第一章 人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない
走馬灯とはこういうものを言うのだろうか。今までの人生がパラパラ漫画のように駆け巡っていく。忌々しい両親の顔、自分をいじめてきたゴミクズ共の顔、世話になった恩人の顔、心から本音を語れる親友の顔、そして…俺が怒りに染まってぶち殺した男の顔。
屈折に満ちた学生時代、辛くも楽しかった新隊員教育隊時代、大学卒業後の挫折に満ちた警備員生活、激しいいじめに遭ったムショ生活、そして――今。
ろくな人生じゃなかった、と心底思う。小さい頃、自分は劇的に生きることを目指していた――結局、自分は何者にもなることができなかった。一生懸命にやってきたが、何もかも上手くいかなかった。挙げ句の果てに人を殺して犯罪者にまでなった。自分の人生は打ち捨てられた空き缶のようなものだった。もし輪廻転生のようなものがあるとして、再び次の生を生きるようなことがあるのだとすれば、それは心底絶望的な話である。無理やりこの世に生み出され、よくわからない内に苦行のような生き方を余儀なくされた。自分で選んだ人生?そんなものは意識高い系のゴミカス共にでも食わせとけ。そもそも人生は自分では選べないのだ。だから人生などくだらない。常に。絶対に。間違いなく。
「本多務。残念ながら貴方は死にました」
唐突に声が聞こえた。視界は真っ暗だ。何も見えない。というより、何もみることができない。
「貴方は激情に駆られて後ろの車に向かったところ、慌てた運転手が急発進して衝突、後頭部を強く打ち付けて死んだのです。理解しましたか?」
どうやら女の声のようだが、当の人物は皆目見当たらない。
「何をさっきからわけのわからない事を言ってやがる。姿をみせろ」
イライラしながら声を荒げると、目の前に青白い玉が現れた。怪訝な顔でそれを見つめていると、それは徐々に人の形へと変わっていく。
「こりゃなんだ?映画の撮影か何かか?それともバカ共がみてる低俗なテレビドラマのドッキリか何かか?」
自問するような悪態をついていると、その何かよくわからない異形は最早人間だとはっきりわかる姿に変わっていた。スーツを着た女。眼鏡をかけ、理知的な顔つきをしたそいつは、俺が普段みかけるOLとそう変わらない出で立ちだ。俺が心底嫌悪している白人女性であるという点を除けば。
「本多務。貴方の生前歴は調べさせてもらいました。激情家で遊び人気質の父親と過保護傾向の母親の元で生まれ、幼い頃は父親が度々誰かと怒鳴り合い、喧嘩する姿を見ながら中学生まで成長。もともと素直でひょうきんな性格だった貴方ですが、野球部に入った際、同級生と先輩からいじめを受けたことで他者へ攻撃的な態度をとるようになった。学校の教師はいじめを見て見ぬ振り。自分の口でいじめを訴えても貴方を突き放した」
淡々とそう話す女に、俺はよりイライラを強めた。
「藪から棒にいったいなんだ。そんなことより――」
「両親は中学時代に離婚、貴方は過保護気味の母方についていった。学校も転校したが、転校した先でも他者に批判的で攻撃的な性格は直せず、孤独に陥りながら読書に耽った。主に読んだのが思想家や哲学者の古典で、徐々に選民的な理論武装、思考形式をとるようになっていった。それでも数人の友達を得ることに成功した貴方は、それなりに充実した生活を送って公立高校にまで進学」
この女はさっきから俺の人生について滔々と話してるが、いったいどういうつもりなのか。全くわけがわからない。そもそもこいつは一体何者で、ここは一体どこだと言うのか。
そんな事を考えながら怪訝な顔をそいつに向けているが、我関せずといったように女は澄ました顔を崩さない。
