第二章:願い

「私が夢を叶えるまで、貴女は見てて」


 少女は自ら魔方陣を描き、悪魔を呼び出した。給仕係の悪魔は人の世界に現れる時には実に禍々しい姿になる。だがその姿を見ても、少女は全く動じなかった。悪魔は少女の厳しい、揺らぐことのないまなざしを見て、これは面白い人間に当たったものだ、と思った。


「あなたの仰せのままに。しかし、『夢』というのは少し奇妙ですね。私たちが叶えるのはあなたの欲望です。『夢』を叶えたいのであれば、私たちではなく天使を呼び出せばよかったのです」


「天使は何も叶えてくれないでしょう」と少女は言った。「天使が求めてるのは、願うことだけ、信じることだけ、祈ることだけ。悪魔との間には契約があるけれど、天使たちは、そして神たちは、いつも一方的に信じて願うよう要求するばかり。どんなに強く願ったところで、叶うかどうかはすべて彼らの気分次第。ばかりかその信仰を試すため、散々に人間を痛めつけずにはいられない。あんなの信仰の搾取だわ。願いが叶うと信じさせて、私たちを従わせようとしてるだけ――」


 悪魔はますます面白いと思った。最近では聖書もろくに読まず、いい加減な知識で悪魔を呼び出す輩が増えていると聞く。しかしこの少女は、ともかく聖書に目を通した上で、自らの解釈で天使や神に反発し、極めて論理的に悪魔の召還を選び取ったのだ。これは滅多にない「欲望」が期待できそうだ。


 少女は白いネグリジェを纏い、レースのカーテンに四方を覆われたベッドの上に腰かけていた。彼女の絹糸のようなプラチナブロンドは、枕に押し当てられたように、不自然にへこんでもいたが、それでも窓からの陽光を浴びて宝石のように輝きを放ち、風を受ければ艶やかに膨らんで腰の辺りまで波を打った。その間から覗く緑色の目と、雪のように白い肌。金色の細い眉が眉間から斜めに二本、鋭い直線を描き、それが少女の意志の強さを思わせた。唇は豊かで、血の色を思わせる赤が、しかし決して人工的な鮮やかさではなく、生きた人間の瑞々しさで脈打っていた。なめらかな頬に人形のような手を押し当てながら、少女は悪魔のことを品定めするように見つめていた。


 部屋はとても広く、窓からは海が見えた。海の音が部屋の中にまで入り込み、壁に反響して、家具の間を静かに揺れていた。


「呼び出されるだけで、何も悪魔らしいことをしないのね」と少女は言った。悪魔は決まりが悪そうに頭をかきながら、約束の口上を口にした。


「では、貴様に問う。貴様が魂をかけてまで叶えたい願いとは、何だ」


 窓から海の音が遠のき、空は曇り、雷鳴がとどろき始める。


「言ったでしょう――私は、貴女に私の夢が叶うまで、傍らにいて見守っていて欲しいだけ」

「それが『願い』なのか?」

「そう、それが私の願い」

「そのために私は、貴様の歩む道の露払いをすればいい、ということだな」

「違う。そうじゃないの」と少女は悪魔をきっと睨む。「私がして欲しいのは、ただそばで見ててもらうこと。それ以外は、何もいらない」


「しかしそれでは」と悪魔が困惑する。雷鳴が静かになり、雲が晴れ始めている。「何のために私を呼び出したのだ」

「それはいずれわかるわ」と少女は言った。「いい、余計な手助けをしたら、契約は破棄するから」


 部屋にはすっかり海の音が戻ってきていた。ゆりかごのように一定のリズムで繰り返す、穏やかで落ち着いた音。


「わかった。しかし、貴様のその『夢』とは、一体何のことなのだ」

「それはね」と少女は疲れたような笑みを浮かべた。悪魔にはその瞬間、少女が二十も年を取ったように見えた。「世界平和よ」


 悪魔はその言葉に呆気にとられた。悪魔の名誉すら傷つけかねない願いだと思った。しかし、願いを聞いた以上、契約は完了した。今更後戻りすることはもうできなかった。


 それでも悪魔は思った。これは面白い人間に当たったものだ、と。

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