感じてしまう。テレビも、スピーカーも、パソコンもなく、音のないシンと静かな部屋にやかましい蝉の鳴き声が遠くに響き渡っている。

「――別にもう要らなかったのに」

「そういうわけにもいかないでしょ。照井さんの私物なんだから、学校だって対応に困るって」

「きっと捨てるだけだろうし……てかさ、藤のんはウチのことキモいって思わないの?」

 彼女の背中越しに降りそそぐ眩い陽射しが窓の外を鮮やかに彩っている。私は学級委員長としてでなく、一人の人間としてその問いに向き合うべきだと感じた。嘘偽りのない本心を。

「もし、そう思ってたら今日ここには来てないよ」

「そっか……ありがとう」

 彼女は静かに微笑む。少し気恥ずかしくなって、同じタイミングで麦茶に口をつける。お互いの行動がなんだか無性に面白くて、つい笑い合ってしまう。――私は初めて照井さんの心に少しだけ近付けたような、そんな気がしていた。


*****


 最近の夏は容赦が無い。

 逃げ場のない真上からの陽射しと、アスファルトからの殺人的な照り返しで終点の改札を出た私たちは思わず顔をしかめてしまう。フェンスで仕切られた空き地に青々と茂る雑草、錆だらけで解読不能な駐車場の看板、ひび割れた道路の先から立ち昇る陽炎。「こっち」と手を引かれ、何を見せたいのかわからないまま、肌を刺す光も構わずに田舎道を歩いていく。

「藤のんにはウチの秘密の場所を教えたくなった」

 彼女はそう呟いて、ラフな格好から手早く外行きの服に着替えるなり、財布だけをポケットに突っ込んで私を再び夏の蒸し暑さの下へと連れ出したのだった。

 私たちの住む街はそれなりに栄えているとはいえ、電車に乗ってほど近い終着駅では絵に描いたような田舎がこんなにも広がっている。住所的には都会の一部なのに、本当はどうしようもないほど田舎なのだという切なさがこみ上げてしまう。

「ウチの父さんね、テンキン族っていうんだって。だから、同じ街に三年以上いたことなくてさ」

「お父さんだけ単身赴任するとか……」

「うーん。藤のん、それ無理。ウチんとこ、昔に母さん死んじゃったから父さんに着いていくしかなくてね」

「あ、ごめん……」

「気にしないで、もう慣れっこだし」

 駅から離れて、少し経つと景色はさらに緑が増えていく。眩しい青空を遮るように生い茂る木漏れ日をくぐり、アスファルトから石畳に舗装が変わっていくと、聞こえてくるのは蝉の声に混じる清流の涼しげな水音。どうやら一応は遊歩道になっているようだけど、自然がそのまま残された沢のある区域のようだ。照井さんはさらに奥へと進み、ずっと陽が差さないのだろう湿った道をずんずん歩いていく。

「――だから、いつも二年くらいで引っ越しちゃうからさ、またゼロから友達作るのキツいし面倒くさいって思っちゃうわけ」

「照井さんから、なんだか壁を感じてたのはそういうことだったのね」

「もっと上手く立ち回れてたら、楽しい学生時代もあったのかなあ……。なんて、無いものねだりだけど」

 彼女を先頭に秘密の場所を目指して歩いていくと、道すがら長い年月を経ただろうデコボコした幹の大きな木が無数の枝を張り巡らせて静かに佇んでいるのを見つけた。すると、照井さんは遊歩道を降り、順路とは外れた獣道のような茂みを掻き分け、一直線に進んでいく。視界は徐々に鬱蒼としてきて、夏の気配も不思議と遠のいてしまったかのような錯覚に陥りそうになる。どこまでも続く日陰の森で、虫たちのざわめきも息を潜めて、どこか近くを流れているのだろう沢の清流しか聞こえてこない。

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

「へーきへーき、もう少しでウチがこの街で望んだたったひとつの景色になるから」

「照井さんが望んだもの……?」

「そうだよ、良いとこなんだから」

 彼女が望んだもの。きっと良い思い出など無いであろうこの街で見つけた景色とは。

 獣道は緩やかな勾配になっており、運動が得意ではない私は少し息が上がってきていた。あんなにも儚げだった彼女の背中が、今では道標となっており頼もしく思えるのが不思議である。