「高校時代はボランティアや演劇にのめり込み、気の合う友人も得てそれなりに充実した生活を送っていたようですね。しかし、進路として希望していた首都圏の私立大学への進学は家庭の資力によって諦めざるを得なかった。どうしようもなくなった貴方は県内の国立大学の夜間へ進学。同時に学費を工面する為に陸上自衛隊にも入隊。教育隊では厳しいことも多かったが、多くの同期に囲まれ、また先輩からも可愛がられた。自衛隊在職中は、辛いことも多い一方で、それは貴方の人生の中でも特に輝いてた時期でもあった」
「そりゃご説明ありがとよ。よくもまあそんなことを調べたもんだ。なんだあんた、俺のストーカーか何かかね?澄ました顔をしているようで随分な変態なんだな」
「続けますよ」
無視かよ。つくづくいけ好かない奴だ。どうやらこいつには煽りは一切効かないらしい。
「しかし、ここから貴方の人生は暗転し始める。何とか夜間大学は卒業できたものの、貴方はその後の人生について展望が見えなくなっていた。就活をしていても出てくるのは全て不採用の文字。仕方なく人材が万年不足している警備会社に勤務するも、不規則な生活リズム、薄給、人間関係の異常なストレス、そして孤独感に再び苛まれる事となった。帰宅すれば酒をあおって寝る生活を続けたのでアルコール依存症にもなっていた。その末に勤務先の会社社員と喧嘩となり、相手に殴る蹴るの暴行を加えて結果的に死なせてしまう。通常、初犯ならば色々と情状酌量がつくものですが、貴方は全く反省する素振りもみせず、被害者への謝罪と賠償を完全に拒否したことで実刑を受けた」
「そうとも。反省などする必要性がないからな。人をコケにする人間の五臓六腑が破裂しようが、俺の知ったことではない。人間なんてのはそもそも生きる値打ちもない奴らばかりだ…当然、俺も含めての話だがな」
「貴方は鬱屈とした人生を送ってきたのですね」
それまで一方的に話してきた女とはじめて目があった。
「貴方が他人に攻撃的な態度をとる直接の契機は中学時代のいじめが原因ですが、そもそも幼い頃に父親の振る舞いをみて育ってきた貴方にとって、暴力は自分の主張を通すための手段であり続けたのでしょう」
「随分とわかったような口を利くんだな」
「更に実刑を受けて入った刑務所では一層暴力が酷かった。特に看守から受けるいじめは凄惨さを極めた…こうして貴方は人間を一層憎悪するようになったということですね」
「ほほう。よくそんな事がわかるな。あんた新聞記者か何かか?刑務所内の暴力は訴えてももみ消されるのが普通なんだが…まあ最低の場所には変わりなかったよ。カレーにゴキブリを入れて食わせる刑務官とかたくさんいたからな」
皮肉な笑いを浮かべる俺に、女は一瞬だけ憂いた顔をみせたような気がした。
「出所した貴方は、何とか日雇い同然の仕事で食つなぐことにした。犯罪歴がある貴方を受け入れてくれる企業は皆無に等しく、社会は冷たく貴方を突き放した。結果として貴方は自分の鬱屈した感情を常に抱きながら日々を送るようになった。それが最終的に今回の事故につながったわけです」
「そりゃあ俺の自己責任だからな。誰の責任でもない」
「虚勢ですね。貴方は人を素直に頼ることができないことを開き直っているだけですよ」
「なんだと?」
一瞬声を荒げそうになったが、女があまりにも微動だにしないために俺も冷静になった。
「どういう意味かね?」
「人は誰しも弱さを抱えて生きています。どんな人間も、誰かに甘えたり頼ることなしに生きていくことは難しい。にもかかわらず、貴方は自分の状況を自分の自己責任として抱え込むことで、自分を強くみせようとしているのですよ」
「ふん。くだらん世迷言だな。ルサンチマンに堕ちるくらいなら、その方が健全だという話に過ぎんよ」
「貴方は今健全ですか?」
