終章:夢の味
「と、いうわけなのですよ――」
給仕係がそう言うと、席上の悪魔たちは呆気にとられたようにテーブルの上の『欲望』を眺めていた。
若い悪魔の一人がしばらくして、ようやく口を開いた。「使える力があるのに使わないなんて、愚かな女だわ。一体何のためにあなたと契約したのかしらね」
するともう一人の若い悪魔もそれに同調するように言った。
「しかし俺たちとしては、むしろその女が馬鹿で助かったんじゃないか。世界平和。そんなものを実現するのは、俺たち悪魔じゃなく、天使か神の役回りじゃないか」
「確かにそうだな」と主催者の悪魔は言った。「しかし、見ようによってはこうも見えるかもしれんぞ。彼女はそもそも、世界平和など望んでいなかった。世界平和を望んでいるふりをして、世界に憎しみと分断を広げたかったのだ、と」
「そんな風には聞こえませんでしたがね」と若い悪魔の一人が言った。
「視野を広く持つのだ。世界平和の実現などと言う本来神の役回りを、どうして彼女が悪魔に望んだのか、だよ。それは結局、実現されることを望んでいなかったからではないかね? もし彼女と給仕の契約によって、その実現が悪魔の領分になってしまったとしたら、神としては、それを全力で阻止するしかない――」
「でも、だとしたらとんでもない策士ね。悪魔に神の役回りをさせて、神に悪魔の役回りをさせるなんて。悪魔が人類を救って、神がそれを阻止するように仕向けるなんて。言っちゃ悪いなんて思わないけど、死んでくれてよかった」
「しかしそれが目的なら」と給仕係が言った。「はっきり言うべきでしたね。『世界を平和にしてください』と」
「給仕よ――」主催者が言った。「お前はどう思う?」
「はい」と給仕係はお辞儀をして言った。「私としては、彼女はむしろ神に対する信仰が篤かったのではないかと思うのです。同時に彼女はおそらく、神に対して、不信感や、あるいは恨みのようなものを抱いてきた。その実在を疑うのではなしに。ですから彼女は、神を挑発し、試そうとしたのではないかと――」
「おいおい、それは悪い奴じゃないか?」若い悪魔が言う。「神を試すなんて、悪魔みたいな女だな」
「おそらく彼女は」と給仕係は無視して続ける。「神の不在に対して、悪魔をけしかけようとしたのだと思います。少なくとも悪魔は人間に直接働きかけ、手の触れられる存在ですからね。そしてもし悪魔が神の領域を犯そうとしたら、神は一体どんな手段を取るのか、見てみたいと思ったのでしょう。今でも争いはなくならず、世界平和が遠い夢物語でしかない。そんな現状を神は果たしてよしとされたのか。よしとされたのなら、一体どんな理由があってのことなのか。もし神が全力で平和を阻止するなら、その理由がわかる。もし神が悪魔と和解し手を差し伸べるのなら、神の善性が証明されることになる」
「ところが神は沈黙を破らなかった」と主催者は言った。「いや、夢見る少女というのは強欲なものだな。神に対して策略を働こうとは」
「でも、その神っていうのも」と若い悪魔の一人が言った。「一言ぐらい答えてやればよかったのに。まったく、悪魔みたいな奴ね」
若い悪魔たち二人は声を上げて笑った。
「給仕よ――」主催者が言った。「ところでお前は、どう思う? 神は本当に彼女の願いが成就することを、望まなかったのかな?」
「私が見た限りでは」と給仕係が答える。「といっても、私は彼女の欲望を叶えようとはしませんでしたから、確かなことは言えませんが、彼女のことを邪魔しようと、天使や神が介入した形跡はありません。彼女が本気でそれを実現しようとして、天使や神が妨害するとは思えませんでした。彼女の理論はしかも、彼女の死から数年後、見る見るうちに世界から争いを減らし始めたのですよ。もちろん争いはゼロにはなりませんが、調和的な自己利益の追求と言うテーゼは、争いに疲れた強欲な人類には、思いのほか飛びつくに都合の良い理論だったようなのです。ともかく、彼女の夢は叶いつつあります。もし神がそれを望まないのであれば、どこかで私は彼らの気配を感じ取ったに違いありません」
「給仕よ――」主催者が言った。「なんということだ。神はよしとされただの、神がそれを望まないのであればだの、言葉の端々が今日はずいぶん敬虔ではないか」
「私は論理的な話をしたまでです」と給仕係は眉をひそめていった。「自分の口から出た言葉とはいえ、おぞましい限りです」
「それより早く、『欲望』を味わってみたいもんだわ」と若い悪魔が不満そうに言った。「それにしても、見れば見るほど、天使のための飲み物みたい。ほら、こうやって光にかざすと」若い悪魔はグラスを持ち上げ、電飾の光に向けた。「見てよ、このグラスの上。天使の輪みたい。こんなの、本当に私たちが飲んで大丈夫なんでしょうね」
「嫌ならやめてもいいんだぜ」ともう一人の若い悪魔が言う。「飲んだら、光に包まれて『元の姿』に戻っちゃうかもな」
「本当にそうなるかもしれんぞ」と主催者は低い声を出した。若い二人ははっとしてグラスを置いた。「若い者はせっかちでいかんな。ところで給仕よ、この液体は私が一人で頂こうと思うんだが――」
「仰せのままに」と給仕係はお辞儀をした。急な主催者の提案に若い悪魔二人は口々に不満を漏らしたが、重たく放たれた「地獄へ落とすぞ」の一言に、黙らざるを得なかった。
「いや、まさに天国的液体と言うべきだな。この香り、この輝き――」主催者はグラスを揺らし、うっとりとした顔をしながら、目の前まで持ち上げた。そして一杯目を飲み干し、二杯目を飲み干し、三杯目もあっという間にすべて飲み干してしまった。「うむ、確かにこれは『欲望』というより、むしろ『夢』の味だ。甘美と言うよりは甘ったるく、舌にとろけるというよりは舌を蕩かし誑かそうとする味だ。わずかに酸味があるが、それもあくまでアクセントで、後味として残ることはない。まあ、言ってみれば想像力の貧弱な、深みのない、子どもじみた味だよ。しかしたまにはこういうものも悪くはない。人間たちが時折、安っぽいカクテルを無性に飲みたくなるのもわかる気がするよ」
主催者は立ち上がり、給仕係の肩に手を載せて言った。
「今夜はご苦労様。珍しいものを飲ませてもらったよ。今度これが飲めるのは、一体何百年後になるものかな。いや、楽しい夜だった。ところで――」
主催者は給仕係の耳元に、付け加えるようにこう囁いた。
「神の真似事も、なかなか楽しかったらしいな。しかし君も彼女も甘すぎたようだよ。――それでは皆さん、良い夢を。おやすみなさい」
主催者は広い肩をいからせながら大股で店を出た。その時給仕係はその頭に、白金に輝く輪がちらついたのを、一瞬見たような気がした。
欲望レストラン 原作:@SO3H様 匿名の匿 @tokumeinotoku
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