「藤のん、着いたよ。ここがあなたに見せたかった場所なの」

 いつの間にか小高い丘を登りきっていたようで、あれだけ鬱蒼としていた森も視界が晴れて青空を見渡せる場所に到着していた。

「結構歩いたけど、ここに何があるって――」

 私はつい文句を言いそうになるけれど、眼前の景色に思わずハッと息を飲んでしまう。そこには偶然なのか木々がぽっかりと空いて陽だまりが落ちている静謐な空間に、埋め尽くさんとするほどの数え切れない青紫色の小さな花、花、花……。小ぶりながらも夏の生命力をそのまま吸い上げたかのように凛と咲く満開の姿に私は言葉を無くし、ただ見惚れてしまっていた。

 美しい、ただただ異郷のように美しかった。

 そして、この奇跡のような景色に感動している私を見て、自分のことのように微笑む照井さんも青に飾られた花畑に染まるように映えていたのだった。


「この子たちはね、ペチュニアっていうの。本当は園芸用だから植木鉢で育てる植物なんだけど、成長が早くて丈夫だから野生でも花を咲かせられるみたいでさ」

「どっかで見たことある気がするけど、こんなにも綺麗に咲いてるのは初めて見たよ!」

「秘密の場所、藤のんが気に入ってくれて良かった……」

 私たちは青に染まる陽だまりを眺めながら木陰に腰を下ろし、気持ちの良い風に吹かれながら休憩をしていた。まるでここが世界から切り離されたかのように静かで、過去も未来も今だけは関係のない二人だけの特別な白昼夢――言い換えれば、小規模な聖域のように思えたのだった。

「ねえ、藤のん」

「どうしたの?」

「今日、いきなり誘ったのに付き合ってくれてありがとう。そして、ごめん」

「え、何、急に」

 照井さんはそよ風と共に揺れる葉擦れの音を聞きながら、どうしてこの場所に私を誘ったのか、その意味をゆっくりとひとつひとつ言葉にしながら紡いでいく。

「本当はね、藤のんは委員長っていう役を演じているその他大勢にしか見えてなかったの。だってほら、面倒事を率先してするとき必ず先生の姿を最初に探してるでしょ。あれ、みんなにバレてるからね、あはは。――だから、ウチを助けるときも点数稼ぎなんだって割り切ってたの。前の学校のときもそういう子は居たからさ。でも、藤のんは違った。先生に押し付けられただけかもしれないけれど、捨ててしまいたかった制服を洗濯して持って帰って、そして届けてくれた。ウチのこと気持ち悪くないって本心から言ってくれたこと嬉しかったよ。たぶん、この街に来て今日が一番の良い日になったと思う」

「そんな、私は……」

「ううん、いいの。これはウチが勝手に思ってることだから気にしないで。――そう、だからこそ、ウチは謝りたいの。藤のんにはたくさんの優しさを貰ったのに、それなのに……ウチからは藤のんに呪いしか渡せるものがない。それが初めて悔しいし、苦しくて、とにかく謝りたくて、こんな場所に案内するしか許してもらう方法がわからなくて……」

 それはまるで祈りにも似た長い――長い独白だった。照井さんの声に次第に涙が混じっていくのがわかって、私も喉が涙で灼けてしまいそうになる。彼女が一番苦しいはずなのに、こんなにも他人を思いやることができる優しい心を持っている……私はこの瞬間こんなにも、この世界を、神様を恨んだことはないだろう。照井さんは普通のか弱い女の子なのだ、なのにどうして運命が彼女の未来を阻んでいくのか。

「ありがとう、照井さん。でも、私は何か償ってもらうようなことは何もしてないわ、そう何も。それに呪いってなんのこと?」

 彼女はすっと顔を伏せた。少しの間、逡巡してから意を決したかのように、ぼたぼたと言葉を地面に落としていく。太陽はもうすでに夕暮れに差し掛かっており、私たちに濃い影を落としていた。

