第9話

 とっさの行動は正義感からではなかった。そんな志があるならば、最初からかなえの企てに手を貸したりはしない。

 徹は川和田の右腕を両手でつかんだ。

「川和田、その手を離せ」

「おまえこそな」

 顔を引きつらせて徹を睨んだ川和田が、その右腕だけで徹を弾き飛ばした。

 足がもつれて尻餅をついた徹は、異形の動きを目の当たりにした。

 闇が後退し、川和田の全身があらわになった。しかし不意に自由の身となったためか、川和田はふぬけのようにかなえの肩から両手を離し、アスファルトの上にうつ伏せになってしまう。

 なおもあとずさろうとしたかなえだったが、徹と同じく、足がもつれて尻餅をついた。

「嫌あああ!」

 かなえが悲鳴を上げた。

 うつ伏せの川和田が、左右の手でかなえの両足をつかんでいた。

「引きずり込まれた闇の中で、おれは神の使いに言われたんだ。神はすでにここからの供物に飽きている、とな」恨めしそうな趣で川和田はかなえを睥睨した。「だから神の使いは、おれたちのしつこさについにぶち切れ、おれは送り返されたんだ。どうりで、いくら供物を貢いでも効果が出なかったわけだ」

 そう告げて川和田は、ようやく上体を起こした。そしてかなえに馬乗りになり、両手で彼女の首を締め上げる。

「おれと寝たのも、おれを利用するためだったわけだ。でもな、おまえとの関係はこれまでだよ」

 言いながら、川和田はかなえの首を絞め続けた。

 かなえは両手でそれを解こうとするが、川和田の力にかなうはずがない。

 一方の徹は奮起し、立ち上がろうとした。しかし、路地の突き当たりまで後退した闇に目を向けるなり、そんな力も抜けてしまう。

 悪夢のような光景だった。波打つように蠢く闇のあちこちから、人の姿をしたものが這い出てきたのだ――否、それは間違いなく人間だった。粘性を有する液体にまみれ、衣服はぼろきれのごとくだが、神の使いでなければ犬や猿でもない。あえてたとえるなら、生ける屍だろう。

 そんな生ける屍たちが、おもむろに立ち上がり、こちらへと歩き始めた。十数人はいるだろうか。粘性の液体をしたたらせるそれぞれは皆、成人とおぼしいが、年齢を見極めることが不可能なほどに汚れ果てていた。かろうじて男女の区別ができるくらいだ。

 徹は我に返ったものの、まだ全身に力が入らず、へたり込んだまま声を上げる。

「やめろ川和田。そんなことをしている場合じゃないぞ」

 今の川和田にとって意味不明な警告だったに違いない。彼はうざったそうに徹を横目で見た。

「あれを見ろって」

 徹は言うと、迫る群衆に目を向けた。

 かなえの首に手をかけたまま振り向いた川和田が、目を見開いた。

「そうだった。おれは闇の中で見たんだ。神に拒否され、闇の中で腐りかけていた供物たちを。……神の使いは言っていた。神に捧げられた供物だから、たとえ神が拒否したとしても、神の使いが勝手に食らうわけにはいかない。おれを帰したついでに、こいつらのことも帰したに違いない」

 川和田はかなえの首から手を離して立ち上がった。そして、生ける屍たちを見据えながらあとずさる。

 強くなった下水のにおいに刺激され、徹は仰向けのかなえに這い寄った。

「しっかりしろ」

 声をかけると、かなえは咳き込みながら上半身を起こした。しかし、迫りくる群れを見るなり顔をこわばらせる。

「神に送った人たち……」

 そうこぼしたかなえも、立ち上がれないらしい。

 徹とかなえはアスファルトにへたり込んだまま、両手両足を使ってあとずさった。

 見れば、川和田は路地の角のブロック塀に背中を当てて止まっていた。彼の見開かれた双眼は、生ける屍の群れに固定されている。

「あなた」

 群れの中から女の声がした。十八年ぶんのときの流れを感じさせる変化はあるものの、聞き違えようのない声だ。

 徹は目を瞠った。

 闇を背にして迫りくる群れの中に彼女はいた。

「裕美」

 二十年前に将来を誓い合った女だ。衣服は破れ放題であり、長い黒髪は乱れているが、全身を粘性の液で濡らした彼女こそ、裕美である。彼女も周囲の帰された者たちと同様、うつろな目でこちらを見つめていた。ずぶ濡れではあるが、頬のこけたやつれた面貌は隠せていない。

 かなえと川和田は硬直して逃げ出せないようだが、徹は逃げる気が失せていた。裕美によって眼球をえぐり取られようが心臓を握りつぶされようが、それで罪滅ぼしになるのなら幸いだ。この群れが生ける屍なら、今のさえない自分もまた、生ける屍だろう。こんな人生を続けなくて済む選択肢があれば、それを選びたかった。徹を裏切った女だが、徹に引け目があるのも事実なのだ。彼女を幸せにしてやれなかった、という自責の念を振り切れる時機なのかもしれない。

 裕美が先頭となり、生ける屍の群れが目と鼻の先に迫った。悪臭が際立つ。

 自分の最期を受け入れよう――そう覚悟して裕美の白濁したうつろな瞳を見つめた。

「あなた」

 またしても声を漏らした裕美だが、彼女のその目は徹に向けられていなかった。ほかの生ける屍たちも川和田だけを見ている。

「裕美……」

 通り過ぎる裕美と彼女に続く群れを、徹は見上げた。

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