彼のピアノが奏でる夏の

伊古野わらび

彼のピアノが奏でる夏の

 彼がピアノを弾けば、いつだって夏の匂いがした。



 今日は、夏の海の、あの煌びやかな潮の匂いがした。荒れていない、子供でも安心して入れそうな穏やかな波の、それでいて太陽を受けて水面をきらきら輝かせているそんな海の匂い。海なんて、もう何年も行っていないのに、ちゃんと匂いを覚えていてくれた脳に感謝、感謝。


 ゆっくりと目を開く。


 天井が見える筈の視界に、何故か真っ白なレースがあった。寝起きの頭がそれを日傘だと認識するのに、多少の時間を要した。


 室内なのに日傘?


 床に寝転がったわたしの頭を保護するように、日傘が開いた状態で立てかけてあった。今日ここへ来る時に使用した日傘。真っ白でレースがいっぱいの、貴婦人みたいな日傘。モネの絵っぽいでしょと笑ったら、「モネって誰?」と彼には真顔で返された。

 いや、何で知らないの。美術で習ったでしょ。全く、ピアノ以外には興味を持たないピアノ馬鹿。


 そうこうしていると、どんどん潮の匂いが満ち満ちて、室内はもう満潮の雰囲気となっていた。

 寝転がったまま、首だけ後ろに反るように頭の更にその先に視線を向ける。日傘のレースの縁から覗いた世界は反転していて、その中で背を向けた彼がゆったりとピアノを弾いていた。

 真っ直ぐ伸びた背中。日傘と同じ真っ白なシャツが遠目でも寝起きの目には眩しかった。

 彼の長い指が鍵盤の上を滑らかに進む。今日の動きは本当に緩やかだ。奏でているのはバラードだろうか。わたしにはよく分からないけれど、穏やかな潮の匂いがしているということは、少なくとも激しい曲ではない筈だ。早弾きの方が好きな彼には珍しい。

 荒々しく弾く姿ばかり見てきたけれど、こうして穏やかに弾いている姿もいい。わたしが寝ていたから気を遣って煩くない曲を選んでくれているのかもしれない。

 実際彼は優しい。彼の指が優しくて巧みで、一方でがっつり情熱家なのを知っているのは、直接触ってもらえるピアノとわたしくらいだろう。そうなると、ピアノはライバルか。むう。


 不貞腐れたのと当時に、肘が日傘に当たってしまった。ころころと床の上を回る日傘。何処へ行こうというのだね。


 途端、一瞬で潮の匂いが霧散した。


「ごめん、起こした?」


 まだ反転している世界で、彼が眉間を摘み、手を下ろした。

 気にしなくたっていいのに。わたしは首を横に振った。彼のピアノ部屋の床で寝ていたわたしが悪い。邪魔をしたのは、こっちだろう。


 それよりも、この日傘は何なのか。


 体を起こし、ちょんちょんっと転がった日傘を突っつくと、彼が腕を上げ掛けて。


「そこで、寝ていると、暑いと、思って」


 ゆっくりそう言って、肩を竦めた。

 わたしの背後にある大きな窓。そこから光が入り込み、わたしの周辺ごと焼こうとしている。なるほど、カーテン越しでも入ってくる夏の日差しは凶暴さすら感じる。

 だからって、頭の部分だけ日傘で覆うのはどうなのか。それがきみの優しさなのだろうけれど、ちょっと抜けている。寧ろ寝込みを襲うくらいの気概を見せて欲しいのに。うーん、無理か。無理だな。

 まあ、結局は床で寝ていたわたしが悪いということなのだろう(二回目)そういう結論にしよう。折れましょう、わたしから。笑いましょう、あなたから。


 のろのろとわたしが立ち上がるのと、ピアノから離れた彼が日傘を畳むのがほぼ同時だった。

 ぱちん。きっとそう音が響いたのだろうけれど、わたしの耳は何の音も拾わなかった。


 何年か前から、わたしの世界は無音の世界だ。いや、正確に言うと、耳の奥で渦巻く何かの流れは聞こえているけれど、他の音はさっぱりだ。それを残念だとか後悔しているとか、そんな問題はもう乗り越えてきたつもりではあるけれど。

 ただ、大好きな彼のピアノの音が聞けなくなってしまった。そのことが、案外大きな未練だったらしい。自分でもびっくりするほど。

 だからだろうか。ある時から、彼のピアノの音を「匂い」として感じられるようになっていた。なってしまっていた。しかも、決まってそれは夏を思い起こさせる自然の匂いがした。


