第三章:愛
少女の夢に終わりはなかった。そもそもこんな途方のない夢、簡単に叶うはずがなかった。利害のあるところ、常に争いがある。そしてその争いが完全に止んだことは、人類の歴史上一度としてないのだ。ほんのわずかな小休止は、必ず次の争いにとってかわられる。そしてそれはしばしば破滅的な規模になる。少女は人類の歴史を学びながら、その本質は戦争にあるのではないかという学説があることを知った。発展には必ずそれに先立つ破壊がある、ということを説いている学者もいた。しかし少女は諦めなかった。高校に上がると政治学の本を次々に読み、大学に潜ってはノートを取った。大学では本を読むだけではできないことをやろうと決め、紛争解決学を専攻にして世界の紛争地に飛んだ。そのたびに現実に打ちのめされながら、彼女は着実に自らの理論を築き上げていった。その間悪魔はずっと少女の傍らにいた。
「私の力があれば、すべての人間から争いを好む気持ちを取り除くこともできるのだぞ」と悪魔は囁くこともあった。しかし少女は悪魔を厳しくにらみつけ、蠅でも追い払うような身振りをしながら言った。
「見てるだけでいい、って何度も言ってるでしょ。もし貴女の力を借りて平和を実現したって、そんな平和は束の間のものだわ。それに争いは好まなくたって生まれてくる。中途半端に争いを取り除いたって、なんの解決にもならないのよ。また別の、もっとどうしようもない争いが、きっと地球上に蔓延することになる。誰も悪くないのに、誰もがそうせざるを得ないような争いがね」
少女は二十五歳を超える頃にはすっかり老け込んでしまっていた。はじめの頃は紛争解決学の女神と呼ばれたこともあった美貌が、見る見るうちに枯れ果てていくのを周りの男子学生たちは嘆いた。それでも彼女は一人の学生と恋に落ちた。紛争地で眠れぬ夜を過ごし、お互いの研究テーマについて激論を交わしあった相手だった。二人の距離は知らず知らず縮まり、その存在は互いにかけがえのないものになっていた。少女はその時初めて愛を知った。人間が人間に対して抱く愛が、こんなにも美しく幸せなものかとわかった。しかし彼女は頭の中では常に冷静だった。悪魔が「では、その愛を利用すればいいのではないかね」と囁くと、「それは無理」ときっぱり言った。「こんなもの、人類の平和にはまったく役に立たないわ。一人が強く愛する時、そこにはもう憎しみの影が宿る。それに、成就された愛は幸福をもたらすけど、破滅した愛は憎悪をもたらす。昔はたった一つの愛が、国を巻き込む戦争の原因にもなったものだわ。それにそもそも、貴女の管轄じゃないでしょう、『愛』は――」
彼女の愛は程なくして破局を迎えた。男子学生は博士課程を終え研究者となり、助成金獲得のために様々な会合に顔を出すようになった。「そのうち縛られて動けなくなるよ」と彼女は忠告したが、「とにかく今は軌道に乗せないと」と彼は言い、企業の研究プロジェクトなどにも顔を出すようになっていった。彼女は彼の書いた論文を読んで、泣きながら激怒した。「あなたの志はどこへ行ったの? これは全部、企業に都合のいいことばかりじゃない。あなたは本当に紛争を止めたいの? それとも企業の駒になって、それらしいことをふれまわって一生を棒に振るの?」「残念だけどね」と彼は声を震わせながら言った。「人生は短い。僕たちが生きている間に、できることをしようと思ったら、君みたいに夢物語を掲げて、形にならない研究を続けるわけにはいかないんだ。そもそも僕が生きている間に、争いがなくなることなんてあるんだろうか? だったら、少しでも今起きている争いを、減らすことに全力を注ぐべきなんじゃないかな」
「そうやって、脅かされているものはずっと脅かされ、殺される側は常に殺され続け、不当な争いが弱いものを嬲り者にしていくのを、あなたは仕方ないの一言で片づけるのね」
「いい加減にしろ」と彼は怒鳴った。「君のやり方はまだ一人も救っていない。でも僕のやり方なら、一人は救うことができるんだ」
「立派なものね。その一人が独裁者であっても、救ったことには違いないものね」
彼は研究室を出ていった。彼女が部屋に帰ると、彼の荷物はなくなっていた。翌日から彼は彼女と目も合わさなくなった。彼女は自室で研究をする時間が長くなった。連日徹夜をして、そのせいで目が腫れているのか、それとも夜通し泣き腫らしていたのか、周りの研究者には区別がつかなかった。
その間、悪魔はずっと彼女の傍らにいた。
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