2020年8月15日

「んー……」遠くをじっと見渡す様子の老爺。

 痩せぎすの体躯とその顔に刻まれた皺の様子から見るに喜寿を迎える齢だろうか。

 しかし、側頭部を残し見事に禿げ上がった頭の下に炯々けいけいと輝く双眸は若者のように力強い。

「あー……あっちやらいね……あれあいめ頃からそそっかしかったぃねぇ」

「おまんさぁ」後ろから小柄な老婆が近づいてきた。「いもしたな?」

「おー、ったおった。相変わらずそそっかしか、ほんのこて」

 老爺は闊達に笑うと、傍らの老婆を見遣り、

「どぁ。行かんなぁねぇ」と老婆の手を引いて歩き出した。


**** **** **** ****


 あれから1時間は経っただろうか。どーもこっちに帰って来てから時間の感覚が麻痺してる気がするのよね。夏休みってそんなもんだったけど、社会人になっても変わらないんだなー、実際。

 そんなことをとりとめも無く考えているのは、さっきからずーっと顔を上げられず、従って兄さんと会話が続かず、そうなると何か考え事でもしてないと頭の中がこんがらがりそうになるからで―。

「―トッコ」

「おーい、トッコ」

「トッコさーん、起きとるかー!?」

 わ、びっくりした!! 急に大きな声出さないでよ、兄さん。

「相も変わらずの勝手耳かってみんやねぇ、お前は」

「か、考え事してただけよっ!! 乙女のプライバシーはガードが堅いんですからねっ!!」

「お前が乙女かどうかはこの際措いとくが、その赤ん坊よ、大丈夫なんか?」

「ん。よーく寝てるわよ。寝汗も殆どかいてないし」何を措いておくは後できっちりと訊くからね!?

「ならええが、もうかれこれ1時間は歩いとるやろう。疲れとらんかと思ってな」

「あたしはまだ大丈夫だけど……あらら、兄さんお疲れなの~? 歳には勝てないわね~?」

「あの両親からどうすりゃこんなのが産まれたのか……」ちょ、それどういう意味!?


「それにしてもなーんにも無いよねぇ。いい加減コンビニの1軒でもありそうなもんだけど」

「あぁ。ぼちぼち市街地の端っこぐらいは出てきてもええんじゃが」

そりゃまぁ、ウチの家も大概田舎だし、周り田んぼばっかだけど、小学校がある市街地までは子供の足でも1時間もかかってなかったはず。

 ……あれ? そういや兄さんが来た方向って……?

「ねぇねぇ兄さん」

「ん?」

「さっき会ったときに、兄さんどっちから来たっけ?」

「はぁ!? そりゃお前―」

 今、私たちが歩いているのは一本道。そして私は実家のほうから歩いて来た。

 その時、兄さんは反対方向からこちらに向かっていたはず。

 それなら―

「そうだよ!! 兄さんが来た方向が町のはずだから、兄さん、判るでしょ?」

「そう言われりゃそうじゃが……」

「ほれほれ、思い出して!! 市街地までは何マイル♪」

「何故そこで歌う!? ……えぇ、待てよ、確か―」額を指でぐりぐりしながら考える。

「―どう?」

「……んー……」まだ考えている。

「ちょ、兄さん!? まさかの若年性痴呆!?」

ちごわぃ、阿呆!! ……本当に、覚えとらんのじゃ」

「なにそれこわい」

「そう言われてもなぁ……おいもとうとうヤキが回ったか……?」


 辺りは変わらず、蝉の声が姦しい。遠くに見える山を背景に空を揺蕩たゆたうように高く高く飛んでいるのは、あれは鳶だろうか。昔から見慣れている、懐かしい景色。けれど今はその懐かしさが何故か胸騒ぎを催させる。


「ねぇミユ様、あんた何か知ってたりしない?」私の目を見てお答え!!

「にゃう」あ、ソウデスネ。猫だしね。喋れたら逆に驚くわね。

「いやお前、流石にそれはどうかと思うが」

「だってこんな時よ。猫の手でも借りたいし、窮鼠猫を噛むっていうじゃない」

「いや待て、後の方は何か違う」

「細かいことはいーの!! 大体、何か訊こうにも誰もいないし……」

 いよいよ手詰まりになって二人でわちゃわちゃしていると、兄さんの手の中で丸まっていたミユ様が不意に何かに気付いたように前を向いた。

「ぅにゃーーー」叫ぶや否や、止める間もなく兄さんの腕をするりと抜け出して走って行く。

 私も兄さんも慌てて後を追おうと駆けだしたが、見ると道の先で止まってこちらを覗っている。

「虫か何か見つけたとかぃ?」

「―うぅん、違うかも。あれは早く来い、って顔だわ」

 赤ちゃんを起こさないように極力揺らさないように走りながら言った。

「さっきおいに会った時と同じ、ちゅうこっか」


**** **** **** ****


 そんなこんなで、ミユ様を道案内に、私と兄さんは一本道を小走りに走っている。

 帰省するなり競歩の真似する羽目になるとは思わなかったわ、もう。

 息切れしそうな様子で隣を見ると、まるで歩いているような調子で息一つ切らしていない。流石ね。

 その兄さんが不意にこちらに手を伸ばす。

「…え!? 何!?」

おいが引き受ける。お前、ぜいぜい言っとるが」

「でも……」

「今まで起きんかったから、大丈夫やろ。お前がぶっ倒れたらその子も危ねぇわ」

「……わかった。お願い」一旦立ち止まり赤ちゃんを渡した。だ、大丈夫…だよね?

 赤ちゃんは幸い、すやすや眠っている。ホントに肝が据わってるわ、この子。

 とにかくこうなったらミユ様だけが頼りだ。見失わないよう、必死に後を追った。てか猫ってホントに足速いわね!!


**** **** **** ****


 もう、どのくらい走っただろうか―

 そう思っていると、ふと、ミユ様が立ち止まって前を向いている。

「ん?」兄さんも気付いたか。

「何か見つけたみたいね」

 おそらくそうだったのだろう、彼女は大きな声で「ぅにゃぁぁぁーーーおぅ」と一声鳴くと、短い尻尾をぱたぱたと忙しく振り始めた。

「何か見えるか?」

「遠くに何か―誰か―見えるような気が…するん…だ…け…ど……!?」jまさか!!


「おーーーい!!」間違いない。大きくて良く通る、この声。

「うそっ!! じ…じぃちゃーーーん!!」気がついたら走り出していた。

 兄さんは驚いた顔で後を小走りに走ってくる。ミユ様は自分の仕事は済んだとばかりに道の真ん中で毛繕いを始めた。あんた、そんなとこいると車に轢かれるわよ。

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