「そうだ。俺は健全だよ。純然たる健全さだ。バカで愚鈍な連中が傷を舐めあって生きてる中、俺は一人で生きている」
「それが不健全なのですよ」
「ああそうかい。お前さんが不健全だと言うならそうなんだろう。それで結構。どうせ俺は社会の除け者みたいなもんだ…そんなことより、いい加減に教えてくれないか。あんたが誰で、ここはどこなのかということを」
自嘲気味にそう問いかける。女は一瞬も俺と目を逸らさずに口を開いた。
「…貴方のいた世界で通じる概念を使用するなら、ここは閻魔庁のようなものです。生前の貴方の行いを調書し、次に向かう世界へ振り分けるための場所ですよ。貴方が刑務所にいたことがあるならご存知だと思いますが、最初に受刑者をどの工場へ振り分けるのか分類しますよね。それと同じです。言ってみれば、私は閻魔大王にあたる存在です。」
「こいつは傑作だな。ドーキンス先生もきっと腹を抱えて笑うことだろうよ。そんな荒唐無稽な話が成立するわけがないだろう」
「貴方が何を信じているか信じていないか、そんなことは関係ありません」
「なるほど。それで、美人のヤマさんよ、俺は地獄にでも堕とされるのかね」
「何を勘違いしているのか知りませんが、貴方がこれから向かうのは地獄ではありませんよ」
「どういう意味だ?」
「私が閻魔庁や刑務所の比喩を用いたのはあくまでも貴方に理解しやすいためです。ここでは生前の行いを裁くわけではありません。まあ、もちろん、生前にどのような人物だったのかについては参考にしますけどね。あくまでもここは貴方を次の世界へ向かわせる橋渡しをするだけです」
「話が見えんね。そんなことをしていったい何になるんだ。俺は寧ろ死んで清々しているんだぞ。もうクソみたいなホモサピエンスに神経を煩わせられることもないのだからな」
「貴方の希望は関係ありません。それがルールなのです」
随分と横暴な話だ。こっちはもう生きるのを望んでいないにもかかわらず、強制的にわけもわからない世界に飛ばされるというのか。どこのSFの話だ。
「貴方は善悪を弁えていないようで、その実は善悪にとりわけ厳しい人です。周囲を憎悪するようになったのも、その実は貴方が強い正義感の持ち主だったからでしょう。次の世界はそんな貴方に相応しい場所となりますよ」
「ははあ、そいつはありがたい話だね。だがな、そいつは矛盾してるね。俺にそんなものが備わっていたのなら、今頃犯罪も犯さなかったし、こうやって死ぬこともなかったわけじゃありゃせんか?」
「そうやって人間全般に憎悪を差し向けているのは、そもそも貴方が強固に周囲の人間が不当な存在だと認識しているからでしょう?貴方は自衛隊を除隊した後、動物に対する不当な扱いに怒りを覚えてヴィーガンになりましたね。もし、貴方が一切の倫理道徳を無視できる完璧な利己主義者であったのなら、このような行動をとる意味などないのではないですか?」
「そりゃナチスが動物に優しかった事とそう変わらんことだね。或いは人間嫌いが動物に優しいというだけの話に近いか…まあ、そんなことは今更どうでもいいことだがね。とにかく、俺がこのまま死ぬことはできないということはわかったさ。それで、いったいいつその『次の世界』とやらにいけるんだね」
「たった今です」
刹那、女の姿が歪んだようにみえた。
それまで真っ暗闇だった場所が一瞬で明るくなり、あまりの眩しさに目を開いていられなくなる。防衛反応で反射的に手をかざす。
これは日光…?自分が今立っているところを確認すると、雑草が生い茂っていることがわかる。まだ目がなれていないが、さっきまでいた空間とは全く違う場所にいることは確かなようだ。
風が頬を撫でる。久しぶりにこんな暖かな風の匂いを嗅いだようなような気がする。
「ここは一体どこなんだ…」
