第10話
「いいいひひひ……来るな……来るなよ」
ブロック塀に背中を押し当てたまま、川和田があえいだ。
「あなた、もう諦めて」
川和田の正面で立ち止まった裕美はそう告げると、ゆったりとした仕草で自分の夫に抱きついた。
「おれは行かない……おれは供物じゃない」
訴えながら、川和田は裕美を突き放そうとした。しかし裕美は巨漢に組みついたまま離れず、そればかりか、ほかの者どもがその二人を取り囲み、押しやった。
「わたしは今でもあなたを愛している」裕美は言った。「でもね、わたしを裏切ったことは、どうしても許せない」
「そうだ、この男を許すな」
群れの中の男が言った。
「許さない」
群れの中の女が言った。
「おれたちとともに、神の使いに食われるんだ」
群れの中の誰かが言った。
「わたしもお父さんを許さないよ」
おそらく川和田の娘だろう。しかし誰がその娘なのか、見極められない。
川和田を取り囲んだ群れが押し合いへし合い、やがて粘性の液があふれ出し、黒ずんでいった。
「裕美、おれも連れていってくれ」
徹は訴えながらどうにか立ち上がると、生ける屍たちに正面を向けた。
彼らはすでに人の姿をしていなかった。皆が液状となって融合し、波打つ漆黒の巨軀へと変わり果てている。
漆黒の巨軀が人の背丈を超すほどに伸び上がった。その先端に頭部とおぼしき横長の楕円体が生成される。目や鼻、耳は見当たらないが、大きく裂けた口とその周囲に板状の歯が何列にも並んでいた。先ほどの化け物に相違ない。
化け物の胴体の中程から一本の巨大な腕が伸びていた。その先端――無数の指が、川和田を両腕ごと鷲づかみにした。
「またかよ!」再度の拘束を受け、川和田は叫んだ。「おれは供物ではないんだ。離してくれ。おれは指図されて動いていただけなんだよ。全部、そこにいる女……かなえの指図でやったことなんだ。神の供物にするんなら、その女にしてくれ」
川和田はなすすべもなく、唯一自由に動かせる首を、激しく横に振った。
「横丁のみんなをだました女なんて、神様に捧げられるはずがないわ」
化け物が裕美の声で告げた。とはいえ、その巨大な口は開いたままである。
「神様が許してくれたのは、行き場を失った供物たちを神様の使いが食らってもいい、ということよ。あなたもわたしも……鈴菜もほかのみんなも……誰も帰されたわけじゃないの。だから、あなたも一緒よ」
巨大な漆黒の腕が上がった。
川和田の頭部が怪物の口の中へと押し込まれる。
「やめてくれ!」
それが川和田の最期の言葉だった。
かみ切られた首の断面から鮮血が吹き上がる。
さらに怪物は、残りの体を一気に自分の口の中へと押し込んだ。
「裕美……おれも……」
咀嚼を続ける怪物へと、徹は近づいていった。
右手を伸ばした。徹のことなど眼中にないようであるが、この手でふれたならば、気づいてくれるだろうか。
しかし、徹の手が届く前に、化け物の巨軀は見る見る縮小し、アスファルトにへばりつく染みと化すと、すぐに消滅してしまった。
下水のにおいが薄らいでいる。
「あは……ははは……」
力のない笑い声がした。
見下ろせば、へたり込んだままのかなえが、呆けたような笑みを浮かべていた。
「こんなあたしが見逃されるなんて、皮肉なものね」
確かに皮肉だろう。裕美を寝取られた徹と、川和田を寝取ったかなえ――よりによってこの二人が残されてしまったのだ。
「でもラッキーよね。いけないことをしたおかげで助かるなんて」
徹を見上げて、かなえは言った。正気に戻ったらしく、笑みは穏やかだった。
とはいえ、どうしても笑みを返すことができず、徹は目を逸らしてしまう。
不意に、下水のにおいが強くなった。
眉を寄せ、徹は目を走らせた。
不安げな表情を浮かべたかなえも、周囲の様子を窺っている。
かなえの頭上、およそ三メートルほどの高さが、やけに暗かった。その辺りだけが街灯の明かりを受けつけていない――そのように見えた。
徹の視線を追って、かなえも見上げた。
「そんなわけないだろう!」
裕美の声だった。
かなえの頭上の闇から、一本の巨大な漆黒の腕が伸びた。
瞬時の出来事だった。
無数の指を有する手のひらが、かなえの上半身を叩き潰した。
巨大な腕はすぐに闇の中へと引き戻された。ために徹は、かなえだった残骸をまともに見る羽目となった。供物にはされずに始末された女の、肉片だ。
またしても下水のにおいが薄くなり、忌むべき闇は失せていた。
知っていて無視していたのか、それとも本当に眼中になかったのか、いずれにせよ、裕美は徹に一瞥もくれなかった。
徹の胸に虚無が広がっていた。
川和田洋造と村井かなえは行方をくらました――とされた。警察の捜査もあったが、かなえの無残な遺体発見された、という報道はなかった。
あの夜、ダイコク横丁から出奔する際に、ようちゃんちの店先に手書きの「臨時休業」の張り紙があったのを目にした。あの張り紙は今でもあのままなのだろうか。なぜか、そんなどうでもよいことが気になって仕方がなかった。
あれから一カ月が経つが、徹は一度たりともダイコク横丁に目を向けていない。ダイコク横丁だけではなく、周囲のすべてから目を背けていた。そして駅前通りを歩くときは、南側の歩道を使った。
下を向いて歩いていれば、問題はない。
それが徹の人生なのだ。
奇妙な横丁は、まだそこにある。
はるかなる冥界より 岬士郎 @sironoji
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