 例えば、先程みたいな海の匂い。潮の匂い。

 例えば、青田を渡る風の匂い。土の匂い。

 例えば、夕立の前の噎せ返るような雨の匂い。


 曲調に合わせて種類は変わる。でも、必ず夏の匂いがした。春夏秋冬、いつ聞いても、彼の音色は夏の匂いだ。

 実際の音が聞こえるようになった訳ではないし、ピアノの音なら何でも香る訳でもない。「彼の」ピアノの音だけだ。自分でも説明できない不可思議なことが起こるのは。

 それにしても、何で夏の匂いなんだろう。彼が夏生まれだからか。単純なんだか複雑なんだか、わが脳ながらよく分からない。


 ともかく、わたしはそれを脳の誤変換ということにしている。聞こえなくなっても、耳は彼の音をずっと拾ってはいるのだろう。ただ脳への直通のルートが不通になってしまって、それでも何とか聞きたいと回り道している内に聴覚ではなく嗅覚に変わってしまったというか。

 そうまでして、わたしは彼のピアノを聞きたかったのか。われながら何たる未練と呆れてしまった。重すぎるだろう、こんな執着。


 だから、この誤変換については、まだ彼に打ち明けていない。というか、誰にも打ち明けていない。正直に打ち明けても、また病院送りになるだけだし、彼も困るし引くだろう。

 いや、案外喜ぶかもしれない。何しろ、わたしのために、わざわざ手話を勉強してくれているお人好しの彼のことだ。わたしの未練に気付いたら「そんなに好きなのか」って喜んでくれるかも。

 でも、その場合「そんなに俺が好きなのか」ではなく「そんなに俺のピアノが好きなのか」って喜びそう。

 違うから。ピアノが好きな訳じゃないから。ピアノを弾いている彼が好きなだけだから。勘違いしないでよね。

 事実、彼が弾いている曲の作曲者すらよく知らない。彼がモネを知らないように。聞こえていようといまいと、わたしではバッハとベートーヴェンとショパンの区別は付かない。そこまでピアノに興味はない。


 彼だから、好き。それだけ。


 その辺り、勘違いして捉えそう。何しろピアノ馬鹿だから。結局わたしはピアノには勝てないのか。ちくしょう。


 むうっと膨らませた頬に、ふと何かが触れた。ピアノの弾きすぎで関節ばかり太くなった長い指。わたしの大好きな、彼の指だ。


「ごめんってば」


 また眉間を摘み、手を下ろす仕草。

 いや、わたしが何で不貞たか分かっていないのに謝られても。これは起こしてごめんという駄目押しだろうな。

 だから、違うからね。わたしが勝手に腹立てただけだから。そもそも匂いはするけど聞こえていないわたしの耳なんて気にせず弾けばいいのに。


 もう、何処までもお人好しで優しい人。


 わたしは改めて首を振り、怒ってないことを示すようにピアノを指差し、にっこり笑った。いつもの催促の合図だ。

 彼は暫くきょとんとした後、ようやく察してくれたのか。


「聞こえないのに、物好きだなあ」


 独り言のように呟いて苦笑した。確かに音色も声も聞こえてはないけど、それくらいの言葉は唇で読めるから。物好きとは失礼な。

 それでも、聞こえないと知っているのに、弾いてくれるのだ、彼は。ピアノ馬鹿だから。そんなところも好き。ピアノ馬鹿な彼が好き。


 ああ、やっぱり重いな、この愛。


 反省しつつも自重はできないし、するつもりもない。これがわたしだ。


 開き直りながら、邪魔にならないように少し離れた所に移動する。ついでにモネの絵画よろしく日傘も開いてみた。あの美しい貴婦人に見えるかしら。

 くるくる日傘を回して見せると、ピアノの椅子に座った彼と目が合った。眩しそうに目を細めて、彼が何かを呟く。流石に唇は読めなかった。代わりに、引き籠もりで色白の彼の頬がほんのり赤く染まった気がした。気のせいかもしれないけど。でも、少ししてやったりと思ってしまったり。やったぜ。


 気を取り直した彼が腕を広げ、鍵盤の上にそっと指を乗せる。真っ直ぐ伸びた背中が一つ深呼吸。それを見届けて、わたしは目を閉じた。

 鼻先をあの潮の匂いが優しく撫でるのを感じた。



 こうして今日も、音のないわたしの世界に、わたしだけの夏の匂いが満ちていく。

 わたしだけの、愛しくてたまらない彼の匂いが。



【了】

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