第四章:理論

 彼女にとって決定的な出来事となった破局から五年後、突然一つの本が自費出版された。


 その内容ははじめ荒唐無稽と取られた。誰も気にはかけなかった。研究者からは黙殺された。何人かの文芸評論家が「空理空論とはいえ、読んでおくべき本だろう」と紹介したが、それがますます色物だという印象を強めてしまった。しかしふとその本を図書館で手に取った若い政治学者の卵が、これはとてつもない本じゃないかと直観した。学生はその本を細かく分析し、教授に紹介した。するとその教授も「ちょっと読ませてくれ」と言い、綿密なノートを取りながら精読した。


「書かれてる内容は実に古典的な理論で、ある意味理論以前と言っていい」と教授は学会の小冊子に書評を載せた。「しかしそれが豊富な実例や、著者自身の体験と共に具体的に検討されていることが、一線を画する。紛争解決学を実効性のある学問にしたいと考えるなら、一度は目を通しておくべき一冊であろう」


 その書評が小さな話題になり、その本の名は少しずつ広まっていった。大手出版社から版権買取の話が舞い込み、その本は全国の大型書店で手に取れるものへとなっていった。


『国際紛争における「欲望」と「自己利益」の実相――争いなき世界を実現するための試論』というのが、その本の名前だった。著者はもちろん彼女である。


 彼女はその本の中で「徹底した自己利益の保守こそが、人間同士の争いを回避することに役立つ」と述べていた。「なぜなら自己利益を保守しようとすれば、そのために必要になるのは他者によってもたらされる利益の保守であり、究極的には他者の保守であるからだ。これを徹底していけば、争いは常に自己利益を損なうものであることが了解される」


「そのために自己利益の範囲をことが必要である。我々はを、ではなくてはならず、なぜならばそれは、からだ。どのような形であれ、自己利益の追求に邁進するということは、ということである。もしその範囲を逸脱するのであれば、それはのである」


 それは危険な書物だった。書かれていることがアジテーションめいているからではなく、そのアジテーションが具体的な実例によって、説得力あるものとして書かれていたからである。読んでいてスカっとする記述も多く、ある映画監督が「最近読んで面白かった本」として紹介した後には、一気にベストセラーにまでなった。だがそうなればますます彼女は危険視された。彼女の国の政治家はそのなかの記述を論い、「彼女を政治犯として逮捕すべきだと思う」と公言した。「ここで彼女は我々の祖父たちが戦った戦争を貶め、我々の独立を貶め、今我々が享受している自由と繁栄の価値までも貶めている。彼女はそのような行為を自己利益の追求に基づかないからといって、貶めているのだ。つまり、彼女はすべての人間が兵役を拒否し、その命を自分のためだけに使うのが正しいと言っているのだ。そうすればどんな軟弱な国家であっても、必然的に他国との協力を通じて経済活動に邁進し、侵略のメリットを減じられるというのだよ。こんな空理空論で国が守れるかね? では、我々は軍隊を解体すべきなのか? 丸腰で相手の善意にすべてを委ねるのが、もっとも正しい姿勢だとでも言うのか?」


 やがて反動がやってきた。彼女は許し難い暴挙を犯したとされ、祖国での彼女の居場所は失われ、彼女は諸国を放浪する身となった。彼女は政治犯として国際指名手配され、落ち着いて眠ることもできなくなっていた。居場所を勘づかれ、周囲に警察の影がちらつくと、彼女は夜を徹して国境を超えた。その間に命の危機に瀕したことも何度もあった。その度に悪魔は手を貸そうかと彼女を誘ったが、彼女は「見てるだけでいい」と言った。少女だったころとその口調は変わっていなかった。しかしその声はひどくひび割れ、聞き苦しいものになっていた。


 ある時彼女は難民を乗せ密入国を手助けするトラックの荷台で、ある少女と二人きりになった。黒い髪をした、垢じみた肌の、暗い瞳を持つ十六歳ぐらいの少女だった。少女は明度を最小まで落としたライトの薄赤い光に顔を寄せながら、「私、あなたのこと、知っているような気がする」と言った。少女の脳裏に浮かんだのは、少女がかつて住んでいた村の図書館の一角で、ある本を見つけた時の記憶だった。その本の折り返しに載っていた、まだ今より五つ若かった彼女の写真――それは、少女の目の前にいる女性と、何一つ違うところがなかった。彼女は二十代前半に急激に老け込んで以来、殆ど見た目には年を取っていなかった。彼女はまだ三十九だが、とうに五十を過ぎているような容貌をしていた。


 急に少女はライトを放り投げ、「殺してやる」と言った。そしてナイフを取り出すと、彼女に向ってその刃先を突き立てた。

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