あまりにも超現実的な出来事が続いているため、俺は途方に暮れるしかなかった。
「何が『貴方に相応しい場所』なんだか…とりあえず人がいるところでも探すか…」
皮肉な話だ。人間が大嫌いな俺が、茫漠たる不安に駆られて人を探す破目になるとは。
見たところ、ここは草原のようだ。晴れ渡る青空のもと、俺は人を探すために歩き通すことに決めた。
春の穏やかな暖かさに似た環境だったからか、日差しはあるがそこまで暑くはない。
しばらく歩いていると、ちょっと先に煙が上がってるのがみえた。詳細は不明だが、火が使える程度には人らしきものがいることは確かに思える。
しかし、仮に人と会えたとして言葉が通じるのか?あの女の説明だと、ここは間違いなく日本とは違うはずだ。そもそもどんな人種がいるのかさっぱりわからない。まして自分のような人間を迎え入れてくれるものなのだろうか。盗賊なら一発でアウトなのは間違いないが、閉鎖的なバンドでも命に危険がある。どこかの部族は外部からのよそ者を問答無用で射殺すほどに危険だと聞いたこともある。それは極端な例だとしても、とにもかくにも油断ならないことは間違いないだろう。
そして、そもそも俺は人間というものを信用できない。会ってみたら割と友好的だからといって、そこで信用するのも危険すぎる。マキャベリ的知性を発達させたホモサピエンスは、いつどこで自分を罠にかけるのかわかったものではないからだ。そもそもこの世界にいる人間がホモサピエンスであるとは限らないかもしれないが。
そんな陰鬱なことに思考を巡らせながら煙を目指して歩いていると、どうやら村のような住居群がみえてきた。
見たところ木造でつくられたものだ。屋根は茅葺屋根だろうか。どことなく昔住んでいた実家に近い。雰囲気的には田舎によくある家が雑多に並んでる感じだ。正直言えば、日本の田舎によくある光景だ。
もしかすると、今までのことは単なる白昼夢をみていただけなんじゃないかと思った。が、近づけば近づくほど現実離れした現実を頭が混乱しそうになった。まず家の周りにいる複数人の住人はどうみても日本人ではない。というよりもホモサピエンスではない。肌の色は緑色で、顔のホリが深く、口から牙のようなものを生やしている。身体は2mはあろうかというほど巨体だ。OD色の布ような衣服を纏ったその人々は、何か農作業をしながら談笑しているように見える。
神話上の生物でオークというものを聞いたことがあるが、実在するならきっとこんな姿なのだろうか。
「おう、そこの人。何か御用かね」
気づいたら結構近くまで近寄っていたため、当たり前だが気が付かれた。豪快な声だが、爽やかそうに笑う男(?)が俺に寄ってくる。どういうことか知らないが、言語は一応通じるようだ。
「用ってわけじゃないんだがね。気がついたらここにいて、行く宛がなくて困ってたのさ」
自分でも何をどう説明していいかさっぱりわからない。しかし、これだけ言ったところで男は何かを察したようだ。
「あーあんた、異世界人ってやつかい?その衣服をみると絶対そうだろう。最近、そういう人が共和国に流入してくるのさ。ま、グローバル社会ってわけだな」
グローバルの意味が違うだろと思ったが、とりあえず俺のような人間は珍しいものではないそうだ。
「まあ、こんなところで立ち話もアレだから、うちに来てハーブ茶でも飲んでいけよ」
とんでもない提案だ。わけのわからない世界に飛ばされて正体不明の存在に出された茶など怖くて飲めるものか。油断したところを身ぐるみ剥がされて殺される危険もある。無償の好意などこの世にありはしないのだからな。
そう断ろうとしたが、
「まあまあ、そう警戒なさんなよ。ただ茶を飲んで世間話をするだけさ。あんたもこの世界がどんなものかわからないとこの先不安じゃないか?」
