第五章:少女

 少女は十四歳の頃、母親を奪われた。母親は村の若い男たちにレイプされ、村のはずれの川に捨てられた。すでに顔もわからないぐらい腐敗した遺体となって、母は彼女の元に帰ってきた。村の男たちは誰からも咎められなかった。母は美しかったが、すでに四十を超えていた。四十を超えた女は人間ではないと、その村では暗黙の了解ができていた。


 少女が十五歳の頃、父が失踪し、弟が死んだ。少女は身体を売ることでなんとか食べるものを得ていたが、弟の食べる分まで調達することはできなかった。少女は自分が食べなければと思ったが、そうして弟に食べ物を分け与えると、嬉しそうに口に運ぶ弟を見て、喜びよりも憎しみが勝った。殺してやりたいと思った。そうすると少女は怖くなって、弟に食べ物を分けることができなくなった。


 お腹すいた、と言いながら弟は少女の前でこと切れていた。


 少女はもともと本が好きで、図書館通いを続けていた。紛争の絶えない地域ではあったが、ある学者の家庭が、自らの蔵書をすべて開放した地下図書館を作ったのだった。その学者が亡くなってからもその図書館は全村民に解放され、訪れた人々の寄付により、蔵書は毎年充実していった。少女は次第に本を読むことが困難になっていったが、それでもなんとか、時間を見つけては図書館に通い、何冊か借りてくることをやめなかった。


 ある時少女は彼女の本に出会った。表紙を見て、少女はこれは自分のための本だと確信した。少女の疲れ切った頭に飛び込んできたのは「争いなき世界」という一つの単語に過ぎなかった。しかし少女は自分にとってそれが何より待ち望んでいたものだと思った。著者は若い女性で、だからきっと、私にもわかる言葉で書かれているに違いないと思った。難しい本の中には、意味がはっきりとはわからなくても、感覚的にわかるものがあると、少女は知っていた。それを期待して読み始めた。しかし――


 少女にとってそれはあまりにも上滑りした空理空論としか思えなかった。自己利益を追求すれば世界は平和になる。だとしたら、男たちが少女の母親を殺したのは、自己利益に基づいた行動ではなかったのか? あれは単に欲望を満たすため以外の、一体何であったというのか? 自己利益と自己利益が衝突する世界に生きる少女にとって、それが抑制になるなどとはまるで思えなかったし、彼女の母親を殺した論理が崇められるというのは、冒瀆的にすら思われた。その上、少女は彼女の上げる実例の中に、突然激しい痛みを感じたのだった。少女は母親に何度も「あなたの父親は、本当はお父さんじゃない」と聞かされていた。「実は、あなたのお父さんは、私とお父さんが結婚する前に、ここに来ていた一人の若い、外国の男性なの」


 母親の語った話の細部が次第に少女の記憶によみがえってきた。それが鮮明になればなるほど、彼女の本にある紛争地域の報告の記述がそれに一致していることがわかった。ここに書かれているのは私の村の話ではないか。そしてこの共同研究者というのは、私の父のことなのでは。


 なるほど、自己利益というのも立派なものだ、と少女は思った。


 * * *


 十何年も昔、ある村にやってきた二人の紛争研究者は、その村のことを観察し、続いていた紛争を止めようと必死に働きました。二つの村の争いは激しく、毎日誰かが殺されていました。二人はそこに新たな技術を持ち込み、二つの村の人たちが相互に繋がれる手段をもたらしました。それから二人は満足して、安全な祖国に帰っていきました。彼らが安穏とした生活を送る間、その村では新しい命が誕生し、彼らとは全く違った、過酷な人生を送ることになりました。村と村を結んだ技術は、時間を経るとともに村の人々に険しい疑心暗鬼を生む原因となり、人々は隣人すらも信用できなくなったのです。村と村ばかりではなく、隣人と隣人が血で血を洗う有様になりました。赤ん坊はそんな世界でなんとか必死で生き抜いてきました。それから十何年の後、紛争研究者の一人は本を出しました。その本の中で彼女は、自分が解決した紛争の一例として、村のことを挙げていました。今や立派に大人になった赤ん坊は、その本を読み、激しい憎しみをその研究者に抱きました。できもしないことをできると言い、しなくてもいいおせっかいをして事態を悪化させ、それでお金まで儲けているその研究者のことを、少女は悪魔だと考えているのでした――


 * * *


 少女のナイフは彼女の薄い胸を貫通し、心臓をしっかりととらえていた。血が溢れ出し、彼女は息をするのもやっとだった。彼女の意識は次第に薄れ始めていた。

「私の力を借りないのか。貴様の夢が叶うまで見ていろと言うのが、私たちの契約のはずだぞ。このままではその夢は永遠に叶わなくなるだろう。私の力を借りるんだ。私にもっと時間をくれと、今ここで、強く願えば叶うのだぞ」

「見ているだけでいいと言ったでしょう。それ以外は、何もいらないと」

「しかし」


 遠くから静かな、ゆったりと繰り返す音が、車のエンジン音に混ざって聞こえてきた。彼女は言った。「これでいい。何もかもこれでいい。貴女が傍にいてくれたおかげで、私は最後まで、自分の意志に忠実にできた。身の丈に合わない奇跡なんて、一度も信じずにやってこれた――」

 彼女はもう一度「これでいい」と頷いて息絶えた。トラックの荷台に容赦なく、波の音が押し入ってきて、その中を満たした。


「海か――」悪魔がつぶやいた。荷台を覆う緑のシートの隙間から、朝陽が見えた。朝陽は海へとプラチナブロンドの光を垂らしながら、いつまでもそこに静止しているようだった。

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