エピローグ

 異変に気付いたとき、すべてはもう遅かったのだと思い知らされた。あんなこと、いわなければよかった。まさか本当に実行するとは。

 高月康太は高校の教室で、ぽつんと一つだけ空いた席を眺めていた。久松愛梨の席だった。彼女が車の事故で人を死なせた、という噂はすでにSNSで拡散されている。そこにはあらゆる誹謗中傷、罵詈雑言が並んでいた。とても同じ人間のすることとは思えなかった。

 彼は教室のほぼ中央の席に座っている。そして愛梨の話をする連中は、決まって康太のほうをじろりと向いてくる。いつも気軽に話していた友達も、だれ一人として寄りついてこなかった。渦中に巻き込まれるのはごめんだ、というように。四面楚歌とはこのことだった。

 愛梨と付き合い始めたのは、高校に入学して間もない頃だった。忘れもしない、野球部の入部届を職員室に提出しに行ったときのことである。顧問の先生が戻ってくるまで待っていてくれ、と別の先生に指示された。そして、入部届を出しにきたのは彼だけではなかった。

 清楚なショートヘアでくりくりの目が特徴的な女の子。「入部届を出しに来たんでしょ」というのが初めて交わした言葉だった。康太は一目惚れした。名前を聞くと、三組の久松愛梨だと名乗った。

 ちらりと用紙を確認すると、吹奏楽部の文字が見えた。聞くと、幼い頃からピアノをやっていて、音大に進学するのが目標らしかった。野球しかやったことのない康太とはかけ離れた世界だったが、それでも彼女の話をずっと聞いていたいと思った。

 彼女のほうからも質問を飛ばしてきた。「もしかして野球部じゃない?」という発言には驚いた。なぜわかったのかと問うと、単純に体格がいいからだとあっさり答えた。

 それぞれ入部届を出し終えた二人は、それとなく連絡先を交換した。何度か顔を合わせるうちに、やがて自然と付き合うようになった。

 交際が順調につづく最中、部活で康太にあるチャンスが到来する。それは、一年生だが試合に出てみないか、というものだった。もちろん快諾した。実力さえあればどんどん試合に使ってもらえるのが、このチームの特徴だった。康太はいわゆる安打を量産できるタイプで、さらに盗塁も得意としていたので顧問に重宝された。小学生の頃は陸上部だったため、短距離の走り抜けには定評がある。

 その活躍ぶりは三年生になっても健在だった。見事予選を勝ち抜き甲子園への切符を手に入れ、代表選手にも抜擢された。そんなすべてが追い風だったとき、突如として不幸は訪れる。

 先月コンビニに出向いたとき、前方から車が突っ込んできた。さすがの康太でもかわす余裕はなく、真正面から追突され、右腕を負傷した。医師からは全治三か月だと告げられた。運転していたのは高齢ドライバーで、アクセルとブレーキを踏みまちがえたと供述している。

 尾上哲司、という名前は一生忘れないだろうと思った。血と汗の滲む三年間の努力が、いとも簡単に奪われてしまった。謝罪の言葉はひとつもなく、高齢だからという理由で片づけられてしまったことに、はらわたが煮えくり返った。

 その内容を愛梨に話すと、彼女も一緒に落ち込み悔しがってくれた。電話の向こうで泣いてくれてもいた。一体、彼女にどれだけ心を救われたか、感謝してもしきれない。

 だが──。

 殺してやりたい、というべきではなかった。しかもその愚痴をこぼした相手が愛梨だった。彼女なら何でも悩みを聞いてくれるという甘い考え。ただ話を聞いてくれれば、素直に自分の境遇を受け入れられる、彼はそう思っていた。

 康太が立ち上がると、周囲の囁きが一律に鳴り止んだ。絡まれでもしたら面倒だ、と思っているのだろう。無論、康太にとってはどうでもいいことだが。

 窓に近づくと、空は申し分ないほどに晴れ渡っていた。もうすぐ九月だが、まだまだ残暑が息をひそめている。教室には冷房が設置されていないため、暑がりの康太はノートをうちわ代わりにしていた。秋風が吹くまでにもう少し時間がかかりそうだ。

 空虚な思いでグラウンドを見下ろすと、体育の授業を終えた二組の生徒たちがこぞって校舎に引き返していく。

 康太は眩しくない程度に、再び空を見上げた。

 できれば彼女に訊いてみたい。あれは故意にやったのか、と。

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クラッチ やすんでこ @chiron_veyron

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