「きっとあいつらはウチが転校したあと、藤のんを標的にすると思う。今までのことから、なんとなくわかっちゃうんだ、あの空気感……」

「ああ、そっか、それが呪いの正体か」

「どの街でも、どの学校でも、人間は変わらないの。奪って奪われて、誰もが小さな水槽の中で飼育されていることを忘れさせられている。教室は、そういうふうに出来ているの」

「照井さんは私が思うよりずっと頭が良いのね」

 彼女は何か思い立ったようにスッと立ち上がる。斜めに差し込むオレンジの光が彼女の姿を鮮明に映し出す。

「ウチはね、ずっと強い心を持ちたいって望んでた。何物にも汚されない強い心、それがたったひとつの望みだった。孤独でいれば、強くなれると思ってたの。――でも、強くはなれなかった」

 凛と咲く青いペチュニアの群生が彼女の足元から広がっている。私は彼女の言葉を肯定も否定もせず、ただ続きを聞くために黙していた。

「ウチは今日それに気付いたんだと思う。孤独は何も変えられない。きっと私は本当に強くなりたかったわけじゃないの。本当の望みはただ誰かにわかってほしかった、救われたかったんだ。藤のん、ありがとう」

「気付くのが遅くなってごめんなさい、照井さん。もっと早くこうして話せればよかったね」

 穏やかな心で私たちは阿呆みたいに泣きながら笑い合った。不思議と暖かい感情が心に広がって、世界が少しだけ許せるような、そんな気がした。


*****


 夕焼けに染まる夏空を背に、私たちは秘密の聖域を抜け出て、もと来た電車に飛び乗り、終点から最寄りの街に戻ってきた。やはりアスファルトの上は暑い。緑がないだけでこんなにも違うのかと辟易してしまうほどだ。

 帰り道、堰を切ったように会話が止まらなかった。この一日だけで今までの二年間を帳消しにするくらいの関係性を築けたように私は思う。

「じゃあ、私の家はこっちだから……」

「ここでバイバイだね。なんか寂しいなあ」

「また遊ぼうよ。連絡先も交換したし、いつでも会えるって」

「うん、そうだね。きっと大丈夫だよね、ウチらなら」

 照井さんはくしゃっとした笑顔で涙を堪えながら、それ以上は言わなかった。そう、きっと私たちなら大丈夫。それぞれの街で強く生きるのだ。呪いがどうした。そんなもの怖くないぞ。私たちにこれからも降り掛かってこようものなら、全て返り討ちにしてやる。委員長なんていう良い子のレッテルなんか引き裂いてやるくらいの覚悟が私にはある。

 そうだ、二学期の初日は髪を染めてみようか。そしたら、面白いことになりそうだ。

「ねえ、藤のん」

「なあに」

「あの、やっぱなんでもない」

「何よ、はっきり言ってよ」

 サヨナラが言い出せないのか、もにょもにょと煮え切らない態度の照井さん。少ししてやけくそになったかのように、けれど今までよりも芯のある声で私にこう問いかけるのだった。これが、私と照井さんの初めての、けれど当たり前の気持ちの確認でもあった。

「あの、藤のんさ。ウチと友達になってよ」

 そんなこと言うもんだから、ついフッと笑ってしまうのだった。答えなんかとうに決まっている。そんな彼女なりの精一杯の勇気に私は、強がってこんなクサい台詞を言ってしまうのだった。

「いいよ。というか、私たちもうとっくに友達じゃない!」


 夏はこれからが本番だ。八月になったら、照井さんは違う街に行ってしまう。けれど、何度でも言おう。私たちなら大丈夫。固く握手を交わして、それぞれの帰路を行く。

 オレンジの夕焼けがやけに眩しい。私は目元を強く拭って、もう泣かないのだと強く思う。強くあろうとした彼女の心に、私というちっぽけな安らぎを与えることができたという誇りが明日からの私を大きく変えるだろう。美しくも儚い、白昼夢のようなペチュニアの陽だまりという思い出と共に、これからも。


〈了〉

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