2020年8月16日

「ふぁぁ……」彼は大きく伸びをすると布団から抜け出した。

 階段を降りて1階へ向かう。降り始めてすぐ鍋の煮える音と煮染にしめの出汁の香りがする。

 おはよう、と台所の母親に声を掛けると、仏壇の茄子をちらっと見て、

「そういや帰ってくるのは初めてやなぁ、アイツは」

「そうやねぇ」

まんか頃んごと迷子になっちょらんけりゃ良かばね」

「じぃちゃんもばぁちゃんも一緒やろうからね。大丈夫やろ」

「じぃちゃんがれば安心やね。あん人は人間カーナビやから」

 彼はふっと小さく口角を上げ、ふと遠くを見る目になった。


**** **** **** ****


「じぃちゃぁーん!!」良かったぁー!! じぃちゃんが居たら安心だよー!!

「あ、ばぁちゃんも一緒だー!!」安心×2だねっ!!

「おぉ、良ぅ戻っ来たなぁ。うんうん」

なごぶぃやねぇ。良かおごになったが」

 えっへっへー。でしょでしょ。そこのイチ兄さんにも言ってやって、ばぁちゃん!!

 漸く兄さんが追いついてきた。毛繕いを終えたのか、ミユ様も一緒だ。

「おじさん、おばさん。なご振いでした」頭を下げる。

「おぉ、イっちゃんもな。―あぁ、むけめ行ったか」

「は?」

「んにゃ、良か、良か」一人、納得顔のじぃちゃん。

「ほいでイっちゃん、そん子は―」ばぁちゃんが赤ちゃんを見る。

「ほぉ、初孫か!! んにゃ、ケイ子も喜んだやろ!!」ケイ子さんは兄さんの母上である。

 兄さんがじぃちゃんの独り合点に珍しくあたふたしていると、

「ほいで相手はだいね? ―あぁ」こっちを見る。え!? ちょっとばぁちゃん!!

「トッコちゃんもとうとうお母さんやね。んにゃんにゃ!!」いやいやいや!!

「「ち、違―」」

「―ぅえええーーーん!!」不意に赤ちゃんが泣き出した。

「えー!!今の今まで大人しくしてたのにー!!」

「うぉ、と、トッコ、ちょっと頼む、こりゃおいじゃ駄目やっせん!!」

「は、はいはい、こっち頂戴。はいはーい、よーちよち」

「おぅおぅ、ほれほれー笑え笑えー」ぷ…ちょ、兄さん、その変顔やめてwww

 ふと、じぃちゃんとばぁちゃんを見ると、二人して頷いている。あぁ―ありゃ完全に勘違いしてるよー。


**** **** **** ****


 そのうちばぁちゃんも加わって暫くはそんなこんなで赤ちゃんをあやしていたが。

「どぁ。ぼっぼっ行こかいね」じぃちゃん?

「行っもそかい」ばぁちゃん?

「行くって―」

「おじさん、おばさん?」

「あぁ、じゃったな。そもそもイっちゃんが忘れとったからむけめ行ったんじゃった」

「忘れてる―」兄さんがとなる「あぁ―そうか。そいでお前わいが来たとか」

 兄さんにそう言われた彼女―ミユ様は「そうよ」とばかりに「にゃう」と鳴く。

「ちょっと兄さん、どーいうこと!? 何か思い出したの?」

「―あぁ」優しい目をして私を見る。ま、待って、この場でその目は反則よー!!

おいもトッコをむけめ来たとじゃ。ただ―」

「イっちゃんなめ頃から忘れっぽかったけねぇ」と、ばぁちゃん。

「ほいで猫ん子が追っ掛けっ行ったっじゃろ」と、じぃちゃん。

 おいおい、忘れっぽいとかそういう問題!?

「トッコちゃん、あんたも初めてやったから、良ぅ解っとらんかったんやろ」

 いや、ばぁちゃん? そりゃ帰省は初めてだけどさ、流石に道くらいは―


 その刹那。

 不意にそれまで意識すらしてなかった頭の中の靄がすっと晴れたような気がして―


 ―あ。そうか。そうだったんだ。そっか、私―

「お前もようじゃね」と優しくイチ兄さん。

「―うん」少し声が震えてる。駄目だ、泣くな私!!

「済まんの。おいがまちっとしっかりしちょれば―」

 溜まらず兄さんに抱きついてしまった。だ、だから、この場でそれは反則だって!!オトナのオンナらしく我慢してたのに……。

 兄さんは何も言わず私の頭を撫でている。あぁ、昔もこうやってむずかる私を宥めてくれてたなぁ。

 私たちを優しく見ていたじぃちゃんとばぁちゃんは、頷き合って今来た方へ歩き出した。

 私とイチ兄さんもそれに続く。ミユ様が鈎型の尻尾を振り振り付いてくる。


「あ」そういえば。

「どうした?」

「赤ちゃんは―?」

「あぁ、ハツ子なら先にわ」と、じぃちゃん。

「ハツ子、って―」

「姉ちゃんよ。あんたは覚えとらんやろけど」と、ばぁちゃん。

 あぁ―そりゃ覚えてるはずないけど、今は判るよ。ありがとね、


**** **** **** ****


 彼が墓を掃き清めている間に母が花を生ける。焼香して手を合わせる。

「イっちゃんの方は?」

「済んだ」

「なら、戻ろうか」と母は花鋏と線香を取って立ち上がる。


 帰りの車中で彼は母に訊いてみたくなった。

「イっちゃんって母さんの従弟やったんやろ」

「そうよ。トッコが小さい頃は良ぅ面倒見てくれとった。あん子も良う懐いとったねぇ」

「俺も可愛がって貰ったもんなぁ。今年で七回忌やったかね」

「消防士になったその年に、救助中の事故であっさり、やったもんなぁ。トッコはイチ兄ちゃんのお嫁さんになるぅ言っとったくらいやから、わーわー泣いとったなぁ」

「トッコも今頃、向こうで兄ちゃんに会えとるかも知れんなぁ。押しかけ女房になっとったりして」

「そうねぇ。就職してすぐにぅなるとか、あの子もやりたいことはあったろうに……」

「そんな人はそれこそ世界中に数え切れんくらい居るやろ。今回の新型はホントにたちが悪い。悪すぎる」

「ウチの女はなんか短命なのかねぇ。ハツ子に続いてあの子まで、なんて……」

「ハツ子は死産やったんやろ。それは母さんの所為や無いし、トッコにしたって」

「頭じゃ解っちゃいてもね。どうしても考えてしまうんよ。腹を痛めて産んだ子やからね」

「そうやな。そこのとこは男にゃどうしても解らんのかも知れんなぁ」


「そう言やミユ様も不思議な猫やったなぁ」話題を切り替えるように、彼は言う。

「トッコが貰ってきた時からちょっと変わっとったね。目の色が右と左で違っとったし」

「あれはオッドアイ言うて、珍しいけど居ないわけじゃないらしいけど。何というか、俺らの言ってることが全部解ってるようなところがあったな、アイツは」

「そうねぇ。それがあの日突然、怪我したでも病気したようでもないのに死んでしまって……」

「トッコの命日と同じ日とか偶然にしても気味が悪いくらいやったな」

「もしかしたらトッコが連れて逝ったのか……それとも付いて逝ってくれたのか……」

「トッコの奴は方向音痴やから心配して付いてってくれたのかもよ」


 母が、ぽつりと言う。

「新しい猫、飼ってみようかねぇ」

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はじめてのさとがえり ひとえあきら @HitoeAkira

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