叡智と尊厳ヤクザによる小説のテーマ

鹿紙 路

最近気付いてしまった

んですよ自分の作品についてなんですけど。

一昨年くらいまではそんなことなかったんですけど、去年書いた二作品(いずれも10万字超えの歴史小説)、今書いているSF、いずれも、「生死を超えて手渡される叡智と尊厳」についての小説だなって。直近で出した同人誌(『歌声』)のあとがきには「亡霊の声を聴き取る」ことがテーマって書いたんですけど、それも「生死~」と言ってることはほぼ変わらんな、と。


この小文は、そう気付いてしまった人間の、自作のテーマについてのポジショントーク的なものです。エンタメばっかり書いてる方や、萌えがあればそれでいい! とか、内面の課題を解決する! とか、ひとによって作品に込めるテーマ性って違うと思うんですけど、創作仲間と交流するにあたって、その違いが断絶になったり、誤解したり、憎しみを持ったり(???)することもありえるかと思うので、他人のテーマ設定についても知ってて損はないんでは、という軽い動機でこれを書いています。ので、軽いノリで読んでくだされば幸いです。わからんかったらそれでいい。


なんか前々から薄々気付いてたんですよね……書き始めたときはエンタメ志向で、楽しい・ワクワク・ドキドキできる話が書きたい! と思ってたんですけど、社会人になって一度執筆から離れ、そこから戻ったとき、なんかネット上でもわたし「小説で書きたいものは『真実』が現れる瞬間だ」ってちょいちょい発言しているようです。ネット小説界隈のお知り合いや、同人誌を出しているお知り合いに、そういうことを言った覚えがある。


えっ、真実ってなんだよ、小説ってことはフィクションだろ、という向きもあると思います。まさしくその通りで、小説にあるのは絵空事、架空のできごとです。でも、わたしが読んだり書いたりしているとき、小説に見いだすのは「人間ってこうだよな!」「世界ってこうだよな!」という、ある意味での真実です。架空のできごと、架空の人物でも、読んだり書いたりしている自分の目で見て、納得する、あるいは納得はできないけれど確からしい、真実。日常の出来事でも大事件でも、そのなかで振る舞う人間は、確かにそう考え、行動するだろうという真実であったり、世界はそういう動きをするであろうという納得であったり。小説作品のなかで延々続く文章をペラってめくると、鮮やかに浮かび上がる人間の、世界の真実。それを見つけると感動します。悲しいことでも楽しいことでも。それを得たくて、わたしは小説を読んだり書いたりしています。


それは「人間はこうでなければならない」「世界はこうでなければならない」ということとはまったく違います。「ならない」になると、それは小説ではないでしょう。小説における真実は、ほかの真実に干渉しないのです。だから、いくらでも真実を見つけ出せる。無限大に、作家や時代によって違う真実が見つけられるのです。

科学的であったり、学問的であったりするのとは違う真実です。その作家にとって、その登場人物にとって真実であればいい。


真実について長々説明しましたが、それと「生死を超えて手渡される叡智と尊厳」の関係ですが。この「生死を超えて手渡される叡智と尊厳」の元ネタは、マイケル・オンダーチェ著『アニルの亡霊』の帯に書かれた文です。人間だれしも、そのひとにしか見えない真実、叡智を持っていると思います。そのひとの生まれ育った環境、いまいる環境、手に入れた情報、やっていること。そういった多様な条件によって、そのひとにしか見えない真実、叡智があります。真実、叡智と敬意・尊重はセットです。科学的真実(リンゴを二階から落とすと重力によって地面に落ちる!)は、明らかにしたひとについてもそうですが、その真実自体も敬意を払われます(二階から落とすとリンゴは潰れるから、二階のカゴにしまっておこう)。小説的な真実も同じだと、わたしは思っています。だから、その登場人物が見いだした真実についても、敬意を払います。その人物が生きていても、死んでいても、架空でも。その登場人物固有の真実は、作品世界から、わたしの内面や、世界に向けても光を放ち、混沌としたそこに筋道を付けるのです。


だってそうしなければ、世界や自分はそのままです。わたしはこの世と自分の恐ろしい面が、すこし見えています。簡単にあげられるものでも、貧困、病気、格差、差別、その他生命の危機をもたらすもの。そういうおおきい穴があいていて、そこにシャベルで土を放り投げるために、真実が必要なのです。


もうすこし具体的に言うと、「生死を超えて」のことばの通り、いままでの人類の歴史では、人間は無数に死んでいました。戦争や災害、病気や飢餓。そういう危険に晒されながら、楽しかったりつらかったりする人生を過ごしたひとびとについて、思い出さず、忘れていてよいものなのでしょうか? 忘れていたままだと、その無数のひとびとと同じ原因で死ぬ羽目になるのでは? もちろん怪我や病気などは、今でも死因になるのを避けようがなかったりします。でも、暴力は? 無知は? 偏見は? 歴史書のなかばかりではなく、身近なひとの体験談ばかりでなく、それについての真実は小説のなかにも書かれています。わたしは死ぬのが怖いので、あいている穴を「嫌だな~怖いな~」と思いながら、小説で得た土でもってシャベルで投げ入れているのです。


自分の作品のテーマ以外に、最近よく考えるのは、「小説を書くという行為は、長い坂を上る途中、自分が背負っている重荷を下ろすために、ほかの重荷を背に入れて、錬成して、下ろす行為だ」ということです。重荷というのは、登場人物それぞれの人生だったり、作品世界のなかの課題だったり、あるいは「山が綺麗」とか「温泉大好き」とか、雑多な要素なのですが、現実世界を生きていると、意識的にも無意識的にも、その重荷は背中の背負子に増えていき、しかしなぜだかわからないけれど、わたしはそれを背負って長い坂道を上っていかないといけないようなのです。どうもそれは、朝起きてご飯食べたり仕事に行ったり、夜眠ったりするのと同様、生活の一部なようで、好きだからやっているとか、やっていると楽しいからやっているとか、そういうものではないようなのです。あ、いや、ただ「そうなんだ~」って言ってほしいだけのために書いているので、理解しなくてもいいです。そういうひともいるんだな~とだけ思っていただければ。重荷のなかから、真実を取り出して、提示してみせるのも、自分にとってたいせつなようです。


最近は創作のなかの欲求というのがどんどんシンプルになっていて、「いかに真実、死者の叡智と尊厳を提示するか」というようなことばかり考えます。ワクワクドキドキはわりとどうでもよい。というか、真実を提示することで、なんか自然とワクワクドキドキします。そういう志向です。


という感じで暮らしております。

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叡智と尊厳ヤクザによる小説のテーマ 鹿紙 路 @michishikagami

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