「そんな好意を俺に向けて何の意味があるのか、そっちの方がよほど怖いことだね」
「ハハハ。本当に異世界人というのは疑り深いんだな。さあさ、こっちだよ」
そう言われ、肩を組まれてほぼ無理矢理に連行される。
クソ、やたらと図体がでかいから振りほどいて逃げるのは無理だな。隙きをついて逃げ出すか…。
「おーい、客だ。すまないがハーブ茶でもだしてくれんか?」
居間に通されると、俺がいた世界にもよくある座布団に座らされた。この中にいると実家にいた頃を思い出すくらい相当に日本の田舎的だ。そばにいる猪面の男さえいなければ、誰がここを異世界だと信じるものだろうか。
「客人か?はじめまして。私はリンです。」
そう言いながら台所から出てきたのは随分と見目麗しい褐色の美女だった。「粗茶だが」と湯呑を差し出してきたので、俺は会釈をしながらそれを手にとってみる。毒でも入ってるんじゃないかと猜疑心に駆られているため、なかなか口に入れようという気にはなれない。
普通に考えれば相当に不躾で無礼な態度だったかと思う。しかし、リンと自称する女は特段気にする素振りも見せず、朗らかに笑いながら「何も変なものは入っていないですよ」と俺に言ってきた。
「…いただきます」
と何とも陰鬱な返答の後に一口含んでみる…ほんのりとした甘さが舌に広がり、独特な香りが鼻腔をくすぐる。うん、なるほど、これは確かにハーブ茶だ。
「良ければこれも食べていけよ」
ドカっと猪面の男が座りながら皿いっぱいに溢れたクッキーのようなものを差し出した。
「…気持ちはありがたいが、俺はこういうものは食わんのだ。乳成分なり卵が入っていそうだからな」
「?そんなもの入ってないぞ。これは純度百%の植物性由来さ」
「そ、そうか。じゃあ遠慮なく」
意外な返答に当惑させられる。俺がいた世界ではだいたいこう言うと異常者扱いをされるか、執拗な質問攻めに合うのが常だったからだ。あまりにもまどろっこしく面倒な人間関係を回避するため、ヴィーガンの中には人からもらった動物性入りの食品を、そいつとの社交を維持するために口に入れる者もいるくらいだ。俺はそういう人間関係がつくづく面倒だったので、たいがいこういう言い方をして関係を遮断するようにしてきたのだが…。
遠慮なく…などと言ってしまった手前、口に入れないわけにはいかない。俺は菓子を一つ口に放り込んでみた。
…ほほう、なかなか良い味だ。確かに卵や乳成分に特有の味わいはない。さっきの話は本当のようだ。
「紹介が遅れたな。おいらはダンって言うんだ。この人はおいらのパートナーだ」
「…パートナーってどういう意味だね?」
「どういう意味って…まあ結婚してるという意味だな」
勢いよく口の中のものを噴き出すところだった。
「…すると、なんだね、君たちは要するに夫婦ということか」
「なかなか古風な言い回しだが、そういうことですよ」
リンがふふっと笑ってみせる。
「私たちは普段は軍で勤務しているのだが、彼とはそこで知り合ったのですよ。馴れ初めが軍隊なんてなかなか面白いでしょう?」
「そうそう。おいらが猛アプローチかけてな」
かかとばかりに照れたように笑うダンに、俺は色々と頭が混乱しそうだった。
いや、人種が異なる結婚に反対しているわけではない。そもそも俺はそういう保守的な感覚が死ぬほど嫌いなのだ。しかし、人種以前に種族すら飛び越えて結婚などできるものなのか。
「まあおいら達のことについてはこれくらいでいいだろう。ところであんたはどういう人なんだい?」
「お見受けしたところ、以前私たちの家を設計してくれたニホン人という異世界人かと思ったが」
「…まあ間違ってはいないな。日本人だ」
というか、この家つくったのは日本人かよ。俺の他にもこの世界に来てる人間がいるのか?
「…俺の名前は本多務だ。元いた世界では日雇いの土木作業をしていた」
「ホンダツトム…おいらと比べると随分と長い名前だな。どう呼べば良いんだ?」
「…姓が本多で名が務だから、まあ姓で呼べばいいんじゃないかね」
「セイ…?」
二人共ピンと来ていないようだ。
「まさか、この世界では姓という概念がないのか?言ってみれば家名を表す名だよ」
そういうと、リンが合点がいったように手を打った。
「そういえば、相当昔にはそういうものもあったとは聞いたな」
「おいら達は名前だけだぞ」
驚愕だ。まさか家名を表す制度が廃れているとは…。
「…わかった。とりあえず姓の方で呼んでくれ」
「セイの方ってことはホンダって方か。でも、せっかく名前があるならそっちで呼んだ方がよくないか?」
「おいらも名前で呼ぶ方がとっつきやすいな」
「…好きにしろ」
それからひとしきり話を続けた。二人の話を聞いて色々わかったことがある。まず、この世界にある共和国は相当に寛容な社会だということだ。ダンとリンが異種族間で結婚しているように、この国では多様な人種、民族、異種族が混ざり合う事が普通である。厳密に言えば結婚というよりもパートナーシップ制度と呼ばれているらしい。結婚と言えば夫婦がいて子どもがいて、はたまた夫婦の親の祖父母がいて、といったモデルが想起されるが、ここでは各々が好きに家族を構成するため、そうしたモデルがそのまま当てはまる家は寧ろ少数派のようなのだ。
家制度も一昔前はあったらしいが、今ではほぼ完全に解体されているらしい。理由は諸説あるが、家から束縛されることを否定する市民運動が盛んになったのが一つの原因のようだった。俺のいた世界では到底考えられない話だな…。
「ところで、ツトムはこれからどうするつもりなんだ?」
ダンが菓子を齧りながらそう問いかけてきた。
「…どうすると言われても、いきなりこの世界に来たばかりで何も目的がないからな…。そうさな、とりあえず仕事を見つけることが先決だな。職業安定所のような場所があるなら、紹介してもらいたいんだが」
「おいおい、いきなり仕事探しするのか?もうちょっとゆっくりしてからでも良いと思うけどな」
「いや、仕事しないと生きていけないだろ」
その瞬間、リンがけらけらと笑ってみせた。
「…?何かおかしいことを言ったかね?」
「いやすまない。ツトムはこの国の制度について何も知らないのだから笑うのは失礼だったね」
「パブリカでは市民登録をすれば生活に必要な住居を提供され、最低限の生活保障給付金が支給されることになってるんだよ。共和国憲法15条の市民生存権の保障のためだ」
…そいつはびっくりだ。ベーシックインカムをやってるということか。
「…まあ、何れにしても住居が必要だし、その市民登録ができる場所くらいは紹介して欲しいところだな」
「なるほどな。じゃあ、おいらが今から案内してやるよ。今日は非番だし、どうせ暇だからな」
自信満々なようにダンが胸を叩く。
「じゃあ、ちょっと着替えしてくるから、出発はそれからな」
そういうとおもむろに立ち上がり、居間から出ていった。
とりあえず目下の目標はできた。まず第一に生活に最低限度必要な住居等を確保することだ。まあ、それは恐らくこの国のシステムでは容易いことのようではある。俺がいた世界では生活保護を受給することは社会的な死を意味するが、この国では全市民に差別なく最低限の生活保障が行き届いているからその心配はないようではある。頭の悪そうなネット論客が生活保護受給者を叩いていたのを少し思い出したが、あの精神衛生を害する文面を思い出すだけで胃の中のブツが逆流してきそうである。なぜ連中というのはああも気色悪い文章をぽんぽん思いつくのだろうか。もし、神などというものが存在するのだとすれば、あんな醜悪な生物を生み出した神こそ死ぬべきなのではないか。
仕事はどうしようか。まあ、これはちゃんと探そう。ベーシックインカムのような先進的な制度をつくってる国さ。きっと職業安定所のようなものもあるに違いない。しかし、就活を考えるとそれだけで胃にショットガンでも打ち込まれたような穴が空きそうなくらい気が重い。大学在学中の就活も相当な苦行であったことは間違いないのだが、ムショ送りになったあとの就活も相当な地獄だった。特に社会は犯罪者をゴミのように扱う。前科持ちはまずまともな職場にいくことが難しいのだ。採用されたとしても、いつまでも犯罪者という烙印は機能し続ける。まあ、最悪日雇いの仕事でも見つけてなんとかやっていくしかない…。
というか、そもそも自分のような異世界人ってどれくらいの人口でいるんだ。こういう多種多様な存在が入り交じる社会では、寧ろ自分のような人間は初っ端から差別に遭う可能性も大いに有り得そうだが…
「よし、じゃあ行くか!」
居間に再び戻ってきたダンは、恐らくは軍のものかと思われる制服に着替えていた。勲章が幾つか胸で輝きを放っている。結構近代的な軍隊らしい。
俺は一抹の不安を胸に抱えながらも、この男についていくことにした。
異世界アンダードッグ @Votoms
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